アセトアミノフェン
生乾きの制服の匂いで目が覚めた。
窓際に吊った布地が、薄昏い部屋でかすかに擦れている。
黴の気配を含んだ匂いが、喉の奥に残った。
視界が滲む。熱を持った瞼を持ち上げるたびに、灰色の空間がそこにあった。
カーテンの隙間から覗く曇天は、細い雨の筋を描いていた。
皮膚が鈍く張っている。
頭の内側に熱が籠っていて、喉が刺すように痛む。
息を吐くたび、熱だけが戻ってくる。
――梅雨は嫌いだ。
続いてしまうと、全部が湿っていく気がした。
布団の中で寝返りを打つ。
熱を纏ったシーツが、太腿に絡みついた。
「……熱、あんのかなぁ」
雨音が続く静かな朝だった。
いつもなら、このくらいの時間に飼い猫の「にぼし」が来る。
腹が減った時だけは甘えた声を上げるくせに、
朝は妙に律儀で枕元を両足で踏んでくる。
シルクのナイトキャップがズレるほど。
容赦のないそれは、目覚ましの代わりを果たしていた。
けれど、今日はその前に目が覚めた。
熱のせい――なのかもしれない。
手探りで枕元のスマートフォンを取る。
金属の枠が、指先の温度を奪う。
青白い画面には午前六時と表示があった。
学校に連絡せんと……そう思っただけで、また額の奥が鈍い痛みを訴える。
身体を起こそうとして、やめる。
傍らには使い古した学習机。
その上には昨日外したままになった、淡黄金色のシュシュが横たわっていた。
安物でも、気に入っていた。結わうだけで外行きの顔になれるから。
今日は、まだそこにいる。
窓の外は、少し暗くなっていた。
その時足元の方で、フローリングを蹴る音がした。
視線を落とすと、にぼしが座っていた。
銀灰色の地に黒い縞模様の背中を丸めながら、欠伸をしている。
こちらに目を向けるくせに、鳴きもしない。
「おはよう……にぼし」
思った以上に掠れた声だった。
にぼしは尻尾を揺らし、窓際へ歩いていく。
薄昏い部屋の中で、銀灰だけがぼんやりと浮いて見えた。
身体を起こそうとすると、頭の奥に鋭い痛みが走る。
「っ……」
視界がぐわりと揺れる。
額の裏を、太い針が押し込まれるような感覚だった。
息を細く吐いて、枕へ頭を戻した。
そのまま目を閉じると、昨日の雨が鼻先に戻ってきた。
アスファルトの濡れた匂い。
重くなった制服の肩。
ブレーキを握ったときの、濡れたハンドルの感触。
――昨日も、こんな雨が降っていた気がする。
「久世」
背後から、名前を呼ばれて振り返る。
校舎を出てすぐの、学校の駐輪場。
降り始めたばかりの雨は、間もなく本降りに変わっていた。
「傘、無いんか?」
自転車を止めた瀬尾君は、片手で傘を持ち私を見ていた。
「うん……無い」
前髪の先から雫が落ちた。
白いブラウスが、じわじわ肌に張りついて、体温を奪っていく。
「使えよ。俺は……まあ、濡れてもええし」
瀬尾君は、昔からこういうところがある。
「なんでやねん……私は大丈夫やから、ええよ」
「大丈夫ちゃうやろ」
口元が少しだけ、歪んでいた。
それでも、顔は笑っていて、それ以上は何も言おうとしなかった。
雨足が、強くなっていく。
ハンドルを握った指が、わずかに滑る。
「……じゃあ、行くわ」
立ち漕ぎでペダルを踏み込む。
「ちょ――」
瀬尾君の声を背に、走り出した自転車。
濡れたタイヤが、水を跳ね上げた。
雨粒は、背中を小さく打つ。水分を吸った生地が重く肩に乗った。
途切れた声が、耳の奥に反響すると、ふっと笑いが出た。
お母さんに短くメッセージを送る。
『熱っぽい、休みます』とだけ打って、スマートフォンを枕元に伏せた。
電子音で、目が覚めた。一度だけ鳴って、すぐに消える。
窓枠を打つ音だけは、残っていた。
見上げた天井はいつもより高く、白が広がっていた。
部屋は、さっきよりも少しだけ明るい。
けれど、呼吸の重さは変わらなかった。
喉の奥が灼かれるようにひりつく。
身体を転がして、枕元のスマートフォンに手を伸ばした。
画面を点けると、強い光が網膜を刺す。
目を細めて通知を見ると、瀬尾君からだった。
『珍しいやん』
短い文字列だけが、青白い画面に浮いていた。
返そうとして、指が止まる。
指先が重たくて、文字を打てないまま時間が過ぎた。
返せなかった。
小さく息を吐き出すと、布団の中の熱が巻き上がる。
少し遅れて、もう一度音が鳴った。
『傘、やっぱり無理やり渡せばよかったわ』
『スマン』
画面の文字が、うまく追えなかった。
何文字か打ち込んで、消す。
息を吐いて、もう一度。
消した文字数の方が多かった。
午後には、雨が弱まっていた。
病院の待合室は、冷房が効いていて、濡れた靴下が足の裏を刺した。
「久世さん、久世怜奈さん」
名前を呼ばれて、診察室に入った。
「風邪ですね。薬は、五日分――」
白い薬袋を受け取った。
薬の包装が擦れる音が、乾いて聞こえた。
「怜奈、昨日濡れて帰ったからちゃう?」
「お母さん、分かってるって。もう、うるさいなあ」
病院の外に出ると、空気はまだじっとりとしていた。
細い水の線が、車のフロントガラスを伝った。
家に戻ると、玄関に一台の自転車。
見覚えのある形。
「……瀬尾君?」
奥から足音がして、影が揺れる。
「久世」
――軽い声。
傘を持って、瀬尾君が立っていた。
スラックスの裾が、重い色に変わっていた。
「どうしたん。急に」
「待っとってん」
瀬尾君は、スマートフォンを指差して見せた。
未読のメッセージには『行くわ』とだけ。
受信したのは、一時間前だった。
「……ごめん。今見た」
「ええよ、病院やったんやろ?」
それだけを言って、視線を逸らした。
少しの間、沈黙が落ちた。
「あの、これ……」
瀬尾君が差し出したのは、白いビニール袋。
「何これ、どうしたん」
「姉貴が、女には優しくしたれって」
「なんで?」
「……知らん。理由なんか、要らんやろ」
玄関の前で、立ち尽くす。傘を打つ音だけが流れる。
「んじゃ、帰るわ」
「……え、うん」
瀬尾君は、自転車を引いた。
スタンドを蹴り上げて、ペダルを踏んで漕ぎ出した。
夏服の白い背中を見送って、家の中に戻った。
いつもの瀬尾君のはずなのに、少しだけ違う人に見えた。
リビングのソファに腰を掛け、受け取った袋の中を見る。
スポーツドリンクとマスカット味のゼリー、それから――小さな箱。
小さな箱を取り出すと、市販の解熱剤。
箱に書かれた文字を、一度だけ目で追った。
薬局でもらった薬と名前は一緒。でも、少しだけ形が違う白い粒。
水で流し込むと、冷たさだけが鮮明だった。
飲み込んだあとも、そこにしばらく居座った。
窓の外、庭先には白い花が咲いていた。
庭木にしていた梔子。濡れた花弁が項垂れる。
甘い香りが、部屋の隅に沈んでいた。
火照った息を吐き出して、小さな箱の角を指でなぞった。
ありがとう、とメッセージを打とうとして、やめた。
それだけだと、何かが足りない気がした。
二日後。
風邪が治りきったのか、自分でも分からなかった。
朝の空気は相変わらず重く、ブラウスの襟元がじっとりと張り付いてくる。
髪を結いながら鏡を見ると、顔の白さだけが浮いていた。
淡黄金色のシュシュを手首に引っ掛ける。
結び目の高さに、迷いながら髪を結った。
外は、晴れ切らず、薄雲が街の上を覆っていた。
濡れたアスファルトは蒸した土の匂いを吐き出していた。
教室に入っても、絡みつくような風が流れていた。
「怜奈、もう大丈夫なん?」
前の席の女子が振り返って笑う。
「多分、イケる」
曖昧な笑顔を返して、鞄を引っ掛けた。
「ほんまにー?」
「大丈夫やって」
笑い声が、わずかに重い空気の中を飛び交った。
その時、背後で椅子を引く音がした。
小さく首を傾け、視線を向けた先に、瀬尾君が居た。
一瞬目が合って、逸らした。
曇ったガラスの向こう側で、運動部の声が遠くに響く。
移動教室の途中。昼休み。
何度か視線がぶつかった――そんな気がした。
放課後になっても、身体は少し重たかった。もう熱はない。
皮膚の内側がこもっているような、居心地の悪さが残っていた。
自転車置き場に向かうと、柱にもたれる影がひとつ。
「……何してんの」
「朝から顔色悪かったやろ」
視線を上げて、短い言葉。
「送るわ……心配やし」
それだけだったのに、なぜか断れなかった。
風が、自転車置き場の雨樋を揺らした。
帰り道、瀬尾君はやけに饒舌だった。
普段なら、こんなに話題を探そうとする人ではない。
「久世って、進学どうすんの」
「まだ決めてへんよ」
「そうなんや――」
そう言って、また別の話題が出てくる。
担任の似てない物真似、駅前の新しい店。
瀬尾君の興味のなさそうな話ばかり。
並んで自転車を押しながら、途切れ途切れに会話が落ちていく。
梅雨の風は、結わえた髪を揺らす。
瀬尾君の前髪が、風に流れる。
家に近づくにつれ、雨の匂いの中に、花の香りが混じる。
角を曲がると、見慣れた庭木。
水の残った側溝に、視線が行った。
家の前で、足を止める。
「今日は、ありがとう。助かったわ」
瀬尾君は、空を見上げていた。
遅れて、短く息を吐く音が聞こえた。
「じゃあ、また明日――」
そう言って、玄関に手を掛けた時。
「なあ」
低い声が沈黙を割いた。
風の音が、急に遠くなる。
息が浅くなった。
どこかの家の、換気扇が回る。
「久世。俺、お前のこと――」
その先が、甘い香りに沈んだ。
梔子だけが、呼気に残る。
喉が、うまく動かない。
瀬尾君が、手を差し伸べた。
胸が遅れて熱を持った。
何かを返さないといけない気がした。
自分の呼吸の音ばかりが近くて、耳に水が入ったように曇る。
瀬尾君の白いシャツが、滲んだ視界の奥で揺れていた。
私は瀬尾君の手を取った。
鼓動の音が、うるさい。
「……よろしく、お願いします」
ようやく絞り出した言葉が、それだった。
瀬尾君が、困ったみたいに笑っていた。
「怜奈、よろしく」
名前を呼ばれただけなのに、さっきまでと違って響いた。
その顔を見た途端に、耳たぶが熱くなった。
部屋に戻っても、落ち着かなかった。
制服のリボンを解いて、シュシュを外す。
淡黄金色の布地が、机の上に落ちた。
水気を帯びた夜風が、カーテンを押した。
もう、熱はない。たぶん。
けれど、耳の奥だけが、まだ火照ってる。
ベッドに腰を下ろして、ぼんやりと窓の外を見る。
遠くで、車のタイヤが濡れた道を擦っていた。
月明りに照らされた白い花は、薄膜の中で浮かんでいた。
甘い香りだけは、ずっと残っている。
足元に柔らかい重みを感じて、視線を落とす。
にぼしが、足元でじっとしていた。
いつの間に来たのか分からなかった。
背中を丸めて、尻尾をゆっくりと振る。
「……にぼし」
名前を呼んでも、猫は顔を上げない。
銀灰色の背中を見ているうちに、玄関先の白のワイシャツがまた浮かぶ。
にぼしは、小さく尻尾を揺らした。
テーブルの上には、未開封の箱が置かれたままだった。
病院でもらった薬とは別の、小さな箱。
頭痛はもう、しなかった。
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当作品は、AI補助的利用をしております。




