なくてはならない存在
ご無沙汰しており申し訳ありません。更新していない期間も感想など頂き、大変ありがたい気持ちでいっぱいです。
コンコン、と扉を二度叩く音で菫は目を覚ました。悲しいことに普段家を訪ねてくる友人等がいないため、一瞬「もしかして寝坊して会社の人が訪ねてきたとか?」と寝惚けた頭なりに考えながら周囲を見渡したところで、漸く脳が覚醒した。明らかに自室とは違う風景で、そういえば異世界へ来てしまったのだと悟る。
ひとまず口頭で返事をしてから上半身を起こすと、ソファーで寝てしまっていたからか身体の中でパキパキと音がするのが分かった。とはいえ、会社勤めの中で繫忙期は徹夜等もざらにあったので、大して苦痛には感じない。寧ろどちらかと言えばぐっすり寝すぎた方であった。
「こちら、朝食になります」
菫が扉を開けた先には、固い表情でそう言って朝食の載ったトレイを差し出す女性がいた。昨日部屋を訪れた者とは違うが、恐らくこの宿の従業員なのだろう。菫は「ありがとうございます」ととりあえずにこやかに返してトレイを受け取った。何故か彼女は小さく溜め息を吐き、頬を紅潮させていた。もしかして熱でも出ているのだろうか。こちらの世界でも、多少の熱では休めないブラック企業(と言うべきかは分からないが)も存在するのかもしれない。とはいえ、菫が口を出せることでもないので申し訳ないが放置するしかないが。
従業員の整えられた髪型を見て、そういえば昨日はダールの前髪を切ろうと考えていたことを思い出す。出来れば後ろ髪も切ってあげたい。というより、菫の好みとして切らせてほしい。ダールの同意がなかったとはいえ菫が購入し主人となったわけだし(目指しているのは主従の関係ではないが)、多少菫の好みに合わせてもらったとて文句は言われまい。いや、勿論不服があればダールの意思に従うけれども。
「すみません、ハサミってありますか?」
そう問うと、従業員は首を傾げた後、自らの腰に巻き付けていたエプロンのようなもののポケットの中からハサミを取り出した。暫く借りて良いかと聞けば「他に予備もありますので、返却はいつでも結構です」と返答があったのでありがたく借りることとした。髪を切る用のハサミではないが、ひとまず短めにするくらいなら十分だろう。その内、理容室などを見つけてカットしてもらうようにすれば良い。
朝食は、四角い食パンのようなパンが一枚と、橙色のスープ、目玉焼き、ウインナーが四本であった。スープは香りからして南瓜だろうか。豪華とは言い難いが、まあ極めて普通の洋食である。昨晩の懸念が当たっていれば、これもこちらの世界では豪華なご飯なのかもしれないが。
ふと、もしかするとやはり米はないのかと考え、菫は気落ちした。前の世界に大きな未練はない――と言いつつ折角だから通帳内の全財産を下ろしてくれば良かったとは思っている――ものの、純然たる日本人として米がないのは存外つらい。流石に納豆などはこの世界の雰囲気からして高望みだろうとは思うが、せめて米はあってほしかったというのが本音である。
まあないものは仕方ないしちゃんと美味しそうと感じられる食事も前の世界と大きく変わらない甘味も(値は張るが)あるので、とりあえずは良いだろう、と菫は無理やり自身を納得させ、目の前の朝食を再度見つめた。そして、ちらりとベッドの方を見やる。
ベッドには、昨晩寝てからそのまま起きていないだろうダールがすやすやと眠っている。前髪はヘアピンで留めたままなので、美しい寝顔が惜しげもなく晒されている。菫は昨晩の自分に心の中で拍手した。良い仕事をしたものである。好みドストライクなイケメンの寝顔は目の保養だ。
「起こすのも心苦しい美しさ……。だけど、朝食は温かい方がいいよね…」
穏やかな睡眠と美味しい食事を天秤にかけ、菫は後者を選択した。睡眠なら朝食の後に再度取っても良いのだし、と考えた結果である。
「ダール、ダール。起きて。朝食だよ」
「………ん…、?」
「おはよう、ダール。気持ちよく寝てたのにごめんね。朝ご飯が来たから食べよう?」
「っ!?…す、スミレ様……ッ!?」
ダールは菫のことを認識すると、ガバリと布団から起き上がった。かと思えば、辺りを見回してから顔色を真っ青に変える。一体何事かと菫が戸惑っていると、慌ただしくベッドから下りたダールが床に正座して頭を床へと擦り付けた。
――紛うことなき土下座。そして二度目である。
「ちょっ……」
「寝台を占拠した挙句、惰眠を貪る等…っ、申し訳ありません!」
どうやら、ダールは主人である菫を差し置いてベッドで寝ていたことや、菫よりも遅く起床したことに申し訳なさを感じているようであった。意図したところではないが、食事よりも睡眠をとって起こさずにいたのなら、もっとダールは申し訳なさを覚えたに違いないので、結果オーライである。
菫は努めて優しい口調で気にしないように伝えると、未だに申し訳なさそうに眉尻を下げるダールの手を引いて昨晩も座った(そして菫の眠っていた)ソファーに座るように促した。次いで、自らもその隣へと腰掛ける。当然肩が触れ合う程の距離であるが、菫は決して役得等とは思っていない。決して。
「朝ご飯が来たから食べようね。って言っても、一人分だから……足りなかったら、出掛けたときに何か食べよっか」
「え、いや、俺……わ、私は」
菫は話しながら、豪快に朝食のパンを半分にちぎった。実際には上手いこと等分にはならなかったが、体格から鑑みるにダールへ大きい方を渡せばちょうど良いだろう。それに、足りなかったらとは言ったものの、それはダールの胃袋を慮った故であり、菫自身は朝食の半分と昨日の残りの洋菓子で事足りるのだ。
会社に勤めてからは、朝食は食べないか、ゼリーやシリアルバー等を食べるだけで済ませていた。そのため、事足りる――どころか、もしかすると食べきれないのではないかと危惧するレベルである。結構な期間朝食を疎かにする生活を送っていたので、あまり食べすぎると胃が驚いてしまいそうだ。
菫はちぎったパンの大きい方に目玉焼きを乗せ、その隣にウインナーを二本寄せた。小さい方にもウインナーを二本並べる。それ程大きい皿ではないので少し窮屈な感じはするものの、まあ綺麗に分けることが出来たと言える。菫基準ではあるが。
「こっちの目玉焼きが乗ってるのが、ダールの分ね。ウインナーも。スープはダールが貰っちゃって良いからね」
「し、しかし、それではスミレ様の分が…」
「私はこっちで足りるから。元々あんまり朝ご飯って食べないんだ」
どうしたら良いか分からないのか、ダールはおろおろとした様子で目玉焼きの乗ったパンと菫を交互に見る。菫が「いただきます」と先に小さいパンを手に持ったのを確認して、漸くダールも「いただきます」と呟いた。菫はその様子に満足して、一口パンを齧った後ウインナーを口にする。皮はパリッとしており、過去食べたことのあるウインナーと比べても遜色なく美味しい。見た目と反して不味いということがなく安心である。
ダールを覗き見ると、どうやら順調に食べ進めたらしく既に三分の二程を食べ終えているようであった。嬉しそうに食事を頬張っている様子を見るのは大変微笑ましいし、目に優しい光景である。ずっと見ていたい、等と思いながら、菫も自分の朝食を食べ進めた。
朝食を食べ終え、昨日購入した洋菓子もお腹に入れた(ちなみに、このときも菫はダールに「あーん」で自分の洋菓子を一口食べさせたことをここに記しておく)二人はまっすぐに見つめあっていた。ダールはソファーに座り、菫はその前に立っている状態である。さて、ここで何をするのか――…かねてより企図していた、ダールの散髪である。
菫は利き手である右手で宿屋の従業員から借りたハサミを固く握りしめる。自分の前髪くらいは切ったことがあるが、勿論美容師の資格なんて持っている筈のない菫は他人の髪等切ったことがないのでどうしても緊張してしまう。菫の緊張が伝わっているのか、目の前のダールも心なしか顔色が悪い。
(それはそうだよね、素人に髪を切られるなんて、禄でもない髪型にされそうで怖いよね……。でも、このまま伸び放題っていうのは嫌だし……上手いことそこそこの長さで揃えて、細かいところは理容室みたいなところでお願いすれば……)
心の中でそう算段を立てた菫は、ハサミを持ってダールに近付いてから、あることに気が付いた。――切った髪をどう掃除するか、ということである。このまま散髪すれば、昨日購入したばかりの服は勿論のこと、床も髪だらけになってしまうだろう。その掃除を宿屋に任せるというのは申し訳がなさすぎる。
「汚すと後片付けが大変だよね……どうしよう」
そうぼそりと呟くと、未だに青白い顔色のダールが「浴室を利用されてはいかがでしょうか」と提案した。その声が震えている気がするのは、きっとこれから来る自分の凄惨な未来を想定してのことだろう。菫としても申し訳ない気持ちはあるが、それでもイケメンに不釣り合いな安物のヘアピンで凌ぐという事態は避けたいという思いの方が強いので致し方ない。理容室に行くまでのことと思って、我慢してほしいところである。
菫はダールの提案に頷くと、ダールの腕を引いて浴室へと移動した。確かに、浴室であれば落ちた髪は流せばいいので片付けが楽である。恐らくは排水溝にも髪の毛がキャッチできる何かがあることだろう。
そう広くはない浴室に入り、ダールを椅子に座らせる。びくり、と身体を震わせるダールは俯きながら如何にも怯えている様子で、あまりの怯えように菫は益々申し訳ない気持ちを募らせた。ここまで嫌がられるのならば、理容室を見つけるまで暫くは伸ばし放題のままでも致し方ないのではないかという気持ちになってくる。
椅子に座り自分よりも低い位置にあるダールの頭をハサミを持っていない左手でそっと撫で、「やめようか?」と声を掛ける。ゆっくりと顔を上げたダールの瞳は、じわりと潤んでいた(表情は可哀想だけど勇ましい見た目とのギャップが可愛いな、と思ったのは秘密である)。
「いえ。……スミレ様の御心のままに」
「ダール…」
ここまで明らかに怯え嫌がっているというのに、ダールは菫の好みに合わせようとしてくれている。なんと健気でいじらしいのだろうか。奴隷という身分故の従順さだと分かっていながらも、菫は胸をぎゅうと握られる思いがした。
(……確かに髪は切りたかったけど、ダールに嫌な思いをさせたかったわけじゃない…。うん、やめよう)
そう心に決めて、ごめんね、とダールに声を掛ける。
「やっぱり専門の人にやってもらう方がいいよね。素人がやったんじゃ、どうなるか分からないし」
「…専門、ですか……?」
「近くに理容室とか、そういうところあるかな?あとで宿屋の人に聞いてみよっか」
「……リヨウシツ、とは奴隷商館の一つでしょうか?」
「えっ?いや、そうじゃなくて……床屋?も違うのか……ええと、美容室とか、ヘアサロンとか……あ、これも違う?…、もしかしてここってそういうお店ないの!?」
いくつか言い方を変えて問い掛けてみても、該当するものがないのかダールは首を傾げている。
「リヨウシツ?やトコヤ…とは、どのような店のことを仰っているのですか?申し訳ありません、私に学がないばかりに」
「あっ、ダールは悪くないの!ただ、私の国とはなんかちょっと文化が違うのかな?ごめんね、私こそ常識知らずで」
思えば、出会ってから間もないというのにダールには色々と助けてもらってばかりだ。ある種の偽善で購入したというのに、たった一日(も経っていない)でもうなくてはならない存在になってしまった。心の安寧的にも、生活の維持の意味でも。
菫はこの世界において、一人では宿も泊まれないしお風呂も入れない駄目人間なのである。そして、言葉は通じるが土地どころか常識すら異なる世界での心細さ。それらを解消してくれるダールの存在の有り難さたるや。勿論菫の好みのど真ん中を撃ち抜くご尊顔と体躯も素晴らしいことは言うまでもない。
「ダール、本当にありがとう。私、ダールがいなきゃ生きていけないよ」
「……っ!?」
改めてダールという尊い存在への感謝の気持ちが溢れ出た菫の言葉に、ダールは驚いたように瞳を見開く。それから、ぼん!と音がしたのではないかと思ってしまう程勢いよく顔を真っ赤に染めた。
菫が「もしかして照れてるのかな?イケメンの照れ顔可愛すぎ……。でも、流石に可愛いとか言われたら男の人は嫌だよね」等と微笑ましく思っていたのは勿論秘密である。