パヴィアから上がるきな臭い煙
パヴィアは王都ハイラントから南へ三五キロ。古代城塞の古い壁の中に作られている。
サヴォイア公国とジェノヴァ協商連合の国境に位置し、一時期はリグリア海沿岸をボルトン王国に掌握されていた時期には、三つ国境と接していたこともある。
経済においては、アエミリア・ロマーニャ街道の恩恵を受け、サヴォイア公国東都ヴェルチェリ、そして港湾都市ジェノヴァとの交易中継路として栄え、何より肥沃な大地から産出される米や麦を主流とする穀物はロンバルディアの繁栄を支え、王国の「穀倉」としても知られている。
「パヴィア執政官はジョスティーノ・ガルバルディ伯爵で、三八歳だったかな」
駅馬車の車内でヴァンダーが説明してくれる。王子と将軍が専用馬車ではなく駅馬車というのが、なんとも安上がりでいい。
「意外と若い執政官だね。バルデシオの二つ上くらい?」
わたしは書類から顔を挙げないまま、応じる。
「三つ上だな。気性はバルデシオより遥かに手に負えない」
「ヤンチャなんだ」
「もっとだ」
わたしはおとがいをつまんで、
「過激派?」
「まあ、そんな感じだな。王国内の政治派閥にも好戦派と呼ばれる貴族はいるが、そこからも煙たがられて伯爵位でありながら、中央から国境警備に追いやられた」
「でも、その人にとってはむしろ好都合なんじゃないの?」
「中央の政務卿たちにしてみれば、そんなに戦争がしたけりゃ一人でやってくれというつもりだったようだな。パヴィアはサヴォイア公国とジェノヴァ協商連合に囲まれて六百年、戦争とは無縁の都市だがな。だが四年前からボルトン王国が侵攻を開始した」
閑職への左遷のつもりが、最前線の重職に様変わりした。更迭しようにも、ガリバルディ伯爵の軍務差配は適任すぎた。
「それじゃあ今、その戦闘狂の矛先はどこに向いたの」
「今のところは教会、すなわち教皇庁らしい」
「この書類にもパヴィアはここ数年、教会の活動を規制する法律が並んでいるみたいだけど、でもそれって、教会が民衆イジメをしていたからとも受け取れない?」
「そう。まさにそのことで、パヴィアは執政庁と教会が揉めてる。教会はあらゆる面において、特権を国家から受けている貴族層だ」
「お坊さんなのに、貴族なんだ」
「カレン。教会が宗教家という感覚は改めたほうがいい。死者を弔っているのは教会の末端でしかない。上層部は政治団体だ。民に重税をかけることを誉れとし、都市の公費を削って公共事業を行うことを恥とする連中だ」
最後の言い回しに、わたしは眉をひそめた。
「教会なのに、都市の公費が削れるとまずいの?」
「教会の祭事はどの都市でも歳出に計上している。予算が削減されて教会の祭事がお粗末なものになったら、上司から器量を疑われる。出世がなくなるというわけだ」
「都民の税金使っておきながら、厚かましいんだけど」
「それが彼ら教会の〝常識〟なんだ。ガルバルディ伯爵はそれに真っ向からぶつかっていった。根回しもせずな」
「執政官なのに、政治できない人なの?」
「武官が政治をやれば誰でもそうなると思うぞ。だからこうして、有事のない非番将軍が国境警備の視察に回されてる」
「本当は、子守付きでって言いたいんでしょ?」
「察してくれるなら、多少は現地で自重してくれよ。ちょうど今、パヴィアは米の収穫期だ。それでも見て、農業オタクの心を癒やして」
「ねえ、ヴァンダー。虫送りの件、忘れてない?」
パヴィアで虫送りに使われた松明の明かりの数を反乱と誤認した領主側が騎士団を使って制圧にかかり、地主農民と小競り合いになったという事件だ。
「思い出させるなよ。忘れようとしてたのに」
「現実から目を逸らして、逃げるんですか?」
「今、その現実に向かってるんだがな。正直二、三日の滞在では決着がつかない問題だと思ってる。余所者は首を突っ込まないようにするつもりだ」
「余所者のって、地元だけの問題にしていいの?」
「カレン。さっき言ったろ。教会は国家からいろんな特権をもらってるって」
「つまり権力を笠に着て、やりたい放題する僧侶を黙認するほかない状況になってるわけ?」
「そうだ。たとえば、小麦や米の穀物、砂糖、香辛料の交易税徴収代行権。子どもが生まれれば洗礼税。死ねば埋葬税。結婚すれば祝福税というのもあったな」
「なにそれ、嘘でしょ?」
「対して、国家は塩を独占販売しているし、脱法の塩は厳しく取り締まってる。生まれれば人頭税、死ねば相続税。結婚に税はかからないが、新居には不動産所有税、窓やかまどに税金をかけたし、橋が流されたり、道が荒れれば夫役を課している」
「冗談でも、王子で良かったなんて言えなくなってきたわ」
国と宗教でグルになって二重課税もいいところだ。そんな中でも生きている人々は逞しい。
「なんか急にガルバルディって執政官、応援したくなってきちゃった」
「ところが、だ。この執政官が今、行方不明になっている」
「はぁあっ!?」わたしは目を見開いて素っ頓狂な声をあげた。
「暗夜猟兵が情報を渋っていたのは、おそらくこの点だろう。ガルバルディがどこかに連れ去られたまま、消息が掴めていないようだ」
「連れ去られたっ、えっ、誘拐? それじゃあ、わたし達のパヴィア行きは……」
「だから二、三日じゃ終わらないって言ったろ。視察研修という名の、物見遊山で終わせてくれ。そのために馬車も随行人員も、カレンのご希望どおり、最小限の低予算にしたんだ」
「え、待ってよ。それじゃあ、地主農民の反乱と誤認した領主側って教会のこと?」
「ふぅ、そこにお気づきになられましたか、殿下」殴るぞ。
「じゃあ、地元農民はガルバルディ執政官を支持してるのね」
「どうかな。まだ決めつけないほうがいい。反乱は常に政治利害をはらむ。今回の誤認制圧で、教会と地主農民――議会市民へのスタンスが表に出た。両者の敵愾心は高まっているだろうがな」
ヴァンダーが見ている事件展望にまで、わたしはまだたどり着けていない。
その隙間を埋めたくて書類を何度も読み返しているのに、歯がゆい時間だけが過ぎていった。