剣に仕え
南刀然が握った長脇差から右手が離れなくなって、もはや何年にもなる。
遠いあの日にはじめてのカチコミで握った刀を、以来離せなくなってしまったのだ。かといって鞘に納刀すると身体ががたがたと震える。……どうやらこの身体は刀をすぐに振るえない状態が、怖いらしい。
最初のうちは「鉄火場の緊張でこわばっているだけだ、じきに指も離れる」と言われたのでそれを信じていた。
しかし十日たちひと月たち、明け方のかすかな肌寒さに「季節が変わったか」と気づいたころになっても離れず、白木の柄が手垢にまみれていくのを見て、これはもう手から生涯離れないのだろうとあきらめがついた。
あきらめがついたら、刀は手垢と共に身に馴染んでいった。
最初に変わったのは、安東に新聞を投げ渡されたときのことだ。ごく自然に右腕を伸ばした南は、切っ先の側面で新聞を叩くようにして受け・刀身の上を滑らせて手元に導いた。
もっとも、右手は開かないので新聞を読むことはできない。そこからは左手を使って、普通に読んだ。安東は「なにやってんだ南さん?」と肩をすくめていた。南自身もなぜ右腕を伸ばしたかはわからなかった。
その後もことあるごとに右腕は南の意識の先へ伸びるようになっていった。ドアレバーは刀で押し下げるのが基本になった。左手から取り落としたペンを拾おうと屈んだとき切っ先を差し出した。よろけたとき壁に突き刺して体を支えた。馬鹿話に突っ込もうと刀を──伸ばしたときは、さすがに安東に「殺すぞ?」と笑顔で言われたが。
右腕の先に刀があることが、自然体になっていった。二年か三年が経つころには、南は右手の長脇差で背中を掻き、ドアノブも(多少傷はつけるが)回して開けられるようになっていた。投げ渡された物も、刃で受け止めたときさえ切らずに置けるようになった。
──とはいえもっとも多い用途は、当然だれかを斬ることなのだが。
南古野の片隅にある、娼館をいくつか収めたビルのなか。応接用のフロアの赤絨毯を踏みしめながら迫る南は、奥で震える男に向けて口を開いた。
「組の金を使い込んだと聞いた。私が送り込まれた理由は、わかるな」
抹殺を宣言し、南は薄緑の色がついた眼鏡を外して袖の短い白ジャケットの胸元に納める。この眼鏡はいまはこの街にいない元相棒の北斗がくれたものである。
右腕の切っ先を向ける南に対して、追い詰められた男はぎりぎりと歯軋りをしていた。この街に似つかわしくない、でっぷりと肥えた男である。ガウン姿でソファにどっかと腰かけ、酒を片手にさもくつろいでいた様子だがそんな生活も今日限りだ。……肥満体は斬ると脂がひどいので、面倒だなと南は思う。
だがそのとき、肥満男が片腕を振るって合図する。
「やれっ!」
捻りもセンスもない掛け声に応じてどこからともなく現れたのは、刀一振りを手にした男だった。護衛らしい。さらしを腹に巻き、着物を尻からげにした古風な風体だ。踏み出すたびに大腿部の筋肉と脹脛が爆発するように働き、見る見るうちに距離が詰まる。
なかなかの長身だ。そう感じたのは、斬り上げる一刀を右腕の刃で受け流したあとだった。リーチが、じつに長い。ソファの並ぶ応接室という狭い室内であるのに、まるで気にしないように刀を振るう。
髭の揃った口許が「シィッ」と息を吐き切り返す。腹圧を高めて肚を据えた、重心の定まった重い一撃が真上から振り下ろされる。
南は右腕の刀の柄へ左手を添え、襲い来る白刃へと真下から己の刀身を擦り合わせた。
叩きつけるのではない。
降り落ちる滝を横一閃に断ち切るのでなく、流れに沿わせて隙間を空ける。
その隙間に位置取って切っ先を伸ばせば、相手へ自然に届く。こちらのリーチが短くても。
「!」
男は鼻を縦に二つに分けられたと気づいた。鮮血が噴き出し、赤絨毯に黒く染みを作る。
南は左手を離し、突きを繰り出した。この喉元への刺突は男の刀で弾かれ、逆に向こうの横薙ぎに襲われる。南は峰に手を添えて受け、鍔迫り合いに持ち込まれる前に離れる。
一足一刀の間合でにらみ合いとなった。
鼻で呼吸できなくなった男は一度息を吸い込むともう、呼吸をこちらに見せない。こちらを殺すまで息をしないつもりだろう。諸手正眼に構えて、素足の指で絨毯の上をまさぐるようにじりじりと進んでくる。
南は峰から左手を離し、ほぼ真半身になるまで左半身を引いた。右腕と刀のみを中段に突き出し、深く呼吸を腹へ落とす。
男の膝から下が弾かれるように伸びた。ゴムが戻るのを連想させるような滑らかに鋭い足運びだった。
刀身に、またも南は己の刀身を擦り合わせる。今度は横から押し当てに行く。
そのとき後ろに置いた南の左足から腰、肩、伸ばした右腕、その先端にある切っ先まで『芯』が通る。
こうなった南の刀は微動だにしない。男がいくら刀身で押さんとしても、びくともしない。
男は驚愕に目を見開く。自分は諸手で、肚を低く据えて渾身の力で押し込もうとしているのに、弾こうとしているのに、右片手を伸ばしているだけの南に力負けする──と、思っているのだろう。
実態は違う。
南は『芯』に沿って、刀の接触点から受ける相手の力を左足裏まで流しているのだ。男は南が刀を「横から押し当ててくる」ように見えたので対抗しようとしたが、実際には南は触れているだけでかけらも力を加えていない。伸筋の張りによる『芯』を通した姿勢で剣の力を呑み込んでいくだけだ。
ごくわずかな時間だが、男には「剣の側面同士が貼りついた」ような奇妙な感覚があっただろう。
「──【促威点け】」
南が達した魔剣が成る。
感じた違和への硬直と、対応に要した後れを貪る「対の先」の魔剣だ。
南は刃を寝かせた。横から押される力に逆らわず、手首をわずかに返した。途端に南の刀は相手の峰の上に乗り、命に向かって滑りゆく。相手の刀は下方へ流される。
相手の斬道を上書きして無効とし、その上に乗りて喉元へ迫る。
刃を身に肉薄させられた一瞬、男はすべてをあきらめ受け入れた顔をした。
頸動脈を裂いて男を斬り殺した南は、勢いのままに走り抜けて肥満体の首を狙った。
「……いや待て。首、どこだ?」
顎と胸と肩の境目がない贅肉の塊を前に一度首を傾げた。この隙を見て、肥満体の男は命乞いをはじめた。
なんとなくここだろうと思ったところを刺し貫く。頸動脈から橙に近い色の血が噴きあがった。
南の右腕は、今日も思った通りの働きをした。
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「つってももう何年もその刀だろ。研いでずいぶん削れちまってるし、だいぶ細いぜ。折れる心配とかしねぇの」
仕事後の清掃を手伝ってくれていた安東が、休憩がてら煙草を吸いつつ尋ねてくる。
右手の刀を突き出して自分にも一本刺すように求めると、これをふかしながら南は答えた。
「人間の手首から先は二十七の骨で支えられているそうだが」
「あ?」
「殴りかかるときにこれが折れる心配をしている奴が、鉄火場で生き残れるはずもない」
「あー。なるほど」
「殴って折れたなら、斬って折れたなら、それは結果でしかない」
南は左手でつかんでいたモップの先で、床の血だまりに沈んだ剣客の男と肥満体の男をつつく。
「我々は、剣をやっている者は、結果そのものに頓着していない。結果を出せたことに意義がある」
「それが剣手離せなくなったあんたの結論ってぇことかよ」
「ああ。鍛え固めて強くした部位しか差し出せない者は、結果そのものしか求められない。私は私の弱さであるこの刀を晒し、相手に差し出すことで戦いをこそ求める」
……きっと、死ぬまで。
そうぼやいて南は口許から煙草を離すと、刀を振るって足元の血だまりに落とした。煙もあげずに火は消えた。




