第194話 天高く狗吠える秋
「ナベリウスの眷属ですね」
マーレファは天幕でティータイムをしていた。
わたし達を迎えて、いきなり講義を始めた。
ナベリウス。
ギリシャ神話ではケルベロスと呼称される三頭首の狗、または狼として顕現する冥府門の番犬だ。
この世界では同名の眷属、いわゆる同族末端が上位者と同じ名前を使っている場合がある。
魔王ナベリウスは侯爵にあり、魔界の陸軍六元帥の一郭、精霊ネビロスの副官を勤めてるらしい。
わたしも、三頭の狗首にカラスの尻尾と二脚を備える挿絵を魔導書で見たことがある。
最初は、誰が魔王なんて見たんだよと斜に構えていた頃もあったけど、実際に魔王に出会って興行試合まで付き合わされてしまうと、一笑に付すこともできない。一個所有までしてるし。
「手伝おうか?」
「彼らの手に負えなくなれば、お願いしましょうか。まずは髪を乾かして、お茶をどうぞ」
秘書官のラミアからタオルを差し出されて遠慮なく頭を拭き、ショウガの香気がする紅茶で体を温めた。
天幕外での阿鼻叫喚が気にならないほど、天幕の中にゆったりとした時間が流れた。
「今朝。アエミリア・ロマーニャ王国とヴィブロス帝国が和議を結びました」
「えっ、わざわざ御前試合のために?」
「ここ八年ほど恒例行事になっています。それに今回は、王室対抗戦という前例のない趣向なので、早々に調停したようです」
「それって威信とか、かけてくる感じ?」
「無論です。ただ、ヴァンダーの例もあるので、記録上の結果よりもいかに観衆の記憶に残すかがあの行事の本質だと把握していますよ」
「ヴァンダーが有名なのは記憶に残るくらい強かったんだ」
マーレファは現地に行って観戦しなかったようだ、師匠から目顔を向けられてヴァンダーがくしゃみをした。
「俺は記憶にない」
「褒美は、何もらったの?」
「金だ。初優勝も、二連覇したときも。普通の貴族が三十年遊んで暮らせる額をな。それを国庫に入れた。グラッグへの嫌がらせとしてな」
「欲なさすぎじゃない? だからクレモナでバンガローぐらしなんだ」
「違う。あれは俺の趣味だ。爵位も館も興味がない。独り身だから、あれくらいでも大きいくらいだったんだ。お前やサトウが来るまではな」
「でもさ。無欲は、君主に二心を疑われるよ?」
「ああ、グラッグには散々嫌味を言われた。だから言い返したんだ。国を豊かにせず、国庫も潤せない宰相など無価値だ。そして俺はお前が嫌いだと」
「うわ。なんかヴァンダーに面と言われちゃうと胸に刺さるどころか背中まで貫いちゃいそう」
ヴァンダーはタオルで頭を覆いつつ顔も隠して、
「ところが、グラッグからいけしゃあしゃあと強弁されたよ。国を豊かにするとは家族を豊かにするということだ、国庫が潤わないのは国庫で国を潤し続けているからだ、とな」
「腐っても右尚書。詭弁にしては、うまく逃げたわね……ヴァンダー?」
急に将軍がかぶったタオルの影に隠れたまま動かなくなった。
「ヴァンダー?」
「俺はなぜ……グラッグにあれほど嫌われていたんだろうな」
「えぇっ、今さら?」
心配になって顔を覗き込もうとしたら、天幕に伝令が飛び込んできた。
要約すると、手に負えなくなったらしい。
マーレファは指でこめかみを叩いて、嘆息した。
「まったく嘆かわしい……。カレン、ヴァンダー。行けますか」
「了解」
わたしとヴァンダーはタオルを首に引っ掛けたまま愛剣を取って立ち上がった。
ナベリウスは、正面の一頭で全長三メートル。左右にのる双頭は五〇センチほど高い。
頭は牛よりも大きい黒犬で、口から黒紫の炎を蛇の舌みたいにチロチロと吐いている。
やさぐれたドーベルマンみたいだ。
魔甲中隊の被害は中破しつつも、死者は出ていないようだ。
「ヴァンダー。あの人達の甲冑って飾り?」
「一応、魔法防御の付呪が着いているはずだ」
「ん。一応、とは?」
ヴァンダーは小首を傾げて、
「付呪というのは本来、攻撃や身体強化を目的に使われる刻式魔法だ。その魔法陣を甲冑に刻印することは正しい。ただ、防御魔法の刻式を刻むスペースがなかった、というだけだろ」
当たらなければどういうことはない精神なら、当たるなよ……。
「攻撃特化なら、さっさと短期決戦で挑めばいいのに」
「あれだけ異形の魔物となると、付呪の効能を云々するより先に付与主の精神鍛錬が未熟なんだろう」
結局、道具は使う人間の心技体で決まる好例、ということか。
それにわたしも醜怪系の魔物も相手にしてきたので、すっかり見慣れてしまったらしい。
ワンコの頭が三つ並んでいるくらいでは、まだ可愛いに分類できてしまっている。
「じゃあ、沖で待機してる砲台二門から、何が出てきそう?」
「これくらいの規模なら……死霊火団じゃないか?」
ぶくぶくに太った人の顔に模した悪霊の詰め合わせだっけか。
「アレが出てきたら戦うどころか、ここの人たち逃げ出すか、ショック死しそう」
「ふむ。人の死体なら見慣れてるはずなんだがな」
そんなくだらない雑談をしながら、わたしたちはナベリウスの前に来る。
四つの眼がこちらをギロリと睨みつけてくる。両肩の頭はこちらへ動かないらしい。もしかすると別々に召喚された魔犬が、解放直後にナベリウスっぽく融合した感じか。
ディティールが低いケルベロスもどき。それで獣人を予備弾薬にするとか、何から何まで残念な兵器だ。
わたしは小太刀を抜くと、正中に構えた。
〝天に砕け、大気に揺蕩う 白銀の星屑
わが喚び声に応えよ、天狼星
わが奮う刃に集え、霊星団
汝らの光もて わが前に立ちふさがる闇を切り裂かん〟
――〝払暁昇天〟
黒光りしていた小太刀が象牙色に発光をはじめた。
ナベリウスの威嚇に殺意が載った。[闇]らしく天敵の[光]に反応しているのだろう。
対して、魔甲中隊からも喚声があがる。
マーレファから付呪魔法初級くらい習ってるはずだろうに。
彼らの驚きが無垢すぎて腰が砕けそうになった。
「カレン。俺は手を出さなくてよさそうか?」
「うん。ヴァンダーは古い魔導砲よろしく。これ仕留めたらクレモナ寄って佐藤さんとご飯食べて帰る。あの人たちには戦う経験よりもまず、魔物は倒せるんだって見識が必要だと思う」
「ふむ、一理あるな……やれやれ。それじゃあな、あんまり遅くなるなよ」
そう言いのこして、ヴァンダーはその場を離れ、湖畔の反対側へ廻りながら沖にいるグランキオ商会の船を手で呼んだ。
ボォオオオオンッ!
ナベリウスが風に煽られた炎のような威嚇声で吠える。
「じゃ、今日の仕事は終わりにするとしますかね、っと」
わたしは地を蹴った。鎖帷子を脱いだあとだから体が軽い。
こちらの歩速よりも早く、ナベリウスが猛突進してきた。
わたしの上半身めがけて真っ暗な大顎を開く。
「だから、遅いっての!」
禍々しい顎が空を喰む。
すばやく右へ回った流れで、右肩の狗頭を刎ねた。
中央が驚いて頭をこちらに振り返ったときには、その頭さえも自転をはじめて慣性運動のまま横へ流れ、やがて地面に弾んだ。
最後にのこった左肩の狗頭が、仲間の体ごと独占できたのが嬉しいのか四肢をのびのびと動かす。
けれど、わたしに改めて本領発揮を見せよう時には、とっくに頭が地面に落ちていた。
巨大な胴体だけがドサリと倒壊して動かなくなる。再生もなく爆散した。
灰が風に乗って舞い上がり、やがて湖上の彼方へ溶けて見えなくなった。
「名前もち、[闇]属星の割に、粘着性が足りない。思慮も足りない、ナベリウスの眷属の中でも低位だったか」
わたしは黒紫色の魔素を血払いして納刀し、天幕の外から声をかける。
「マーレファ、わたし先に帰るねー?」
「はーい。お疲れ様でした」
ふいに濡れた体を秋風に撫でられ、わたしは自分の身を抱いた。
「うぅっ。服が乾くまで、ちょっと走るか」
わたしはマルペンサ荘を目指して、駆け出した。
焼きイモが食べたくなるような、青く高い空だった。