蜂と蜜と兎の角
「新沼さん、これ、蜂蜜なんですか?」
わたしはオレンジ色めいた液体を見て、たずねる。
「この世界では、オレイカルコスと呼ばれている。前世界では真鍮。ゲームの世界でオリハルコンと呼ばれていた金属の原型がこれかな」
「にゃにぃ!?」
佐藤さんが目を猫のようにまんまるにして、すっとん狂な声をあげた。
オリハルコン。
古代ギリシャや古代ローマ時代の文献に登場する、銅系の合金。初出は『ホメーロス風讃歌』や、ヘーシオドスの『ヘラクレスの盾』などの詩で登場する。
オリハルコンを有名にしたのは、古代ギリシャの哲学者プラトンの『クリティアス』の中で記したアトランティスに存在したとされる幻の金属オレイカルコスとされている。
プラトン自身は、オリハルコンは武器や防具としての硬さや丈夫さよりも希少価値に着目していて、真鍮(黄銅)・青銅・赤銅などの銅系合金、黄銅鉱や青銅鉱などの天然の鉱石、あるいは銅そのものだとする説が有力らしい。明確にオリハルコンが真鍮を指すようになったのは、古代ローマ時代以降のようだ。以来、現代における真鍮の翻訳もこれに準拠している。
「そういえば、前にブライ・ビーの蜂蜜をミモザが合金に使う触媒にしていると新沼さんも言ってましたよね」
「そうだったね。で、ここからが本題でね」
新沼さんはおもむろに、革袋からパンを取り出した。緑色の粉砂糖が乗ったカビパン。ランブルスが思わず声に出して顔をしかめた。
そこに新沼さんは蜂蜜でもかけるようにオリハルコンを流しかける。
「え……っ」
音もなくカビが消えた。パンへは影響がない。パンの上を滑って皿に水たまりをつくった。
「殺菌性は、蜂蜜の上。液体金属はパン表面の焼き皮を透過せず中のスポンジ状へは浸透していかない」
わたしが両手でパンを割ると、パンの断面はきれいな白い内相のままだった。
「これ、銅でも硫化水銀でもない?」
佐藤さんが胸の下で腕組みして唸りだした。
新沼さんはうなずいて、
「この世界の銅には元素Cuの概念がないからね。性質は真鍮のまま、でも[火]と[水]そして[金]の属星をもっている存在で、カビパンからパンが再生する高い殺菌性。いまもこの世界の魔術師たちがこぞって研究対象にしている物質だそうだよ」
「ということは、お値段もそれなりに……?」
「するね。ねえ、ミモザ、金貨五千だっけ?」
「ほうじゃ、その皿に残ったもんだけで家が建つで。本来ならパンにかけるとかトチ狂っとるからな」
「ご、五千っ。これぽっちで……っ」
わたしと佐藤さんはぐぅの音もでない。
新沼さんがとった作戦はブライ・ビーを用いた〝罠〟だった。
〝尖塔城塞〟と呼ばれる規模のブライ・ビーの巣を襲撃した。
これが魔槍アントネッラの初戦闘となる。振るごとに空気が凍って吹雪が起こり、巣を防衛すべく猛然と飛んでくるブライ・ビーの軍隊を氷漬けにしていった。
「ええい、まだるっこしい!」
このままだと見せ場がないと気づいた佐藤さんが中位魔法〝吹雪の抱擁〟を放って巣そのものを凍らした。だがややもして巣から蜂が顔を出した。
「やっば! 蜂の巣って断熱素材か」
「佐藤さんっ、ブライ・ビーは魔力にも反応する蜂なんだ。その中位魔法で周囲にあるブライ・ビーまで刺激するから!」
「せやったらっ、また〝冬厄災風狼剣〟じゃあ!」
「いい加減にしろっ、環境破壊魔王!」
新沼さんが真顔で叱ったので、佐藤さんは全力で逃げ出した。温和は彼も怒る時はあるらしい。
そんなこんなで、凍って地面に落ちたハチ数百匹を日没までスコップで集めて、チェストへおおまかに百匹前後いれていく。一個体が三〇センチもある巨蜂なので百匹で箱が一杯になった。
それを十個。みんなで運んで馬車の荷車に載せていく。
壊れた馬車はなかったが、普通の荷馬車ならあった。馬の死体はなかったが、剥いだばかりの馬の皮はあったらしい。そのへんは闇夜がなんとか兵士の目を誤魔化してくれるのを期待した。
チェストを荷台に積んでメレツェト峠をくだり、さも事故で横転したように転がした。
少しだけ、チェストのフタを開けて。
山沿いとはいえ、炎天下にさらされた峠道は地表の熱が残り、チェストの中の蜂たちを急速冷凍から呼び覚ましたようだ。
作戦成果は朝になって理解した。
これが戦争だ。
兵士の死体があちらこちらに転がって、うめき声がそこかしこから聞こえる大惨事だった。
交戦目的ではない偵察部隊は、夏という時期もあり軽装だったことも災いしたようだ。鎖帷子三枚を貫く魔蜂の針は容赦なく彼らの皮膚を貫いていた。
もちろん、わたし達は、なにくわぬ顔で人命救助にかかった。
兵士は全身の激痛と喉の渇きと、たまにやってくる痒みに苦しんでいた。宿場町バルトネッキラの教会に収容すると、ボルトン兵士から一様に感謝された。部隊から置き去りにされて苦痛のなか一晩過ごしたのだから、不安は相当だっただろう。
「走れそうな兵士に、族長からの注意喚起の書面を持って帰ってもらった。あれでこの道を軍隊が通る可能性は今回限り、なくなると思う」
「今回限り?」
「軍隊は懲りない集団だからね。この〝事故〟でボルトン本国へ通達してもらい、この道を行軍の選択肢から封鎖してもらうけど、同じ策が十年先、二十年先まで通じないよ。戦争だからね」
新沼さんは他人事の口調で、長老会の依頼達成を鼻先で笑った。
§
「ようやってくれたのぅ」
長老からお褒めの言葉を頂戴した。
わたしはそれよりも、ミモザの兜に新しく生えている角が気になった。
犀からカエンダケみたいな、規格外で売れ残った小ニンジンみたいな太さの、先端で枝分かれした奇妙な赤い角を見ていた。
もしかすると〝角野兎〟の角じゃないのか。前世界で十五から十八世紀まで存在が信じられていた角うさぎだ。形の見映えはしないけど、ミモザはどこか誇らしげだ。
「カレイジャス・ロンバルディア」
「あ、はい。すいません、聞いてませんでした」
長老たちはだんまり。やばい、なにか重要な話だったのかも。
すると隣室から侍女めいた女アルプが現われて、わたしの前にピロークッションをさしだされた。
「指輪、ですね」
「ネックレスじゃ」
まぎらわしいって。
手に取ると細緻な白銀鎖が髪のようにしだれた。侍女がつけてくれたけど、内心はこういうの苦手だった。農作業中になくしたら泣くに泣けない。
「立ちなされ」
促されて立ち上がると、長老たちも立ち上がり、そしてわたしの足下に跪いた。
「ウルクス長老会議はツェルマットの名において、最長老ティアマットに代わり、貴女様にお味方することをここに誓約いたします」
対応がわからず、新沼さんを見る。彼が微笑とともに唇を動かした。
「ゆ……赦す」
ははっ。長老たちは頭を深く下げて立ち上がると、再び円座に戻った。
「次に会うときは、お前さんの玉座か陣幕かのぅ。道中、達者でな」
報酬は金貨三百枚と鉄鋼インゴット六百キロの引換証書。実に精錬民族らしい内容だった。
それらをすべて新沼さんに渡した。
「いいの?」
「新沼さんがいらないならミモザにあげてください。使える人が持ってたほうがいいです」
「たしかにそうだね。それじゃあ、遠慮なく」
わたし達は馬車に乗って、小さな月と降るような星空の下、ウルクスを出た。