一度目の人生で愛したあなたへ
穏やかな風が吹いていた。初めて訪れる王城の奥深く、招かれた人にしか立ち入りを許されないその場を案内されながら、私は物珍しさに少し視線を走らせた。
――先月、王太子殿下のご子息が五歳の洗礼式で、時を司る神・クロノス様の加護を授かったのだという。祝福で城内が華やぎ立つ中、アルノー伯爵夫人である私のもとへ届いたのは、身に余る呼び出しの報せだった。
(お会いしたこともない第三王子、アーヴィン様からのお招きを、どうして私が?)
戸惑いを隠せぬまま案内された東屋で、私は静かに頭を下げた。
「顔を上げてください、アルノー伯爵夫人」
落ち着いた、けれどどこか寂しげな声が降ってくる。顔を上げると、そこには輝く黄金の髪とは対照的に、深海のように暗く沈んだ瞳を持つ貴公子が立っていた。
「……突然の呼び出しに、驚かれたでしょう」
「滅相もございません。ただ、私のような者が殿下のお目に留まるような出来事など、身に覚えがございませんでしたので……」
夫であるライナス様にも心当たりは無いと言う。どうしてこの場に呼び出されたのか、これから何を言われるのか、予測を立てることさえも難しかった。
…ただひとつ。心当たりがあるとすれば、半月前に幼馴染のリゼットが捕まった事件の事。
幼馴染とは言え、私がライナス様と結婚した頃――リゼットは学園に入学していたので、それ以降の付き合いは全く無いのだけれど。
そのリゼットが、何やら恐ろしい禁術を犯した疑いで騎士団に捕まったのだと耳にした。
(美人でハキハキとしていて頼もしかった彼女は、一体何を起こしてしまったのかしら…)
騎士団ではなく殿下に呼び出されたのは不思議だが、リゼットに関して質問されるのだろうか。少し身構えていると、殿下からティーセットが置かれた席を勧められ、静かに腰を下ろした。
「……ただ、少しだけ、貴女と『もしも』の話をしてみたくなっただけなのです」
アーヴィン様は遠くの空を見つめるように、緩やかに目を細めた。思っていた話題と違う事に僅かに首を傾げる。
「もしも……まったく別の人生があったとしたら、どうでしょうね」
「…別の人生、でございますか…?」
「ええ。…もしも、貴女の家が事業に失敗する事なく、貴女が学園に入学していたなら…。…私と貴女は、学園で知り合い、共に時を重ねて――」
僅かに寂しさを宿した瞳がこちらに向けられ、私は一瞬息を呑んだ。
「もしかすると、恋に落ちていたような……そんな人生があったかもしれない」
穏やかで、甘く、けれどどこか切ない響きの言葉。もしもの話なのに、なぜ殿下はこれほど哀しげな顔をされるのだろうか。
(別の人生?殿下は一体何の話をされているの?)
私の中に殿下に対する特別な感情はない。目の前にいらっしゃるのは、今日初めて言葉を交わした雲の上の尊いお方でしかないのだから。
(もしかすると殿下は私に愛妾になれとおっしゃっているのかしら?
…いいえ、大変高潔な人格者だと聞いているわ。ご婚約者である侯爵令嬢様を蔑ろにされるような方ではないでしょう…)
ふいに、ライナス様の顔が頭をよぎる。
大切な取引書類の紛失と情報漏洩により、実家が莫大な違約金を抱えて窮地に陥り、学園へ通うことすら諦めざるを得なくなったあの日。絶望の中で手を差し伸べてくれたのは、冷酷な仕事人間と噂されていた若き伯爵であるライナス様だった。
形だけの契約結婚から始まった日々だったけれど、不器用ながらも真摯に向き合ってくれる夫と少しずつ心通わせ、互いに温かな情を寄せるようになった。今では幼い娘と三人、ささやかでかけがえのない幸福の中にいる。
侍女が入れてくれた紅茶の香りを静かに吸い込み、心を落ちつかせる。
「……とても素敵なお話でございますね」
私は静かに微笑み、応えた。
「ですが、私には別の人生よりも、今の人生が何よりの宝物でございます。大切な夫と愛しい娘がいる今の暮らし以上に望む幸せは、ございません」
アーヴィン様は私の言葉にふっと口元をゆるめ、優しい瞳で私を見つめ返した。
「そうですね。あなたは……どんな道を選んでも、きっとその手で温かな幸せを育む方だ」
ひとときの静寂が二人の間を吹き抜ける。
「どうか幸せに」
「ありがとうございます。殿下におかれましても、どうかご多幸であられますようお祈り申し上げます」
深くお辞儀をして去り行く私の背中を、アーヴィン様はただ静かに見送っておられた。なぜだか分からない理由のない寂しさを胸の奥に一筋だけ残して、私は夫と娘の待つ邸宅へと足を向けた。
◇◇◇side リゼット
冷たく湿った牢獄の奥で、硬いベッドの上で震えながら膝を抱える日々。
取り調べで隠していたすべてを吐き出させられ、あとは判決が下る裁判の日を待つばかりとなっていた。
「なんで……どうして……!」
壁に打ち付けて血が滲んでしまった拳を強く握りしめる。
(私は間違っていない…!)
私の幼馴染――ネリア、あの憎たらしい女。同じ男爵家で私の方が圧倒的に美しいのに、いつも人に囲まれ、能天気な顔で幸せそうに笑っている。それが許せなくてたまらなかった。
(ネリアの持つものすべてを奪ってやりたかった)
一度目の人生。
私と共に学園に入学したネリアは、第三王子のアーヴィン様と恋に落ち、図々しくも婚約をした。
このままでは卒業後に臣籍降下したアーヴィン様と結婚して、ネリアが公爵夫人になってしまう。そんなのおかしい!あり得ない!!
(だから、下町の闇魔法使いから禁術の時戻しアイテムを買って、世界を巻き戻したのよ)
学園に入学する前まで遡った二度目の人生。
ネリアとアーヴィン様、二人が出会う前に、親切な幼馴染のふりをしてネリア家族に貧乏男爵令息エミールとの縁談をしつこく勧め、半ば強引に婚約まで推し進めた。そして、今度こそ私がアーヴィン様の隣に立つつもりだった。
…なのに一度目の人生と同じで、アーヴィン様は私に見向きもしなかった。
(ネリアを意識して、話し方も真似したのになんで!?何がいけないっていうの!?)
学園卒業後、仕方なく嫁いだ仕事人間のアルノー伯爵との生活は冷え切り、浮気と浪費を繰り返した私は数年であっさりと離婚された。
惨めな思いで過ごしていたそんな時、目に入ったのは、少しずつ領地を豊かにしながら、夫と二人の息子に囲まれ心から幸せそうに笑うネリアの姿だった。
(あんなに貧乏だったくせに、なんで幸せになってんのよ……ッ!?)
許せなくて、再び時を戻した。
三度目の人生ではネリアの家を破滅寸前に追い込み、学園に通う道すらも奪った。
簡単よ?遊びに行った時に執務室に忍び込んで、取引の重要書類を盗み出して競合相手に売りさばいてあげたの。信用第一の商売だもの、情報漏洩と違約金で一気に傾いていく様子は見ものだったわ。
そして、今度は自分がエミールを奪って結婚して幸せになってやろうとしたのに――待っていたのは開拓もろくに進まない、想像を絶する貧しい生活。それこそ、裕福な平民の方が私よりも良い暮らしをしているじゃない!
(ネリアと結婚した時には、順調に領地を盛り上げていたくせに!)
私が学園に入学した頃に、売られるようにして冷酷な仕事人間のアルノー伯爵と結婚していたネリアは、二度目の私と違ってアルノー伯爵に愛され、娘を授かって確かな幸福の中にいるのだと噂で聞いた。
(どうして、どうして、どうして!??私と何が違うっていうの!!?)
いつまでも変わらない貧しい生活に嫌気がさし、下町に赴き、三度目の時戻しアイテムに手を伸ばした瞬間――騎士団に囲まれ、捕まったのだった。
「なんで……!奪っても、奪っても、あいつばかり……!」
どれほど邪魔をしても、何を奪っても、ネリアの周りにはいつも温かな光が灯る。
自分がどれほど求めても手に入らなかった幸福を、ネリアはいとも容易く芽吹かせてしまうのだ。
「私は悪くない……!私はただ、幸せになりたかっただけなのに……!」
闇のなかで叫ぶ私の嫉妬と怨嗟の声は、冷たい石壁に虚しく響くだけだった。
◇◇◇side アーヴィン
時戻しの禁術アイテムを調合し販売した闇魔法使いは、騎士団が捕縛する直前に、まるで花が枯れるかの様に、見る間に老いて骨と皮だけの老木のような姿となり息絶えたのだと報告を受けた。
神の領域を侵した報いなのだろう。
(…クロノス様が甥に加護をお与えにはなったのは、この人生が初めてだ。神の領域を犯す愚か者を見逃すのもここまで、という事か…)
東屋で一人、私は彼女が立ち去った方向をただ見つめていた。
私に対して特別な感情など何ひとつなく、ただ初めて会う王族への礼儀だけを湛えていた彼女の瞳を思い出して、胸の奥が少しだけ疼く。
(ついぞ、あの温かな瞳が私に向けられる事はなかったな…)
――甥がクロノス様の加護を得たことで、王族のみに明かされた、歪められた歴史の真実。
神に見せられた記憶の中で、穏やかな声で私の名を呼び、温かな瞳を細め、照れたように微笑む少女。見覚えのないはずのその笑顔を見た瞬間、私の胸にはどうしようもない感情が広がった。
私自身が経験したわけではない記憶だと分かっていても、どうしても心が揺さぶられてしまった。
それは、一度目の人生でしか手に入れる事が出来なかった奇跡だと理解してはいたが――ただ一度だけ、彼女と会って話をしてみたいと思ってしまった。
(彼女が幸せそうで良かった)
一度目の人生で愛し合った彼女の面影は、今の彼女の中にはどこにもない。だが、記憶を失い、人生を狂わされてもなお、彼女は目の前の境遇を愛し、自分の手で温かな幸福を築き上げていた。
もしも時が戻されなければ、もしも彼女が学園に入学していれば――頭をよぎったそんな「もしも」の幻影を、私は静かに風の中へ溶かしていく。
今はもう見えない彼女の背中に、言葉にできぬ感謝と、二度と交わることのない幸せを深く祈った。
「……さて」
いつまでも過ぎ去った幻に囚われているわけにはいかない。私には、今の人生で共に歩むと決めた大切な婚約者がいるのだから。
「時戻しの事件で忙しくて、久しく手紙を出していなかったな…。近いうちに、彼女の好きな菓子でも添えて届けるとしよう」
胸の奥に残る苦い切なさを溶かしながら、私は今の人生をゆっくりと歩き出した。
◇おわり◇
与えられた環境で、なんやかんや上手くやっていけるネリア。
全てが妬ましくて、でも自分で努力はしないリゼット。




