国王ドレスデンの堪忍袋
明けましておめでとうございます
国王ドレスデンも、ヴァンダーからでた突拍子もない金額と発案に、戸惑った。
「そなたの財産。帝国金貨二千万を凱旋金だと? 戦争を金で回避するのか。それは」
「恐れながら、陛下。金銭による停戦合意は先例がいくつもございます。今回だけです。ボルトン軍総司令官ベルトランとは、前に何度か戦場で手合わせをしたことがございます。彼は退き際を心得ず、徒に兵を死兵に変えても敵陣に進むことしかできない愚将ではございません」
「しかし、公都トリューンを落とせば食糧も物資も手に入る。和議はそれからでもよいと考えるのではないか?」
「いいえ。陛下。ベルトランはそう考えないでしょう。彼の出自はそれがしと同じ平民とのこと。兵士たちが郷里に戻れば、農奴や商工の倅や徒弟だということを熟知しています。勝敗の落とし所というものを常に模索している知性がございます」
「ふむ。そこまでそなたが評価している人物ならば、あるいは」
「陛下、恐れながら!」グラッグ伯爵が身を乗り出す。
「発言を認めぬ」
「なりませぬっ。今こそボルトン軍の軍勢をここで押し返せば、ピエモンテ地方に、向こう五十年は手出しできなくなることでしょう」
「陛下。今のグラッグ伯爵の発言、数字にはまったくの根拠がございません」
「だまらっしゃい! ヴァンダー。そのベルトランとかいう将軍が平民あがりであれば、立身出世に貪欲なはずであろうが。わが軍の兵に一矢もかけず引き下がるなど武門の恥だ」
「かくおっしゃられるグラッグ卿は、修道会あがりでございましたな?」
ヴァンダーが軽く混ぜっ返すと、グラッグ伯爵は押し黙り、幕僚たちから失笑が起きた。
日ごろから平民を見下してきた貴族が、平民出身の将軍をして武門の恥とはちゃんちゃらおかしい。ベルトランはすでに少将だ。国王から元老院へ登院の声がかりを待つ立場だ。立身出世は達成していると言っていい。
そもそも現実の兵士の九割は、貴族が金で雇っている平民だ。豪農で三十人。大地主で一二〇人を集め、それを領主貴族が国王の名の下に契約する。村単位で集めれば身元が簡単に保証担保されるからだ。軍部が個人あるいは私設の傭兵団と従軍契約することもあるが、それには営利目的の裏切り、敵前逃亡や情報漏洩のリスクがつきまとった。
戦争が終われば契約が切れて、兵長は豪農や大地主に戻り、その下についた者たちも田畑に帰る。そこに立身出世を大望する若者がいないわけではないが、グラッグ伯爵が言うような武門の恥という精神論は、多分にして書物の中にしかない。
職業軍人であればなおさら忠義でメシが食えず、充分なメシを食わせてもらえるから忠誠を賭けられる自負心を持っている。これまで薄情貴族から給料を支払われなかったり、無謀な企画で見殺しにされた兵士を多く見聞きしているからだ。
「命より名誉に重きをおく前時代の騎士道精神は、ベルトランにはない。彼の頭にはボルトン国王から預かった兵士を一人でも多く本国へ還すことでいっぱいのはずだ。だから二千万の帝国貨幣が帰りの兵站を助けることに、彼はすぐ気づくだろう」
「敵将を逮捕せず、金を払うだけなど損ではないか!」
歴史書や軍記物ばかりを読んできた頭でっかちが、欲得ずくで戦場を見て人間を見ようとしない。現時点で窮状に追い詰められているのは、五万という大飯食らいの象を前にも後ろにも進められずに立ち往生しているボルトン軍なのだ。そんな単純なこともわからない文官長にヴァンダーも少し腹を立てた。
「損? 誰が損をした。卿か? ロンバルディアか? いいや、俺だよ。俺が自分の金をどう使おうと俺の勝手だ。だから今回、戦禍の回避策の落とし所として金銭解決することを陛下に許可を願い出ているんだ」
「貴様の金で兵站を調えたら、またサヴォイア公国に取って返してくるに決まっているっ。それとも貴様はわが王国に恩を売ろうとしているのか。貴様は何を企んでいるっ」
金と権欲にまみれて慈善の心を養わなかった僧侶ほど醜いものはないのに、そこに猜疑心まで強くなった老人は、もはや子供の癇癪より手に負えない。
ヴァンダーは列席する上級将校に目を向けた。
「カルロ大公陛下は花を育てるのがご趣味で、何度か意見を交換させていただいたことがある。この王城で飲まれている紅茶も大公陛下の許可を得て、俺がサヴォイアの農家に栽培法を教えて委託したものだ。ここ二年ほど前から新茶を陛下へにも献上されているそうだ」
サヴォイア公家の家紋入り紅茶〝ひまわり〟の販売は順調で、ボルトン領のニースやリヨンへ輸出してもいるようだ。その売上がサヴォイア公家の蓄財の一部を支えて始めているそうだ。
「俺の本音は、ボルトン軍に公都まで取りつかれて、俺が指導したブドウ畑や茶畑を荒らされたくないし、ボルトン王国とは今後もサヴォイア公国にとっての良き隣人、良き上客であってほしいと思っている。だから今回だけ、災害という急事が出来し、お互い金で解決できると思ったから奏上しただけだ。気に入らなければ、またあんたが家門で軍を率いて迎え撃てばいい。王国の金を使わずにな」
会議に列席していた幕僚たちから小さな笑いが起きた。彼らもまたヴァンダーの行動原理を冗談半分で聞いていたし、グラッグ伯爵の強権に萎縮しない啖呵が小気味よかったらしい。
「諸君。実は、俺が自腹を切るのには、もう一つ理由がある」
ヴァンダーは幕僚ひとりひとりを見渡した。
「ボルトン軍五万の中には、たしかに先程あったように立身出世を狙っている将校もいる。まあ当然だ、彼らはボルトン国王のために軍を進めて功名をあげたいからだ。サヴォイアを切り取りロンバルディアにも手を伸ばそうと企図しているだろう。我々が叩くとすれば、この主戦論を唱える将校だ」
「将軍、それをどうやって燻り出すおつもりですか?」
「将軍。それでは、和睦後の騙し討ちになりますが」
幕僚の質問にヴァンダーは大いに頷いた。
「ボルトン軍幕僚はいま、後詰を失った情報が錯綜しているところだろう。軍議も交戦中止して被災確認をしたい和睦派と、退路を断たれたと誤認して功を焦る主戦派でわかれるに違いない。この混乱した統制下で、ベルトラン将軍は主戦派を押し切って和議に応じる可能性が高い。理由は先程陛下に奏上したとおりだ。対して主戦派は、ベルトランが日和ったとみなして暴走する可能性を、俺は期待している。我々は向こうの和睦協定違反を盾にして、大義をもって叩き潰したい」
「なら、将軍。我々もその和議に参加させてくださいよ」
別の佐官が愉快そうにいった。ヴァンダーはニッと口端を上げて、
「加えてもいいが、どさくさに俺が向こうに渡した金貨をかっぱらってくるんじゃないぞ?」
大爆笑。国王の御前でテーブルの上に手を出すことは不敬にあたる。拍手ができないので、なりゆき足踏みだ。
「実は、この和議を企画した時に部外になるジェノヴァから、獣人で構成された傭兵三百を雇い入れた。これは俺の金じゃない」
「そっちは誰の金なんです?」
「カレイジャス殿下だ」
おおっ。幕僚が一斉に色めき立った。
「ヴァンダー。王太子は、健勝かっ」
国王ドレスデンの目にも輝きが増した。ヴァンダーは胸に手をおいてお辞儀した。
「肯定であります。本企画立案の主導が、殿下なのです。報告が遅れまして申し訳ございません」
「カレイジャスは息災なのだな?」
「はい。サヴォイア公国をいたくお気に召したご様子で」
「なんと……田舎臭いと申していたのに、クレモナにいたのではないのか?」
「それがしは、ジェノヴァでこの企画立案を打ち明けられました。当地に友人ができたとも伺っております」
国王ドレスデンは、死んだと思われていた王太子が元気よく方々《ほうぼう》を走り回っていると聞いて、狐につままれた顔をした。
「偽りではあるまいな?」
思わず念を押すほどだ。無理もなかった。
「殿下は魔王との死線を越えられて、随分成長されました。和睦が整い次第、ただちに帰参して拝礼し、永の休養をお詫びすると陛下にお伝えせよ、と」
「なんと、もうそこまで……そうか。そうであったか。相わかった。何よりの知らせだ」
これで会議はサヴォイア公国とボルトン軍の和議仲介へ一気に傾いた。
その間、黙りこくってしまったグラッグ伯爵の目には、好機を見逃さぬ憎悪の光を放っていた。
ヴァンダーは着席して、そっと息をついた。
嵐に乗じて禁呪で災害を魔術的に起こすなど、無茶な計画だ。やってのけられていること自体、非常識すぎる。
一方で、ボルトン軍内の主戦派はおそらく半数以上。ベルトランは彼らの戦意を抑えきれまい。一万五千の同胞が一夜で消えた知らせは、ある意味で恐怖だ。兵卒に伝わってしまえば厭戦機運が高まる。そうなる前に公都を攻めるのは、軍人としては正常な判断だ。
「後詰がなくとも公都トリューンさえ落とせば一息つける、なんら成果もなく帰れるか」
と、いきり立つ将校ばかりだろう。
それを金と食糧だけで、どうやって大人しく帰らせるのか、実はヴァンダーも知らなかった。