行路流
アパートの自室へ帰宅したスミレが顔をしかめている気がしたので、理逸は「なんかあったか、外で」と声をかけた。
スミレはサンダルを脱ぐ途中で手と足を止めて、理逸を見る。そして今度は『気がした』とかではなく明確に、顔をしかめた。首につけているチョーカー型の統率型拡張機構を指で撫でている。
「なんだその顔」
「……感覚封印はしましたし、顔に出してぃたはずはなぃのに、と思ったまでです」
「気づかれないと思ってたのか」
「ぁなたのことをそのょうな機微を察する人間だと思ってぃなかったまでです」
「うるせぇなこいつ」
「訊かれたから答ぇたまでのことにうるさぃとは」
途中で止まっていた靴脱ぎを再開し、サンダルを散らかしてスミレは畳へ上がってきた。四畳半の狭い部屋のなか、彼女の寝床でありくつろぎスペースである押し入れの二段目によじよじと入り込む。
そのときにも、理逸はわずかだが動きに硬さを感じた。たぶん二段目へのぼるとき、手に体重をかけきれていない。
「手、怪我したか」
「なるほど。表情ではなく言外のァクションの総体から判断してぃましたか」
「質問に質問で返すなよ……折れたとかじゃなさそうだが。どっかでぶつけでもしたか?」
せんべいみたく薄い座布団から腰を上げた理逸は、押し入れに向かう。二段目から足だけぶらぶらさせていたスミレは、嫌そうな顔を隠しもしない。
「ほれ」
「ぁ」
理逸が左拳を握り、『引き寄せ』を発動した。スミレは後ろに隠そうとしていた右手を引っ張られ、前に向かってバランスを崩しそうになる。その肩を右手で押しとどめながら、理逸は彼女の右手を取った。
指先に傷や怪我はない。拳頭が赤いようだ。擦れたあともある。見慣れた痕跡であった。
「……殴ったろ。それも人を」
「そぅです」
「鍛えてもねぇ拳で無茶すんなよ。近場だからとひとりで出かけるの許可したが、やっぱ俺もついていくべきだったか」
「たまには一人になりたぃでしょぅ、ぁなたも。配慮してさしぁげたのです」
「むしろお前が一人になりたかったんじゃないのか?」
「そぅとも言ぃます」
仕方なく発したような、折れたようなスミレの返答。
なんだかんだ言ってもこんな狭いところに二人きりの暮らしである。それとなく互いに気を使ってはいたのだが、その事実を口に出すのは互いにはじめてだった。
スミレも口に出してからそう思ったようで、わずかに瞳孔が広がった。理逸も、きっと似たような顔だろう。共に暮らし始めて一か月程だが、配慮のぶつけ合いはようやく互いの間で融けあう点を見つけ始めたのかもしれない。
「……まぁそのへんの問答はいいや。で、大丈夫だったのか。ほかに怪我したところないか」
「動きで察してぃるでぁろうことをゎざゎざ訊かないでください、非効率的です」
「アドレナリンのせいでぶつけた直後は痛くねえってこともままあるんだよ。そういう経験、無いだろ。だから聞いてるんだ」
「知識として知ってはぃます」
「知識じゃ人との衝突は回避できなかったようだな」
理逸の揶揄に、スミレはむっとして膝から先を段上へ引っ込めた。すぱんとふすまを閉めよう、としたので、左手を差し込んで止める。
「喧嘩すんなとは言わねえよ。ただその後の対応が悪いのは困る。お前だってこれから組合の中核になるんだから、喧嘩相手と状況くらいは把握させろ」
「べつに、喧嘩ではぁりませんのでぉ気遣いなく。それにゎたしは組合に属しましたが組織を背負ぅつもりはぁりません」
「え、喧嘩じゃないのか? そんで、なんで組織背負う気がねぇんだ。ガキども守るには立場が要る、と思ったんじゃないのか」
「喧嘩にすらならなかったと言ぇばぉわかりですか? 組合には、立場が要るから統率型を見せつけて入りましたが。利用はすれど取り込まれはしなぃといぅことです」
「おいソレ圧勝したってことかよ。んで取り込まれはしないって、そういうふうにツッパるのは結構だがよ。そういう態度だと組合だって、利用されるだけじゃないぞ」
「技はぁなたから覚ぇてましたので。利用されるだけじゃなぃとは、ゎたしの行動に制限を加ぇるでもしますか?」
「行路流を使ったのか?」
言葉の前半と後半で別の話題を同時に走らせていたが、理逸ははたとその流れを止めた。
スミレはこともなげにうなずく。
「感覚模倣で他者の動きを覚ぇることが可能だとは、ぁなたもご存じでしょぅ」
「……生兵法だ。行路流はとくに、戦闘向きの格闘術でもねえ」
「ゎたしもそのことは重々承知ですし、実際使ってみて勝手の悪ぃ技だと感じました。こんなものを使ぃこなせるのは『引き寄せ』で補助できるぁなたと、ぉそらく行路流を使ゎなくても強ぃミミさんだけです」
「えらい言いようだなこいつ……」
「一発かまして逃げる程度の役には立ちましたょ」
「褒めてるつもりか」
「褒めたでしょぅ」
いや貶しただろ、と思った理逸だが、スミレの顔を見るに本当に貶す意味はなさそうだった。
少し考えてから──おそらく彼女は「理逸と深々が使いにくい技でも生き延びてきた」ことを褒めたのだと気づく。継いできた技については勝手が悪いとぬかしたのに変わりないのだが、それについてもよく考えてみると「見るだけで模倣できる」彼女らにとって技術というものの重さがどの程度か、理逸には知れないのだと感じた。
【機構運用者と戦ってはならない】。この街の、不文律。
プライアという一発芸と違い、機構による感覚や技法の強化は『戦闘全般に』作用する。極端な言い方を許してもらうなら、行路流だろうと華北派ボクシングだろうと形意拳だろうと铡刀掌だろうと、それは『戦闘に入ってからの』技だ。
機構運用者はそもそも戦闘に入る前、索敵や陽動の段階から選択肢豊富でありそれだけでも強い。武術によってはある意味で奥義である『戦闘に陥らないための術』が基本としてセットされていると言ってもいい。その上で、戦闘になれば感覚強化で先読みと後の先を織り交ぜ圧倒的なまでになにもさせない。
組合の機構運用者だと婁子々がいい例で、理逸は《七ツ道具》の序列こそ彼女の上に位置するが技で優っているとはけっして思わない。あれは組手というかたちで場と機を限定された空間で理逸が『引き寄せ』を駆使して時間を稼ぎ、粘ったがゆえの辛勝だ。縛りのない戦場であれば理逸はほぼ勝てないだろう。
そういう理解があるから、理逸はあまりスミレに強く言えなくなった。流派を腐されたようなわだかまりはあるが、事実として彼女の役には立たなかった。のだとすれば、その素直な感想を受け入れないのも驕慢というものである。
ひとつ大きく息を吐き、理逸はスミレの言を受け止める。
「……《白撃》は本来カマして逃げるための技だしな。まあ、いいよ。その程度でも役に立ったなら」
「ぉかげさまで。助かったことには、礼を言ってぉきます」
「《白撃》への礼か」
「ァホなのですか。ぁなたに対してに決まってぃるでしょぅ、技の提供元なのですから」
「アホて……でも俺は継いできただけだから、あんま礼を言われる対象じゃねぇと思うんだがな」
「ぃまいち要領を得ません。ではこの場合、ユキミチ流の創始者に礼を言ぅのがぁなたのなかの正道ですか?」
「それも違うんじゃねえか。流派への礼、が俺のなかだと正しい気がする」
「技は技でしょぅ。もの言ゎぬ形なきものに礼を言ぇと?」
心底不思議そうなスミレだった。理逸は自分の拳に視線を落とす。
やはり、機構運用者にとって技能技術というのは瞬時に身に着けられるため、少し考え方が違うのかもしれない。婁子々も様々な達人から感覚模倣で技を得ているが、糧とした対戦相手への感謝はあれど流派への思いというのはあまり理解していないようだった。
考えつつ理逸は言葉を紡ぐ。
「思うに流派ってのは預かりもの、なんだよ。たまたま借りてるだけの。いろんな人の手を経て流れてきたもので、過程でさまざまな思いを積んでる」
「……だから尊重すべき、と?」
「べき、とは言わねえけどな。そうしてもらえると俺はうれしい。俺自身に感謝されるより、な」
理逸の場合、行路流は勝手に継いで、しかも間違った使い方をしてしまっているわけだが。
それがスミレの苦境を脱する助けになったのであれば喜ばしいことで、むしろあるべき使い方をされたわけで。
「あと、ありがとな」
「なぜぁなたが礼を言ぅのですか」
「まあ……負い目があるからかな。この技に」
ちょっとだけ、それを軽くしてもらった。
だからこその感謝だった。
──スミレはよくわからないという顔のままだったが、やがて興味を失ったかあるいは回答を保留にしたのか。「ですか」とだけ言って押し入れのなかで横になった。寝るらしい。
「手、痛みが強くなってきたら言えよ」
「ゎかりました」
ひらひらと振る手の様子からして、まあたぶん大丈夫だろうと理逸は考える。同時に、思った。いつか自分は、この預かり物をちゃんとした形でだれかに継がせる日がくるのだろうか……と。