農業貴族令嬢・菊地花蓮
祖父・歳三が変わってしまったのは、親友が収穫窃盗団に殺された直後だったように思う。
農業人として地元旧家の跡取り婿として、なにかの箍が外れてしまった。
お葬式の帰りに喪服のまま祖父が向かったのは、地元の暴力団事務所。
大組織の末端ではなく、世間からハレモノ扱いされながらも地元で細々とやってきた地廻りと呼ばれる零細組織だ。生計は、畳屋で植木屋で表具屋(襖や障子の貼り替えなど)さんだった。
その彼らを説き伏せて協力してもらい、堆肥の製造会社を起ち上げた。
アメリカから大型重機を輸入し、畜産農家からでる経済動物の排泄物の買い取り、海産物加工業者からは貝殻の回収契約をする。その一方で農家には鶏ふん、豚ふん、牛ふん、焼石灰の混合堆肥配給契約を結ぶ。自治体や農業ギルドが介入しない堆肥は料金が高いと思われがちだが、逆だった。
経済動物から毎日出る排泄物をお金を出しても引き取ってほしいという畜産農家は多くいる。それを格安で引き取り、プロの確かな目で見た完熟の肥料にして格安で売る。そのプロセスを公開にした。中抜きなし、転売もなし。
この堆肥会社が、契約農家から買うのは信用だと、お祖父ちゃんは言う。
利益は出ないと見込まれていた会社は創業の一年弱で売上が億に指がかかるほどの年商を得た。二年で堆肥工場が黒字化に成功、また借金して放置されたままだった亡くなった親友の農地をすべて買い取り、ファームプラント企業を起ち上げた。
株式会社 新選組。
三年目、協力してくれた暴力団事務所は廃業し、長倉という組長さんが代表取締役に収まってバリバリやり始めた。元構成員さん達は、祖父がお金を出し、通信教育で高校や大学を卒業させて、「ただのチンピラがインテリチンピラになっただけら」と笑うほどにランクアップしたらしい。
でも彼らは祖父を〝伯父貴〟と呼び、わたしまで〝お嬢〟と昔風に呼ぶのをやめてくれない。
販路は祖父の農家界隈の人脈と堆肥配給契約を結んだ農家ネットワーク。彼らはそこへ営業マンとして上質な堆肥と輪作プランを武器に農業交流と私営即売所の設営を行った。土地は契約農家さんが遊ばせている一坪や二坪ほどのスペースに置いた自動販売機だ。
六年目。祖父が「ようやく軌道に乗った」と言わしめた会社の年商は二七億円を超えたらしい。一般企業からすれば急成長だった。祖父からすれば「農業の渇望の顕れ」だった。
「現代の高齢化した農家は前以上に孤立し始めとる。大昔は領主がおって、今は都合が悪くなると首がすげ変わる自治体とギルドだ。農家を食い物にする捕食者が変わっただけで農業を継続させる知恵がねぇら。なら、わしらで自警するしかないら? これは、わしなりの一揆だ」
祖父は株式会社の筆頭株主になっても、あいかわらず畑に出て農業をした。
経営について長倉さんと毎晩討議を重ねている。たまにわたしや祖母も祖父のとなりで聞いたりもしていた。
祖父が長倉さんへ厳に頼んでいたのは、農業提携を申し込んでくる海外企業とマスコミ・メディアのシャットアウトだった。
それは亡き親友が、メディア取材に応じた半月後の収穫期に襲われたからだ。
「あの時、龍生がお人好しにも撮影カメラに向かって収穫高と年収、海外への競争力を力説せんかったら、襲撃当日に酒が入ってなかったら、殺されんで無事だったら」
毎年、親友の命日を悼むごとに、祖父のマスコミ嫌いはアレルギーといえるほど加速した。
いつだったか。東京から地方農業の現状取材と称してテレビ番組制作会社がアポもなしにやってきた。
「菊地さん、地元農業の活性化のために取材させてもらえませんか」
「農業の活性化? そしたらきみらは具体的にどういう状態を活性いうか、教えてくれんか」
「は? えっとそれは……その」
「ふん。農業の未来展望も持たねぇのに、美辞麗句だけで飾り立てた売り言葉で、なんも知らん善良な年寄りを世間に晒して笑いものにすれば満足かもしれんが、わしはごめんだ。帰れ」
にべもない祖父の態度がお気に召さなかったようで、スタッフの一人がいきり立った。
「それでは菊地さん、御社の社員に元暴力団構成員が含まれているという情報がありますが、それについて一言」
「馬鹿っ、今それをだすな……っ!」
先輩の制止は間に合わず、踏み込んできた若い取材員に祖父はニタリと笑った。
「のう、若いの。その情報はどこで聞いてきたんなら?」
「えっ? いや、だから解散した長倉組が地下に潜り、組長だった長倉信八が御社をフロント企業にして盛り返しているという噂があるんですがね」
「お前ら何を取材にきたら。うちはご覧の通り二百年続く農家ら。外国人の窃盗団に殺された親友の農地の面倒も抱えこんで人手が足らんようになったから法人化したに過ぎん。後日、御社には名誉毀損で弁護士をやるでな。この名刺は預かっておく。今日はご苦労さん」
「あの、菊地さんっ」
ピシャンッ。取り付く島なく玄関を閉めた音が三和土を震わせた。
「お祖父ちゃん?」
「ふん。上っ面の虚構だけで飯を食うから、吐く言葉も虚言しか紡がんのら」
その後、このときの訴訟が起きたかどうか、わたしは知らない。
ただ、母が普段買わない週刊誌をもって、祖父の部屋へ飛び込んでいったのは覚えている。
新手の農地の地上げ。部屋ごしに母の声を拾った。
そうだ。思い出した。その言葉だ。わたしも、母がもっていた週刊誌を確認しようと思って、学校の帰りにあのコンビニに寄ったんだ。
§
前世界のわたしには、友達はいたり、いなかったりだったと思う。
県立昇龍館高等学校農業科。菊地花蓮。
学校で読書はよくしたけれど、学校の図書室では祖父の蔵書ほど込み入ったものがないので、通うのは一年の夏前に諦め、二年の春から農業の経営哲学も読むようになった。
部活は、電子顕微鏡を使わせてもらえるという検疫部に一年生から入った。
ここでは教師の指導のもとで鶏舎、豚舎、羊舎、牛舎、馬房の簡易病疫チェックと、人工授精を教わった。
結構忙しい部活で、三年間ここでみっちりやると防衛医科大学や農林大学校での実験ノウハウにつながる利点があるらしい。
検疫部は〝ガチ来いエリート〟と呼ばれ、農業バイオテクノロジーに携わりたい学生だけが集まった。顧問が英国の科学誌に論文を載せている関係で、「大学チームが載るなら、高校チームで載ったらかっこいいはず」という夢を持って電子顕微鏡に誘われて、この学校に赴任したらしい。
そのせいか、この部では通年で家猫三十匹を対象にトキソプラズマ症の抗体保有数を調べていた。獣医免許があるわけではない未成年なので、十八歳になった三年生が教師の立ち会いでこっそりと。
トキソプラズマ症は、トキソプラズマというアピコンプレクサ属である一属一種の寄生性原虫により起こされる感染症だ。
この寄生虫はほぼ全ての哺乳類や鳥類などの脊椎動物に感染能を持つ。ヒトの食肉習慣やネコの抗体保有率、衛生環境などが複雑に関連すると考えられているが、全人類のおよそ三分の一以上が感染していると推定されるなど、非常に広く蔓延していることが知られている。
一般的に、トキソプラズマは健常者なら体内免疫で排除できるとされる。でも免疫不全となると最悪、死に至る。また妊娠初期に感染した場合、胎児に重い障害が残る場合があるそうだ。
とにかく症状が外へ出にくい感染症なため、「顧みられない感染症」とも呼ばれた。
また、この寄生生物の特徴で、寄生した宿主を他の動物に捕食させるという被食操作を行い、猫だけを終宿主として寄生するという性質をもっているらしい。
すなわち、ネズミが猫の糞を食べることで宿主となり、そのネズミを食べる他の猫へ感染する。
トキソプラズマは寄生したネズミの脳に取り憑き、捕食者に対して反応速度の遅滞、無気力、危険回避の鈍化といった野生本来の本能を鈍らせ、ネコに食べられやすくするという操作をすることがわかってきている。
そして近年、トキソプラズマは人間も同じように脳を操っている節があるという研究が報告された。東欧チェコ共和国の進化生物学者ヤロスラフ・フレグルの研究論文によると、人に寄生したトキソプラズマは脳に到達するために白血球を乗っ取るそうだ。
白血球は本来、体外から入ってきた病原体の侵入を攻撃する細胞だ。トキソプラズマはこの白血球に取り憑き、化学工場に変え、人の恐怖感や不安感を鈍らせる神経伝達物質を作らせているのだとか。
これが本当なら全人類の三分の一以上が感染していると推定されているので、十数億の人の恐怖や不安感が鈍化されられているらしい。まるで都市伝説みたいな論説だ。
「……というようなことを、高校時代やってましたね」
「いや、少しも農業じゃねーし。てか、カレンちって農業で年商億とかマジ豪農貴族やん」
佐藤さんは今までのわたしを妹分として見る目が変わった。たぶん今だけだろう。
「鳥インフルエンザや豚熱病もこのトキソプラズマの性質や生活環を踏襲しているんじゃないか、それなら堆肥の管理が家畜感染を抑えこめる一因になるのではないか、というような論文を書いて出したら、面白がってくれただけですよ」
「堆肥って うんこよね?」相変わらず佐藤さんは容赦がない。
「まあ、俗っぽく言えばそうですけど、易分解性有機物です。微生物が分解済みの動物排泄物が、いわゆる有機肥料と呼ばれるものなんですけど」
「新沼くん。これもう[緑の手]ってレベルじゃないよ? オタクじゃん」
「オタクはレベル指標じゃないけどね。――菊地さん、[動物図鑑]では調べてみた?」
新沼さんの教師が生徒に確認させる口調だったので、わたしは鼻息した。
「猛毒を持つ蜂は出てくるんですが、蜜を製造する蜂かどうかの生態や生活環境は表示されなくて」
「うん、そうだね。菊地さんはまだ[博物図鑑]もってないんだっけ?」
新沼さんは言いつつ、佐藤さんに流し目をおくる。
「新沼くんこそ、持ってないん?」
「Ⅰのままだよ。いやぁ、仕事が忙しくてね」
期待する目線を送られて、佐藤さんは忌々しそうにむっつり顔になって、[博物図鑑Ⅰ]を呼び出した。
「わかったわよ。しっかり食べたから、カレンのためにきっちり働くわよ。ったく。こんなのハチミツで調べれば楽……ん、重金属の鉱物を溶かして蜜嚢に蓄え、重金属の蜜を作る蜂? そんなのがいるらしい、てかコイツ、蜂ってよか魔物よね。重金属の蜂蜜とか、もう人の口に入れていい食品じゃねーし」
「ということは、山にいる魔物ですか?」
「んー。鉱山ね。水銀や鉛から蜜つくってたら、蜂蜜じゃなくて完全に毒物だけど?」
「普通はね。でも売買されてる」
「は? おいコラ、新沼。お前、知っててあたしに振ったんか?」
佐藤さんも踊らされたとわかって、喧嘩腰になる。
新沼さんはもう扱い慣れたもので、微笑んで受け流す。
「ミモザが合金をつくる触媒にしてたのを聞いたことがあった、それだけ」
「ちょっ、おまッ。本当に知っててあたしに振ったんか!?」
佐藤さんに藪睨みされて、新沼さんも跋の悪い笑みを浮かべた。
「少しはもったいぶらないと、有難味がないじゃない?」
「回りくどいのは、余計有難味がないんじゃ! 隙あらば[緑の手]に恩を売ろうとすんな。んで、場所は? どうせそこまで知ってんでしょ?」
「ミモザから聞いた話だと、鹿の角族の西都ウルクス。ロンバルディアの北西、ツェルマット連峰のコルティン・アルプスだね」
「もぉっ、そっちもサヴォイア公国なんかーい!」
佐藤さんがテーブルに突っぷした。




