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あなた ~生まれる前、鏡の中で「私」に会いました~

作者: 雨鳥潤
掲載日:2026/09/19

視点が変わります。


 仰向けでただぼうっと見上げると、小さな水紋が無数に当たっては砕け、当たっては砕けを繰り返していた。暖かい陽光がさらさらと降り注ぎ、遠くでこぽこぽと、水が湧き出る音が聞こえた。私はそこで、とろりと目を和らげていた。

 優しく光る水面は手を伸ばせば届きそうで、手を伸ばしてみたけれど、その手は空を切っただけだった。


 ふと、暗い影が陽光を遮った。ビクリと身体を竦ませると、どこかユーモラスな丸い目が私を見つめ、ついと体をよじらせ泳いで去った。魚だった。


 そのまま私は寄っては砕ける水の欠片を見ていた。どこからか、水泡が愉しげに水面に上っていく。白銀の腹を煌めかせる魚たち。視界の隅に、新緑色の水草が踊っていた。

 あまりの美しさにため息をつくと、ごぽりと大きな泡が立ち上っていった。


〈なるほど 水泡は〉

〈私の吐息だったのか〉


私が息を吐くたびに、小さな水泡が煌めきながら上へと進む。それは、とても綺麗な光景だった。普通に息をしているはずなのに不思議と苦しくはなかった。



 起き上がろうと地面に手をついた。その、あまりの柔らかさに瞠目した。


 金色の、砂。


 光をため込んだ様に、自らがほんのりと発光している。それを、そっと手のひらですくうと、しゃらしゃらと涼しげな音をたてながら、指の間からこぼれ落ちていった。その感触が、少しくすぐったい。


 体を起こすと、周りを泳いでいた魚たちがすり寄ってきた。赤や黄、青や黒などの鮮やかな色どりで、豊かな尾びれを自慢するように、愉しげに。


 横になっていた時は、あんなにも近くに感じていた水面も、起き上がってみると全く近づいた気がしない。思ったより、深いようだ。

 左右を見回すと、つられたように黒い髪がふわりと漂った。はらはらと揺れる髪の中に、周りを泳ぐ彼らが入り込み愛らしい顔をのぞかせる。それを見て思わず微笑んだ。

 どこまでも続く金色の砂地。新緑の水草と、鮮やかな魚たち。裸足の肢に、砂が優しく絡む。



 とりあえず、歩いてみよう。私は立ち上がり、ぐるりと見回す。魚たちも楽しげに踊る。水泡がきらきらと輝いた。頬を撫でる水の触手。砂を踏むたびに金色が舞う。

 体が軽い。肢に、腕に、首に、水が絡みつく。暖かな光に包まれ、私は歩を進めた。



 しばらく歩くと、ごつごつとした岩が立ち並ぶ場所に出た。日の光が届きにくいのか、だんだんと薄暗くなってくる。魚たちも、一匹、また一匹と姿を消していった。やがて、彼らの姿は見えなくなってしまった。私は一人ぼっちになった。岩は私に迫るようにだんだんと高く、徐々に間隔を狭めて立っていた。


 なにか胸騒ぎがする。このまま先に進まなければ、私はきっとこの素晴らしく美しい世界に存在できる。でも、進んでしまえば、この先にある何かを見てしまえば、もう心地よいまどろみに浸ることはできなくなるような気がする。


 それでも、私は進み続けた。不安。期待。焦燥。希望。恐怖。好奇心。胸がどきどきする。耳元で潮騒が聴こえる。血液が体中で沸き立つような、不思議な感覚。

 胸元で手を握りながら、祈るような恰好で歩を進めた。ここまでくると陽光はほとんど届かず真っ暗に近かった。水は冷たく、足元の砂も、どこか尖っているように感じられる。怖い。呼吸が速くなる。

それでも、私は進むことを決めた。


 突如、光が見えた。暗闇に慣れた目には眩しすぎるほどの、光。


 そこは広場だった。無秩序に並んでいるように見えた岩がその場所を隠し、円状の広い空間を作り出していた。そこに、まるでスポットライトを当てているかのように一筋の光が差し込んでいたのだ。

 スポットライトの中心に、それがあった。



 ――鏡。



 それは、息をのむほど美しかった。等身大の、姿見のようなそれ。そのふちには荘厳なほどの細工が施されていた。銀なのだろうか。鈍色に輝くそれに、水や光や火や魚や鳥や動物などのレリーフが彫りこまれ、深く、立体感のある今にも動き出しそうな、そんな鏡がポツリ、と佇んでいた。


 静かだった。いつの間にか、水が湧き出る音も、陽が降り注ぐ音も、魚たちが鱗をこすり合わせる音も、すべてが消えていた。耳が痛いほどの、静寂。


 私は、誘われるように、その鏡の前へ進み出た。そして、それを覗き込んだ。


 ――困惑。

 

 そこに映っていたのは、私ではなかった。


 肌が、透き通るように白い。

 まるで大理石のような病的な白さをしていた。私は、自らの腕を見てみた。薄い象牙色にわずかな黄みを含んだ肌。決して鏡に映るような白い肌の色はしていない。


 髪も、雪のように白かった。髪だけではない。睫も、眉毛も、真っ白。水に揺られていた私の髪は、確かに黒かったのに。


 そして、瞳の色。その双眸は、美しい緑色をしていた。新緑の透き通るような緑を。しかし、私のような東洋人の眼は、黒か茶色なのだと思っていた。きっと、こんなに綺麗な緑ではない。


それなのに、鏡に映る彼女は、確かに私と同じ動きをする。でも、確かに私とは違う。

じゃあ、彼女は……


〈――誰?〉


 首をかしげた時、鏡の彼女は哀しい笑みを浮かべた。はっとした。私は笑みなど浮かべていない。彼女は、彼女の意志で微笑んだのだ。哀しそうな、笑みを。

 私が呆然としていると、彼女はその表情のままこちらへ手を伸ばした。私もつられるように、彼女へ手を伸ばす。


 冷たい鏡面に手が触れる。彼女の、白魚の指に触れることができないと思うと何故か胸が痛んだ。何故だろう。彼女に、触れたいと思った。


「貴女は……」


 彼女が口を開いた。美しい緑に、涙を浮かべ。それでも微笑んでいた。


「貴女は、貴女らしく……ね?」


 よく、わからなかった。それでも、衝動的に頷いた。すると、彼女は幸せそうに笑った。何かを悟っているような、深い、暖かい笑みだった。

 そして彼女は、すうっと、溶けるようにその姿を消した。水の中にいるはずなのに、私は頬を伝う涙の感触をただ感じていた。



 突如、世界が振動した。思わず座り込んだ私は、必死で周りを見渡した。立ち並ぶ岩も揺れ、美しい光も影っていた。


 立ち上がることもできずに、私が座り込んでいると、地面が沈んだ。驚きのあまり動けずにいると、まるで流砂のように砂に引きずり込まれていった。


 悲鳴をあげようと口を開けると、ごぽりと水のようなものが口に流れ込んできた。どろりとしていて、苦いものが口に充満する。どこかへ落ちるようだ。落ちていくその道は、狭く、暗い。頭が締め付けられ、激しい痛みを感じる。体の骨も、歪むようにその細い道にぎちぎちと捻じ込まれていく。痛い痛い痛い締め付けられて狭い怖いあああ.ぁあ誰かああああ苦シいああああ見えナイぁああああ助けテぁああ、あああお、かあ、さ、ん…………――――――――――――――



 ――光が、見えた。




  * * *




 目が霞む。この世のものとは思えない痛みが全身を襲う。部屋を明るく照らす照明が妙に眩しく感じた。声を出さないと息ができなく、彼女はただ眼尻に涙を浮かべた。

腰が砕けそうで、瞼の裏を閃光が駆け抜けていく。


――まさに命がけの出産。


そんなことを思いながら、ただ痛みに耐える。

ずるり、と血塗れの子どもが出てくる。


――ああ、産まれた!


歓喜でまた涙が零れた。すでに枕は涙で濡れていた。


「おめでとうございます!」

「元気な女の子ですよ!」


 白衣に身を包んだ看護師たちが、それぞれ彼女に笑顔で声をかけていった。彼女は、荒い息の中ただ嬉しそうに微笑んでいた。


 彼女の初めての出産で、死ぬかと思うくらいの痛みをこらえ、産んだ子ども。

 全身から力が抜け、彼女は分娩台にぐったりと横たわった。体が重い。ベッドにずぶずぶと沈み込んでいきそうな感覚。赤ん坊の産声が元気に響いていた。


――難産、だった。


 彼女は今までの苦労を思い出し、目を閉じた。普通の人の倍ぐらいの時間をかけて、あと少しかかるようなら、帝王切開をすると言われた時だった。


――早く、子を腕に。早く抱きたい。


 虚ろな眼差しで、先生を探す。先生は近くの看護師に子どもを産湯で洗うように指示していた。


「先生?」

「なんだい?」

 額に玉のような汗を浮かべた先生が、やさしい笑顔で体を傾ける。彼女は話すことすら辛い状態で、先生に問いかけた。


「私の、子は?」

 先生は、一瞬険しい顔をした。不安になった。


まさか、我が子に何か。今も元気に産声をあげているが、我が子に何が。

 不安になった彼女に、先生は微笑みかけた。

「大丈夫です。今連れてきますね」

 ほっとした。どうやら、無事なようだ。今か今かと待ち構える彼女のところに、その子はやってきた。


 

――白かった。


 

 息をのんだ。

肌も、髪も、睫も、眉毛も白かった。まるで白いペンキに浸されてしまったかのような、病的な白さ。彼女もその夫も、髪も眼も黒い。

 これは、どういうことなのだろうか。どこか、悪いところでもあるのだろうか。すがりつくような眼で見つめた彼女を、先生はなだめるように言った。


「どこも悪くありませんよ」


 先生の説明によると、赤ん坊は先天性色素欠乏症なのだそうだ。通称アルビノ。生まれつき色素が人より少ないそうだ。髪や肌の色、紫外線に弱いこと、乱視、近視など目に関すること以外は、他の人と変わらない。


「そう、ですか……」


 他にも先生が何かを言っていたが、耳に入らなかった。彼女の胸の中で、元気よく産声をあげる子どもをただ、彼女は抱きしめていた。


 ショックだった。


 目の前が真っ暗になった。それは、子どもがアルビノだからということが全てではない。この子に、降りかかる苦難を思い、ただ申し訳ないと思った。普通の子とは違う苦労もたくさんするだろう。辛い思いもたくさんするだろう。ただ、それが申し訳なかった。けれど、それでも彼女は、胸にこみ上げる感情を抑えきれなかった。


――愛しい。愛しい愛しい愛しい。


 すやすやと眠る、くしゃくしゃの顔の赤子。可愛くて可愛くて仕方ない。どんな子であろうと、どんなに重い障害を持っていようと、どんな子どもであろうと、この子は、私の愛する子だ。腹を痛めて、死ぬ思いで産んだ、私の子ども。愛さないわけがない。そんな思いで胸が熱くなった。


 柔らかい、真っ白な頬をつつく。ぷにぷにとした感触に、涙がこぼれた。


 彼女の腕の中で、ただ寝息を立てる貴女。

 ただ、彼女が願うのは――




「貴女は、貴女らしく……ね?」




   * * *


 朝、病院に行く準備をする途中、目にとまった鏡。そこに映る白い私。

まじまじと見つめ、手を伸ばす。鏡の中の私も同じように、手を伸ばしてきた。


 白子として生まれた私。肌が弱く、目立つ髪も染められない。ペンキに浸したかのような白い肌に白い髪。大理石のように、血管も透けてしまう。そして、薄い薄い緑の瞳。

 メラニンがないから、皮膚がんの発がん率が他の人より格段に跳ね上がる。光が異常に眩しくて、外に出るときはサングラスがないと目が痛い。眼振で、眼球が細かく震え傍から見ると一目で何かを患っていると分かってしまう。


鏡を見ながら、ため息一つ手のひらに落とした。

 良くも悪くも目立ってしまう容姿。これまでたくさんいじめられた。偏見の目で見られた。好奇の目や侮蔑の視線も浴びてきた。あちこちで交わされた何気ない悪意の声。無責任な言葉。知ったかぶりの偽善者。世間の目が辛かった。


「あの人気持ち悪い」

――悪かったわね。


「普通じゃないわ、あの子」

――白くてごめんなさい。


「何あれ、格好いい!」

――何も知らないくせに勝手なことを言わないで。


「目、赤くないんだ」

――だから何?


「いろいろ苦労するでしょう?」

――私は味方よ、とでも言いたいわけ?


 電車に乗るたび、街を歩くたび、病院に行くたび。視線が怖くて辛くて面倒くさくて。


――どうして、私は違うの?

――どうして、母さんは私を産んだの?

――こんな思いをするくらいなら、生まれてきたくなかったッ!


 嗚咽をこらえながら、何度も泣いた。泣きじゃくった。激情に駆られて暴れたこともあった。

 そんな私を母は、唇を噛みしめて、血を流しながら止めていた。母も、苦しかったのだろう。今なら、その気持ちが少しだけ分かるような気がした。きっと、母は自分を責めただろう。つらい思いをさせてごめん、と。代われるものなら代わってあげたい、と。私を押さえつけながら、きっと母は心を引き裂かれるような思いだったろう。


 今なら、ちょっとだけ分かるような気がする。

 今なら、ちょっとだけ。


 回想にふけりながら、冷たい鏡に指を這わせる。滑らかな触感が心地いい。

 多分、産まれる前に見たとても幸福でとても優しい夢。水の中の私は、黒髪黒目だった。そこで鏡に映る私は、今の私の姿だった。


 そして、私は産まれた。アルビノとして。


 洗面台の前で、私は鏡の中の私をじろじろと見つめる。

 

 今になって思うのだ。

 鏡に映った、白髪碧眼の自分の姿。

 夢の中での黒髪黒目の自分。

 それは、どちらも私なのだと。

 

 本来ならば黒髪黒目で産まれてくるはずだけれど、私は違った。黒い私は母の胎内に忘れてきたのだろう。それでも、もういいのだ。

 

 鏡に映る自分が、ふと、黒髪黒目に見えた。それはきっと、目の錯覚。私は鏡に手を伸ばし、黒い私に微笑みかけた。黒い私も、同じように微笑んでいた。


 ――もういい。

 ――白い私を認めてくれる人も。

 ――白い私を愛してくれる人も。

 ――白い私を知ってくれている人もいるの。

 

 ――だから、黒い私は〝私〟じゃない。


 そう思った時、鏡の中の黒い私はふっと消え、いつもの私が映った。

 こつり、と額を鏡に当て、そっと瞳を閉じて囁く。



「私は私らしく……でしょ?」



 私は、大きく膨れた自分のお腹に手を当てた。

 出産予定日はすぐそこ。





「あなたは、あなたらしくね――私の子」





 私は、お母さんになる。







高校時代に書いた小説を、せっかくなので投稿しました。

拙い文章ですが、供養として・・・。

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