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アセトアミノフェン

作者: 黒柑橘ユヅ
掲載日:2026/06/08

 生乾きの制服の匂いで目が覚めた。

 窓際に吊った布地が、薄昏い部屋でかすかに擦れている。

 黴の気配を含んだ匂いが、喉の奥に残った。

 視界が滲む。熱を持った瞼を持ち上げるたびに、灰色の空間がそこにあった。

 カーテンの隙間から覗く曇天は、細い雨の筋を描いていた。

 

 皮膚が鈍く張っている。

 頭の内側に熱が籠っていて、喉が刺すように痛む。

 息を吐くたび、熱だけが戻ってくる。

 

 ――梅雨は嫌いだ。

 続いてしまうと、全部が湿っていく気がした。

 布団の中で寝返りを打つ。

 熱を纏ったシーツが、太腿に絡みついた。

「……熱、あんのかなぁ」

 雨音が続く静かな朝だった。


 

 いつもなら、このくらいの時間に飼い猫の「にぼし」が来る。

 腹が減った時だけは甘えた声を上げるくせに、

 朝は妙に律儀で枕元を両足で踏んでくる。

 シルクのナイトキャップがズレるほど。

 容赦のないそれは、目覚ましの代わりを果たしていた。

 けれど、今日はその前に目が覚めた。

 熱のせい――なのかもしれない。

 手探りで枕元のスマートフォンを取る。

 金属の枠が、指先の温度を奪う。

 青白い画面には午前六時と表示があった。

 学校に連絡せんと……そう思っただけで、また額の奥が鈍い痛みを訴える。

 身体を起こそうとして、やめる。

 傍らには使い古した学習机。

 その上には昨日外したままになった、淡黄金色(シャンパンゴールド)のシュシュが横たわっていた。

 安物でも、気に入っていた。結わうだけで外行きの顔になれるから。

 今日は、まだそこにいる。


 窓の外は、少し暗くなっていた。

 その時足元の方で、フローリングを蹴る音がした。

 視線を落とすと、にぼしが座っていた。


 銀灰色の地に黒い縞模様の背中を丸めながら、欠伸をしている。

 こちらに目を向けるくせに、鳴きもしない。


「おはよう……にぼし」

 思った以上に掠れた声だった。

 にぼしは尻尾を揺らし、窓際へ歩いていく。

 薄昏い部屋の中で、銀灰だけがぼんやりと浮いて見えた。


 身体を起こそうとすると、頭の奥に鋭い痛みが走る。

「っ……」

 視界がぐわりと揺れる。

 額の裏を、太い針が押し込まれるような感覚だった。

 息を細く吐いて、枕へ頭を戻した。

 そのまま目を閉じると、昨日の雨が鼻先に戻ってきた。


 アスファルトの濡れた匂い。

 重くなった制服の肩。

 ブレーキを握ったときの、濡れたハンドルの感触。

 

 ――昨日も、こんな雨が降っていた気がする。


「久世」

 背後から、名前を呼ばれて振り返る。

 校舎を出てすぐの、学校の駐輪場。

 降り始めたばかりの雨は、間もなく本降りに変わっていた。

「傘、無いんか?」

 自転車を止めた瀬尾君は、片手で傘を持ち私を見ていた。

「うん……無い」

 前髪の先から雫が落ちた。

 白いブラウスが、じわじわ肌に張りついて、体温を奪っていく。

「使えよ。俺は……まあ、濡れてもええし」

 瀬尾君は、昔からこういうところがある。


「なんでやねん……私は大丈夫やから、ええよ」

「大丈夫ちゃうやろ」

 口元が少しだけ、歪んでいた。

 それでも、顔は笑っていて、それ以上は何も言おうとしなかった。

 雨足が、強くなっていく。

 ハンドルを握った指が、わずかに滑る。

「……じゃあ、行くわ」

 立ち漕ぎでペダルを踏み込む。

「ちょ――」

 瀬尾君の声を背に、走り出した自転車。

 濡れたタイヤが、水を跳ね上げた。

 雨粒は、背中を小さく打つ。水分を吸った生地が重く肩に乗った。

 途切れた声が、耳の奥に反響すると、ふっと笑いが出た。

 

 お母さんに短くメッセージを送る。

『熱っぽい、休みます』とだけ打って、スマートフォンを枕元に伏せた。


 電子音で、目が覚めた。一度だけ鳴って、すぐに消える。

 窓枠を打つ音だけは、残っていた。

 見上げた天井はいつもより高く、白が広がっていた。

 

 部屋は、さっきよりも少しだけ明るい。

 けれど、呼吸の重さは変わらなかった。

 喉の奥が灼かれるようにひりつく。

 身体を転がして、枕元のスマートフォンに手を伸ばした。


 画面を点けると、強い光が網膜を刺す。

 目を細めて通知を見ると、瀬尾君からだった。

『珍しいやん』

 短い文字列だけが、青白い画面に浮いていた。

 返そうとして、指が止まる。

 指先が重たくて、文字を打てないまま時間が過ぎた。

 返せなかった。

 小さく息を吐き出すと、布団の中の熱が巻き上がる。

 少し遅れて、もう一度音が鳴った。

『傘、やっぱり無理やり渡せばよかったわ』

『スマン』

 画面の文字が、うまく追えなかった。

 何文字か打ち込んで、消す。

 息を吐いて、もう一度。

 消した文字数の方が多かった。


 午後には、雨が弱まっていた。

 病院の待合室は、冷房が効いていて、濡れた靴下が足の裏を刺した。

「久世さん、久世怜奈さん」

 名前を呼ばれて、診察室に入った。


「風邪ですね。薬は、五日分――」

 白い薬袋を受け取った。

 薬の包装が擦れる音が、乾いて聞こえた。

 

「怜奈、昨日濡れて帰ったからちゃう?」

「お母さん、分かってるって。もう、うるさいなあ」

 病院の外に出ると、空気はまだじっとりとしていた。

 細い水の線が、車のフロントガラスを伝った。


 家に戻ると、玄関に一台の自転車。

 見覚えのある形。


「……瀬尾君?」

 奥から足音がして、影が揺れる。

「久世」

 ――軽い声。

 傘を持って、瀬尾君が立っていた。

 スラックスの裾が、重い色に変わっていた。

 

「どうしたん。急に」

「待っとってん」

 瀬尾君は、スマートフォンを指差して見せた。

 未読のメッセージには『行くわ』とだけ。

 受信したのは、一時間前だった。


「……ごめん。今見た」

「ええよ、病院やったんやろ?」

 それだけを言って、視線を逸らした。

 少しの間、沈黙が落ちた。


「あの、これ……」

 瀬尾君が差し出したのは、白いビニール袋。

「何これ、どうしたん」

「姉貴が、女には優しくしたれって」

「なんで?」

「……知らん。理由なんか、要らんやろ」

 玄関の前で、立ち尽くす。傘を打つ音だけが流れる。

「んじゃ、帰るわ」

「……え、うん」

 瀬尾君は、自転車を引いた。

 スタンドを蹴り上げて、ペダルを踏んで漕ぎ出した。

 夏服の白い背中を見送って、家の中に戻った。

 いつもの瀬尾君のはずなのに、少しだけ違う人に見えた。


 リビングのソファに腰を掛け、受け取った袋の中を見る。

 スポーツドリンクとマスカット味のゼリー、それから――小さな箱。

 小さな箱を取り出すと、市販の解熱剤。

 箱に書かれた文字を、一度だけ目で追った。

 薬局でもらった薬と名前は一緒。でも、少しだけ形が違う白い粒。


 水で流し込むと、冷たさだけが鮮明だった。

 飲み込んだあとも、そこにしばらく居座った。


 窓の外、庭先には白い花が咲いていた。

 庭木にしていた梔子(クチナシ)。濡れた花弁が項垂れる。

 甘い香りが、部屋の隅に沈んでいた。

 

 

 火照った息を吐き出して、小さな箱の角を指でなぞった。

 ありがとう、とメッセージを打とうとして、やめた。

 それだけだと、何かが足りない気がした。

 

 

 二日後。

 風邪が治りきったのか、自分でも分からなかった。

 朝の空気は相変わらず重く、ブラウスの襟元がじっとりと張り付いてくる。

 髪を結いながら鏡を見ると、顔の白さだけが浮いていた。


 淡黄金色のシュシュを手首に引っ掛ける。

 結び目の高さに、迷いながら髪を結った。

 

 外は、晴れ切らず、薄雲が街の上を覆っていた。

 濡れたアスファルトは蒸した土の匂いを吐き出していた。

 

 教室に入っても、絡みつくような風が流れていた。

「怜奈、もう大丈夫なん?」

 前の席の女子が振り返って笑う。

「多分、イケる」

 曖昧な笑顔を返して、鞄を引っ掛けた。

「ほんまにー?」

「大丈夫やって」

 笑い声が、わずかに重い空気の中を飛び交った。

 その時、背後で椅子を引く音がした。

 小さく首を傾け、視線を向けた先に、瀬尾君が居た。

 一瞬目が合って、逸らした。


 曇ったガラスの向こう側で、運動部の声が遠くに響く。

 移動教室の途中。昼休み。

 何度か視線がぶつかった――そんな気がした。

 

 放課後になっても、身体は少し重たかった。もう熱はない。

 皮膚の内側がこもっているような、居心地の悪さが残っていた。


 自転車置き場に向かうと、柱にもたれる影がひとつ。

「……何してんの」

「朝から顔色悪かったやろ」

 視線を上げて、短い言葉。

「送るわ……心配やし」

 それだけだったのに、なぜか断れなかった。

 風が、自転車置き場の雨樋を揺らした。

 

 帰り道、瀬尾君はやけに饒舌だった。

 普段なら、こんなに話題を探そうとする人ではない。


「久世って、進学どうすんの」

「まだ決めてへんよ」

「そうなんや――」

 そう言って、また別の話題が出てくる。

 担任の似てない物真似、駅前の新しい店。

 瀬尾君の興味のなさそうな話ばかり。

 並んで自転車を押しながら、途切れ途切れに会話が落ちていく。

 梅雨の風は、結わえた髪を揺らす。

 瀬尾君の前髪が、風に流れる。


 家に近づくにつれ、雨の匂いの中に、花の香りが混じる。

 角を曲がると、見慣れた庭木。

 水の残った側溝に、視線が行った。

 

 家の前で、足を止める。

「今日は、ありがとう。助かったわ」

 瀬尾君は、空を見上げていた。

 遅れて、短く息を吐く音が聞こえた。


「じゃあ、また明日――」

 そう言って、玄関に手を掛けた時。

「なあ」

 低い声が沈黙を割いた。

 

 風の音が、急に遠くなる。

 息が浅くなった。

 どこかの家の、換気扇が回る。

 

「久世。俺、お前のこと――」


 その先が、甘い香りに沈んだ。

 

 梔子だけが、呼気に残る。

 喉が、うまく動かない。

 瀬尾君が、手を差し伸べた。

 胸が遅れて熱を持った。

 何かを返さないといけない気がした。


 自分の呼吸の音ばかりが近くて、耳に水が入ったように曇る。

 瀬尾君の白いシャツが、滲んだ視界の奥で揺れていた。


 私は瀬尾君の手を取った。

 鼓動の音が、うるさい。

「……よろしく、お願いします」

 ようやく絞り出した言葉が、それだった。


 瀬尾君が、困ったみたいに笑っていた。

「怜奈、よろしく」


 名前を呼ばれただけなのに、さっきまでと違って響いた。

 その顔を見た途端に、耳たぶが熱くなった。

 


 部屋に戻っても、落ち着かなかった。

 制服のリボンを解いて、シュシュを外す。

 淡黄金色の布地が、机の上に落ちた。


 水気を帯びた夜風が、カーテンを押した。

 もう、熱はない。たぶん。

 けれど、耳の奥だけが、まだ火照ってる。

 ベッドに腰を下ろして、ぼんやりと窓の外を見る。

 遠くで、車のタイヤが濡れた道を擦っていた。


 月明りに照らされた白い花は、薄膜の中で浮かんでいた。

 甘い香りだけは、ずっと残っている。


 足元に柔らかい重みを感じて、視線を落とす。

 にぼしが、足元でじっとしていた。

 いつの間に来たのか分からなかった。

 背中を丸めて、尻尾をゆっくりと振る。

「……にぼし」

 名前を呼んでも、猫は顔を上げない。

 銀灰色の背中を見ているうちに、玄関先の白のワイシャツがまた浮かぶ。

 にぼしは、小さく尻尾を揺らした。


 テーブルの上には、未開封の箱が置かれたままだった。

 病院でもらった薬とは別の、小さな箱。

 

 頭痛はもう、しなかった。

ここまでお読み頂いてありがとうございます。


当作品は、AI補助的利用をしております。

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