01
……世の中、なにが起こるかわからないって、あれ本当ですね。
野々宮一香、十七歳。今朝、目が覚めたら猫耳がついていました。あ、ついでに尻尾も。
私、どうしたらいいのでしょうか。
※※※※
そりゃあ、猫は嫌いじゃない。むしろ犬より猫派な一香は、己の身に起きたことに驚愕を抱くより喜びを抱き、狂喜乱舞……するわけがなかった。
「なんで!? なんで起きたらこんなもんが頭についてるのよ!」
受け入れがたい現実に、一香は当然のことながらうろたえ、何度も鏡を覗き込み、尻尾や耳を触った。
ふさふさと手触りの良い耳。すらっと伸びた斑の尻尾。どうやら一香は三毛猫だったようだ。
「ってちがーう! おかしいでしょ、なんで三毛猫、なんで猫耳。しかもこんな中途半端に、どっかのエロゲみたく生えやがって!」
エロゲ、やったことあるのか、一香よ。
一香は鏡に映る己に向かって罵倒を吐き、がしがし、と地団太を踏んだ。それから「ああああ、なんで、どうして」と部屋の中を歩き回り、また鏡の中を覗き込んだ。
パジャマ姿に、猫耳と尻尾。気が立っているせいで毛が逆立っているそれらを睨み、試しにピクピクと動かしてみた。
ふさふさ、ゆらゆら。
悲しいことに、尻尾も耳も、一香の思った通りに動く。飾りではない、カチューシャでもない、本当に“生えてきた”それ。
「うあああ、猫耳が生えるにともなって、人耳がなくなってるのが更に怖い!」
誰か夢だと言ってくれ。
いっそのこと引っこ抜いてやろうと尻尾を引っ張れば、「うにゃあ!」後ろ下半身に激痛が走った。
「いった! ……ていうか、今私『うにゃあ』って言った!? 言葉まで猫化してきてるってどういうことー!」
半狂乱で騒ぐ一香。それだけ大騒ぎすれば声が廊下に漏れるのも当然で、大声を上げる一香に、両親が揃って部屋の戸を叩いた。
「ちょっと一香、一体どうしたの?」
「なにかあったのか、一香」
あった。あったけど、両親に見せられるのかこの醜態。答えは当然ノーだ。
「なっ、なんでもないっ! なんでもないから入ってこないで!」
慌ててベッドに潜り込もうとするが一歩遅く
「一香!?」
がちゃ、と扉を開け入ってきた両親に、一香は猫耳アンド尻尾姿をみられてしまったのだった。
「……え、えっと、これは」
必死で誤魔化そうとする一香に、父は深いため息をつき、母はうっと口元を抑え涙をこらえた。
「一香」
「あ、あのね、これは!」
「一香、お前にもついにこの時が来たんだな……」
「はい?」
両親二人が深刻な顔をし、重い空気がその場を包む中、一香の場違いな声が室内に響いた。
※※※※
いつか、言うべきだとは思っていたんだ。
父親はそう言って話を切り出した。
地球とは違う、別の次元にある世界に、リオシュタルテと呼ばれる国がある。一香たちは、もとはその国の住人で、ネイラ族と呼ばれる一族に属していた。ネイラ族とは、地球でいう猫に近い種族で大抵の者は猫の姿で生き、死んでいくのだが、一族の中でも強い魔力――どうやらリオシュタルテには魔法というものがあるらしい――を持つ者は人型をとることができた。
「つまり、簡単に言えばネイラ族って“魔族”ってこと?」
「まあ、そうなるかな」
魔力をもつ猫――ネイラ族は、物語にでてくる魔族のように人と敵対する一族ではなく、むしろ人間に友好的な一族であった。人と契約を結び、使い魔としてその人に仕え、生活を送る。
私たちにも、地球にくる前はマスターがいたんだよ、と父は言った。
一香の両親は、人型をとれることからも分かるように、一族の中でも高位の猫で、いわゆる王族の地位にあったらしい。リオシュタルテで仕えていたマスターも、同じく王族の家系にあたる人で、それが地球に逃げてきた原因でもあるという。
「どういうこと? その、マスター? 酷い人だったの?」
「いいえ、とてもいい人だったわ。初めは、ね」
当時リオシュタルテは権威争いのただ中にあった。王位に就いていた国王が病に倒れ、国は王弟派と、まだ幼き王太子派とに二分した。国王は実の子、王太子に国を継がせたがったが、けれどまだ十にも満たない幼子に、一体何が出来よう。しかも王太子は正妃の子ではなく、側室の生んだ子供。そのこともあり、王太子は確固とした後ろ盾を持つ王弟に押されつつあった。
「マスターは王太子派だったのだけどね、徐々に劣勢になっていく王太子に、なんとかして強い後ろ盾を用意しようと躍起になっていたの」
じきに、マスターは両親に王弟派の暗殺を命じ出した。
人を守ることが仕事であった父と母は、マスターの命令に眉を顰めたが、けれど主人の言うことは絶対。初めにそういう誓いを立てさせられているため、渋々とそれに従い大勢の人をあやめた。
「マスターは、どうしても王太子に国を継いでほしかったみたい」
「でも、そんな、人を殺してまで王太子を王位に就かせるなんて間違ってる!」
「政争というのはそういうものだわ」
どこか諦めを含んだ声で母はそう言って、目を伏せた。
「けれど、ついに限界が来た」
きっかけは、生まれたばかりの一香を、マスターが王太子に差し出せと言ってきたことだ。
「私!?」
三毛模様の耳がピンと揺れる。
「ネイラ族に、三毛模様の猫はめったに生まれないの」
「え?」
ネイラ族は基本的に黒と白色の猫が多い。ごくたまに茶の猫も生まれたりするが、大抵は皆一色きりの猫で、まだら模様で三色も有する猫は非常に珍しいのだ。
「三毛猫は神の使いとも言われてね、リオシュタルテでは建国神話に登場するくらい神聖な猫として崇拝されているの」
そして、両親のマスターはそれを利用しようとした。
三毛模様で、しかも人型になれる一香は、まさに神が使わした奇跡のようなもの。
その神に祝福されし猫を、使い魔とできたなら――神に後ろ盾を貰ったも同然。
「でも、人との契約は基本的に成人になってから、両者間の同意のもと行われるものなの。それなのに、」
マスターはその決まりを破って一香に王太子と血の契約を結ばせようとした。
「私たちは何度も反対したわ。一香はまだ幼い。生まれたばかりで魔力の融合などおこなったら、死んでしまうかもしれないって」
「しかし、マスターは聞いてはくれなかった」
「……だから、逃げてきたの?」
「ああ。ネイラは仮にも魔族だから、異世界を渡る術も知っていた」
禁忌の術だったけれどね。と母は付け足して笑う。
ちなみに、両親はこちらに渡る際、マスターに見つからないよう己の魔力と一香の魔力に封印を施したらしい。
だから、今、一香の向かいに座る両親の耳にも尻にも猫を示すものはついていないし、一香も昨日寝るまでは普通の人間のような外見をしていた。
「で、なんでいきなりその封印とやらが解けちゃったわけ!?」
しかも私だけ! 毛を逆立てる一香に、両親は。
「多分、“成人”したせいで魔力が顕在化して、封印にゆがみが出たんだと思うわ」
「意味、分からん……」
「ネイラは成人したときに初めて己の持つ魔力が定まるの。もちろん、それまでも身の内に魔力は潜んでいるのだけど、一定じゃないというか、変動的で、常に不安定な状態なのよ。だから、人との契約も成人になるまでしてはいけないことになっているんだけど」
「いやぁ、随分と美しい猫になったなぁ、一香……」
しみじみという父親に、「嬉しくないから」と耳を伏せる。
「これ、元に戻らないの?」
このままじゃ学校にも行けないよ。
「戻しちゃうのか?」
「あったりまえでしょ――!」
馬鹿なことを言うんじゃない、と返事をして、ふと気づく。
――今の声、誰?
低い、少しハスキーな甘い声。
父の声も低いけど、こんなにクラっときそうないい声じゃない。
恐る恐る部屋の入り口に目をやると。
――誰。
なんともファンタジーな格好をした不法侵入者がそこにいた。
「久しぶりだなぁ、ナツ族長。いや、元、か。今は貴方の弟君がネイラを率いているよ」
「――セイ、様」
父は立ち上がり、一香と母を隠すようにして侵入者――セイと呼んだ男の前に身を置いた。
「よくここがお分かりになりましたね」
「いや全く、探したよ。この十六年間、どれだけの世界を渡り、どれだけの人力を割いたことか」
まさか己の力を封印しているとはね、とセイは笑った。
嫌な笑い方。
笑みを浮かべながらも、その瞳の奥は冷え冷えと凍り付いている。
「成人した際の魔力の揺らぎで、ようやく辿り着けた」
薄い水色の瞳が一香を見やる。
「彼女は連れて行く」
「そんな――」
「まだ政権争いは続いていたのですか!?」
ぎゅっと一香を抱きしめる母に、「いや?」セイは首を振った。
「もう、とっくに終わったよ。叔父上が後を継がれた」
叔父上、ということはこいつ、王太子か。
紡がれる言葉にはなんの感情も見透かすことができない。
「では何故」
「イチカは私のものだ」
どこか聞きなれない発音で名を呼ばれ、一香はビクッと肩を揺らした。
言葉だけ聞けば告白のようにも聞こえるが、おそらくそういう意味ではないのだろう。
叔父上――王弟が王位に就いたと彼は言った。もしかして、改めて一香を手に入れ、叔父から王位を奪い返すつもりか。
「イチカ」
差し出される手を、じっと睨み、
「か、勝手なこと言わないでください!」
気づけばそう口にしていた。
「な、なんなんですか、貴方! 勝手に人の家に入ってきて、誘拐宣言するわ、不法侵入だわ、偉そうだわ。私は、ただの女子高生です。特別な力なんてないし、そりゃ猫耳猫尻尾生えてきて、すごい驚いたけど、ネイラ族とか、リオなんとかとか言われてもさっぱり分からない!」
さっさと力を封印して元の日常に戻るんだ! グッバイ非日常。さようならファンタジー。
「よく言った! 一香!」
「そうよね、一香、ほら、さっさと力封印しちゃいなさい」
わっと声を上げる父に、母が続く。
そう、封印をね、って……え?
「封印って、お母さんがしてくれるんじゃないの?」
キョトンと首をかしげると、
「自分でするに決まってるじゃない。母さん達、もう魔力ないもの」
封印なんて出来るはずがないじゃない、という。
「えええええええ!」
生まれてこの方十七年。魔法なんか使ったこともない一香にいきなり無理難題を言う両親である。
「ふ、その驚きよう、できぬようだ」
びっくりしているうちに、セイがいつの間にか父を退け、すぐそばまでやってきていた。
魔法なのか、父は光る輪のようなもので拘束され、身動きが出来ないようにされている。
「まあ、無理もない。この世界は魔法がないようだし、今まで封印されていたというのだから、他の術すらもロクに使えぬのだろう?」
「うっ……」
痛いところを。
言う間に、母までもが拘束され、一香はじりじりと後退するしか術はない。
「一香! なんでもいいから対抗して!」
無茶言うなぁあ!
「ええっと、」
魔法、魔法。
「ふぁ、ふぁいあーぼーる……とか……」
「なんの呪文だ?」
くす、と笑われ、一香は顔から火が出るかと思った。
「一香ちゃん、魔法を使うときは呪文を言わなくてもいいのよ」
「そうだ、とにかく頭に具体的なイメージを思い浮かべて、それを念じて具現化しろ」
そんなこと言われても!
後ずさる一香に、セイは獲物を見つけた野生動物のように面白そうな表情を浮かべ迫ってくる。
「うあああああん! もう、なんでもいいから、出てぇええ!」
カメ○メ波の要領で両手を前に突き出し、一香は叫びながらでかい白い光線を思い浮かべた。
と、
ポヒュッ!
間抜けな音を立てて、何かが出た。
おお!
と目を輝かせたのもつかの間、丸い火の玉みたいなそれはヘロヘロと宙を漂った後、ポンッ! 壁にあたって弾けとんだ。壁にはほんの少しのこげ後がついた程度だ。
というか、敵にすら当たってないってどういうこと!
涙目になる一香を、セイは問答無用で抱え上げ、「それじゃ、頂いていこうかな」と言って瞬間移動のごとく消え去った。
勿論、一香ごと。
※※※※
「放せ、放してー、変態! 誘拐犯、馬鹿、アホ、セクハラ、馬鹿王子!」
薄れていく両親と、リビングの風景。それが完全に消え去った後、一香は見慣れぬ西洋風の一室にいた。立派なソファとテーブル、火のついていない暖炉と、大きな……寝台。
「いやあああ! 家に戻して!」
急に危険な香りが込み上げて、一香は思いっきりジタバタと抱えられた身体を動かした。
「こら、暴れるな」
これが暴れずにいられるか!
荷物のように肩に担がれている今現在。抑えられている足で必死にセイの胸を蹴ったり、その背にぎゅっと爪を立てる。が、それでもセイはバランスを崩すことなく歩みを進め、やがて先ほどちらと見えた寝台に一香の身体を下ろした。
「イチカ、私の使い魔となれ」
「絶対にいや!」
政権争いに巻き込まれるなんて真っ平ごめんだ。そうでなくとも、平等な世界で育った一香にはご主人様ーなんて人を敬い、それに仕えるなんて想像もできない。
「それでは、仕方がないな」
言いながら、セイは諦めるでもなく両親を拘束した光の輪で一香の手首を捉えた。
「ちょっ何す――っ!」
ブチッとパジャマの襟元が強引に開かれる。その勢いで丸いボタンがどこかへ飛んでいくのが見えた。露になった首筋にセイは歯を立て、まるで吸血鬼のように一香の肌に噛み付いた。
「いっ……」
尖った犬歯で肌を破られ、そこから流れ出た血を舐めるように吸われる。
血――血の契約!?
「いやっやめて!」
もがくが、セイに身体ごと押さえつけられびくともしない。やがて、必要な量血を吸ったセイは顔を上げた。口の端に、一香の血が滲むようについている。それを片手でふき取った後、セイは傍らの卓にあったナイフを手に取った。
「なに!?」
突然目の前に晒された刃物に、一香は体を強張らせる。が、セイがそれで傷をつけたのは己の腕だった。一香の血を吸ったときと同じようにそこに口をつけ、血を含む。
血の契約、魔力の融合。お互いの血を混ぜることが、それを意味するのだろうか? 青ざめながら、それを見守っていると、不意にセイがこちらに顔を寄せた。
また血を吸われる?
ぎゅっと目を閉じて首筋に降ってくるだろう痛みを覚悟したとき
「っ――?!」
一香の唇になにかが触れる。
それは動揺する一香の口を割り、ぬめる感触をともない、咥内に入り込んできた。驚いて閉じようとする口を、顎を掴んで固定して、鉄の味がする液体が喉に流し込まれた。
――コクン
唾液とともに含まされ、抗うこともできずに飲み込む。
その後も、セイはしばらくの間一香の咥内を蹂躙し、やがて満足したように離れていった。
「これで、お前は私の使い魔だ、イチカ」
呼ばれた名前に、一香の胸がドクンと高鳴る。
最初に名を呼ばれたとき感じた恐怖ではなく、キスを受けたことによる恋情でも勿論ない(というか、今のはキスなのか)。
絶対の忠誠心。この人には逆らえないという、圧倒的な力。
息苦しさに滲む涙が、一滴、シーツに零れ落ちた。
「はい、マスター」