二虎競食の開宴
その夜――。
新沼さんが〝クレムの鉄工房〟へ夜食の差し入れる弁当を頼まれた。
すると、マントヴァーニ伯爵父子まで夜食を所望してくるので、厨房で残っているベーコンをつかって、ハムカツサンドをつくる。
もも肉のベーコン――豚の後ろ脚一本のやつをやや厚めに切って、小麦粉と玉子、ライ麦パンを削ったパン粉で包み、油鍋に木のフォークが泡立つタイミングに投入。
最初は低温でじっくり、二度目は高温でさっと揚げる。
フィオーレいわく、この世界にもカツレツはあるけど、二度揚げの概念がない。だから揚げ物はたいてい薄っぺらいハムが出てくるそうだ。
ともあれ、マラリア熱から生還したマントヴァーニ伯爵がサクサクの食感を気に入ってくれ、とくに黄色いソースがよいと絶賛をもらった。
ソースの正体は、からしマヨネーズだ。
夏場なのになぜか厨房に残されていた玉子を三つ見つけた。
冷蔵庫がないこの世界、サルモネラ菌の心配はあったし、翌朝の朝食に出されて一家食中毒になるよりマシだろうと、使い切ることにした。
ワインビネガーとオリーブオイル、マスタードは種を潰して殺菌性を高めて使った。トンカツにはやっぱり辛子だからね。
食後、フィオーレがわざわざ厨房までやってきて、わたしに羨望の眼ざしを送ってくるので、見なかったことにして厨房の片づけをさっさと進める。
新沼さんはハムカツサンドを手に、ランブルスと西地区へ出かけていった。
今夜は、雨をはらんだ嵐の風が吹いている。
わたしだけが、蚊帳の外だ。
その二時間前。
「わたしは、あんたたちの主人じゃないのっ!?」
同じ使用人の食堂で、わたしは本気で激昂した。
足下にはバジルが床に膝と手をついて頭を下げていた。
「タラゴンが死んだのは、わたしが未熟だったせいでもあるの。なのに、わたしだけ何もするなって、どういうこと!?」
バジルは答えない。ただわたしの怒りが鎮まるのを平伏して待ち続ける。
「いやよ、絶対にいやっ。そこまで火消し計画を打ち明けられて、黙って指くわえてられない。わたしだってタラゴンのために仇を討ってやりたいよ!」
「お嬢。今だけ、この場だけ、俺の本心を言っていいっすか」
「はあっ? 何よ、言いなさいよ!?」
「あんた、邪魔っす」
わたしは瞬息の刃を鞘走らせた。本気で斬る気はなかったけど体が反応した、怒りの衝動でバジルに斬りかかっていた。
「くくくっ、いい太刀筋っすねえ。俺も気合いが入ったっすぅ」
バジルは額左から赤い線を滴らせつつ、見事に小太刀で受けきって満足そうに喉を鳴らす。
「死んだら、わたしがあんたたちを殺すからねっ」
「お嬢を、俺たち革兜衆が守らなくて、誰が守るんすか」
「たった五人で二つの貴族私兵を相手にして、ちゃんと生きて戻ってきたら褒美をあげる。なんでもいって。それを言うまで発進させないっ」
「褒美……なら、トマトを使った料理を食わせてほしいっす」
わたしは目を見開いた。
「なんでっ、トマトを知ってるの?」
「タラゴンが寝る前にいつも美味かったって思い出しながら腹をさすってたんすよ。あいつ、内緒ごとが下手すぎっすよね」
わたしは剣を落としてまた泣いてしまった。バジルを力いっぱい抱きしめる。
「お願いだから、無事に帰ってきて。みんなでクレモナに帰ろう。あんたたちに食べさせたい異世界料理がいっぱいあるんだから!」
「くししっ。そりゃ楽しみっすねえ」
バジルはわたしの背中を二度叩いて、食堂を出ていった。
見えなくなった後、わたしは声に出さず、もう一回泣いた。寂しくて。不甲斐なくて。
「さて、と。あたしもそろそろ寝ようかなっと」
席を立った魔術師のスカートを、わたしは掴んだ。
「ざあどぉざぁん……っ」
「なんて? スカートを引っぱんな!」
「なにがバジルに、入れ知恵しましだぁ?」
「はっ? するわけねーしっ。あたしずっとこの館の蔵書室おったって。ていうか、あんた。鼻水くらい拭きなって」
わたしは遠慮なくスカートで鼻をかんだ。
「うわっ。お前、最悪すぎっ。マジ終わってるっ」
「なにか入れ知恵、しましたよねぇ!」
「してないつってんだろうがぁっ。あたしよか新沼くんがやってんじゃないの? 知らんけど」
「だって新沼さん、何も言ってくれないんですよぉ!」
「お前が訊かねーからだろーが! コイツ面倒くせーなあ、もうっ。寝ろ、役立たず!」
「役立たずって言ったあっ、毎日ご飯作ってあげてるのにぃ!」
優しさのひと欠片もない先輩の塩対応がひどすぎて泣きわめくと、わたしの剣を振り回された。
「幼児退行もっ、はなはだしいっ。いっぺん気を失ってっ、再起動してこーい!」
逃げ回っていると、上階からおりてきた新沼さんとマントヴァーニ伯爵に夜食を頼まれた。
――という、運びとなった。
それから夜食を作るのに、コンロに薪をくべるところから始めるので、完成まで一時間かかった。電気・ガスのない世界は正直せつない。
§
夜雨の彼方から鎖帷子のこすれる音が近づいてくる。
城門の外で松明が円を描く。
それを見て城壁上の歩哨兵が、松明を円に描く。
「よし、フィネスコ家の手勢だ。門を――」
言い終わるより早く、門兵の喉を飛槍が貫いた。
何が起こったのか訝しむ顔のまま吐血し、松明を持ったまま門の外へ落ちていった。
「お見事」
新沼圭佑は、ランブルスの手並みを褒める。城壁の高さは五メートル。的に当てるどころか投げ上げることすら難しい高さだ。
「おい、どうした。なぜ門が開かないッ!?」
格子戸の外までやってきた傭兵たちが騒ぎ出す。
圭佑は、〝匣〟をとり出すと、力んだ表情で城壁に投げ上げようと振りかぶる。
その頭上にかかげた両手から、従者に〝匣〟を取り上げられた。
「あっ」
「いいかげん肩の弱さを自覚しなさい、よっ!」
ランブルスが〝匣〟を城壁の上へ投げあげた。
それは放物線を描いて、壁の外へやってくる鯨波に飛び込んだ。
爆発。
野郎どもの太い悲鳴が城門の向こうで飛び散った。
それに連動して、二人の背後でも雑踏が城壁の階段をのぼる。残った門兵は逃げ出し、コボルト族に背中から押し倒されて捕縛された。
松明をもった屈強な犬戦士二名に挟まれ、革甲冑を纏った美麗な騎士が眼下の闇に向けて声を張った。
「この市門はマントヴァーニ家が守りを固めた! なお押し通りたければ貴様らの命を通行料にもらい受けるが、よいか! 地獄に落ちたい罪人から前に出よ! 射撃手、狙え!」
フィオーレの威風堂々たる号令で、城壁に並ぶコボルト兵が火矢を一斉に構える。
聞くに耐えない悪罵をはきながら、闇へ逃げ去る亡者の足音が遠ざかっていく。
「アポリ先生、ここはもう大丈夫そうだから、僕たちは行こうか」
「承知」
二人は、ちょっとした寄り道から本道へ戻る足取りでその場を立ち去った。
§
「下郎、名前は」
「へぇ。バジルと申します。商売は魚の行商をしておりまっす」
ドーリア家別館・ジャネッティーノ邸。
「この暑い時期に魚を、か」
尊大横暴と言われる男の顔は下膨れで、神経質そうなギョロ目となまず髭が特徴の貧相をしていた。
「いえいえ。夏はさずがに魚の方が足が早いもんで、売り歩きは当分。ですんで、まあ、そこはそれ、にしししっ」
「ふんっ。小遣い稼ぎで、この俺様に直接耳に入れたい、お家の一大事と、ごねたらしいな」
「にしししっ。フィネスコ家の当主が貴方様の寝首をかこうという企みを、ちょいと酒場で小耳に聞いちまったもんっすから。ええ」
「小遣い稼ぎになると踏んで、わがドーリアに注進か。ふんっ、しかし俺様の寝首をかけるやつは、そうそうおるまい。この俺様を誰だと思ってる」
「ええ、ええ、もちろんよく存じておりまっすとも。ドーリア家の次期当主、海軍総督になられるジャネッティーノ・ドーリア様ですとも。この町で知らぬものなどおりませんとも」
「ふんっ。世辞はよい。それで、いつ俺様の寝首をかきに来る」
「へぇ。聞いた話じゃ、今晩だそうで」
「なにぃ?」
「おや、ご近習の方々からもお聞きでない? 荒くれ者どもが北から七十人ほどだそうでっす。城門兵に小銭を渡し、手引させる段取りだとか。なかなか堂に入った策略のようで」
バジルは早くお世辞を言わせてほしいという笑顔で、相手の顔色をうかがった。
「フィネスコ……ヤツも入港式典に来て、あれを見ていた。そうか、ガレー五隻。ヤツの目的は魔導砲かっ!?」
「さすがさすが、さすがは次期水軍総督でいらっしゃいまっすぅ! 閣下のご賢察、このバジル感服いたしましてございまっする」
「たわけめっ。行商人の分際でいささか戯曲にかぶれすぎだ。ふっ、面白いやつだ」
「お褒めいただき、恐悦至極のこんこんちき」
「なら、決行の合図を聞いているか」
「ええ、もちろんでございますとも。ですが妙な合言葉を用いておるようで。北門で大きな落雷あり。それを合図とし、外から七十人で攻め寄せよ。ドーリア家が城門へ急行した隙をうかがい、埠頭に停めてある船に乗りこむ算段とか」
「なるほど。陽動か。ジョヴァン・ルイジ・フィネスコ、小賢しい男め。……よし、おい。この者に褒賞、金貨三枚を授けよ」
「金貨三枚も!? おお、ジャネッティーノ・ドーリア様とご家族様に神の祝福があらんことを」
「貴様はもう下がってよい。陣触れを出せ。時間がないぞ」
慌ただしくなったドーリア家中を尻目に、バジルは廊下を進んで外を目指した。
ふいに背後から刺してくるような視線に気づいた。
「おい、待てよ」
後方の柱のかげ、バジルは足を止めたが振り返らなかった。
「その帽子の角、飾りじゃねーな。おめー、人じゃねえだろ」
「あんたは?」
「オレが人外に答えてやる義務はねーよ」
「金貨三枚をせしめたあっしに、たかろうってんすかい?」
「あぁ? そんな端金なんざいらねー。テメェの首を置いてけっていってんだよ」
バジルが右足を前に出した瞬間に、モーニングスターがふってきた。
スパイクボールが大理石の床を割った。速い。あれを受ければ頭蓋が木端微塵に砕ける。躱せば素性を問い詰められる。
さて、どっちにするっすかねえ。
「おいっ、セイラ。何をしている!」
ドーリア家の近習だろう。咎める声が入り、攻撃の手が寸前で止まる。だがスパイクボールの遠心力は止まらない。
バジルは床にヘッドスライディングで鉄球の下をくぐって躱し、そのまま四つん這いでバタバタと近習の足下まで走っていった。
「お助けください。お助けくださいっ。いただいた金貨はお返ししますんでぇ!」
バジルが哀れっぽい声で近習の脛当てにすがりつくと、男は苦虫を噛み潰した形相で修道女――にしては裾の丈が短すぎるフード女を睨んだ。
「セイラ、いい加減にしろっ。貴様もジャネッティーノ様の護衛だ。用意せんか!」
「マージさんよ。そいつから、どうにも胡散臭ぇニオイがする。少し攻めて素性を――」
「今、私が貴様に命じたのは何だ? 二度も言わせる気か。問題ばかり起こして、貴様のお目付け役である私の気苦労を少しでも軽くする姿勢を見せろっ」
ちっ。セイラは嫌悪を隠しもせず、廊下を去っていった。
「騎士様、危ないところをお助けくださり、ありがとう存じまっす」
「よい。弊家も無作法をした。あやつは新参者で功を焦っておるのだ。許してやってくれ」
「へぇ。ときに、あの方はどこの修道会で?」
お目付け役は心底疲れた顔で、去っていく新参者の背中を見送り、
「ウジニョーロ会主宰コバヤシセイラという。ドナートナ修道会も手を焼いたというアサシンプリーステスだ」