夢だという方がまだ信憑性がある(ダール視点)
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いつぶりかも分からないまともな食事をゆっくりと食べ進めている間、スミレはひたすらダールをにこやかに見つめていた。ダールとしては醜い己の食べる姿を何故そんなにも熱心に見ているのだろうと不思議に思いながら、時折ダールはスミレに「本当に食べなくても良いのか」と視線を送っていたが、やはりスミレは食べなくても良いらしい。
(…もしかして、食べた後に申し付けたい命があるのだろうか…?)
そんなことを考えついたのは、三分の一程度食べ進めた頃だった。
食べる姿に関心があったわけではなく、食事を終えた後にダールに何かをさせる心算なのであれば、熱心にダールを見ていたというのも理解できる。そうでなければ、好き好んで醜いダールの食事風景等を見守っている筈がない。
――またやってしまった。
察しが悪いばかりにスミレの時間を無駄に使ってしまった。ダールが少しでも挽回しようと食べるスピードを速めると、スミレはその様子を見て満足そうに微笑んだ。やはり、ダールが食べ終えるのを待っていたのだ。
そう思ったのも束の間、あ、とスミレが思いついたように口を開く。
「今の内に、私もお風呂入ってきちゃおうかな。まだお湯温かいよね」
「――は、」
はい、と答えようとして、ダールはスミレの言葉を逡巡した。「まだお湯温かいよね」?
それではまるで、ダールが使用した湯をそのまま使おうとしているように聞こえてしまう。まさかと思いながらもダールが「そのまま湯を使われるお心算で?」と聞けば、スミレは何を言っているのかと言わんばかりの顔で「そうだけど、なんで?」と聞き返した。なんでとはダールの台詞である。奴隷の入った湯にそのまま入ろうとする主人など聞いたことがない(勿論、今までのスミレの言動は何一つ取ってもそうであるが)。
「わ、私が入った後の湯船に入るなど…!」
「ダール、身体洗ってからお湯に浸かってるでしょ?それならお湯だって綺麗だよ」
「そうですが、その……流石に同じ湯というのは…」
「だって、またお湯を溜め直すのも大変だろうし」
「それ位でしたら私がやりますので……!」
スミレはダールの言葉にどこか納得しない様子を見せながらも、最終的には「うーん、そう?まあダールが良いならお願いしようかな…」となんとかお湯を張り直すことで了承した。どうやら、スミレはダールが湯を張る労力を気にしているらしい。主人であるスミレが奴隷のダールに気を遣うだなんて、全くもって意味が分からない。
また、先程湯を張ったときとは違い手持無沙汰だったのか、スミレは興味深そうにダールが湯を張る様子を観察していた。余程身分の高い貴族なのか、自分で生活魔法を使ったことすらないらしい。説明している間、黒い瞳をきらきらと輝かせていた。
ダールと会う前はふらふらと草原にいたくらいなのだから自衛する魔法は使えるのだろうが、それにしたってよく一人で旅に出よう等と思ったものだ。もしかしたら、家族と喧嘩する等して衝動的に家出してしまったのかもしれない。この宿に来るまでの間にも感じたが、スミレは華奢で繊細そうな見た目の割に行動力が逞しい。
ダールが湯を張るのを見届けたスミレは、「ありがとう!」と満面の笑みでダールに礼を言うと、嬉しそうに入浴へと向かっていった。
(……スミレ様もお風呂に入られたし、折角の食事だ、ゆっくりと味わおう…)
この機会を逃せば、次にいつ食事にありつけるか分からない。奴隷とは、本来そういうものだ。今日は購入日で腹を空かせているだろうと食事を用意してくれたスミレだって、明日以降は暫く食事を与えなくとも良いと考えていることだろう。ダールに出来ることは、スミレの命以外は極力体力を使わずに温存し、少しの食事でも多くの働きが出来るのだと示すことくらいだ。燃費が良い奴隷だと思ってもらえれば、それだけ捨てられる確率を減らすことができる――かもしれない。
そんなことを考えながら、ダールは止めていた食事の手を再開させた。
柔らかい丸パン。焼いてからそう時間は経っていないだろうそれは、しっとりとしている。奴隷になってからはそれこそ固くなって腐りかけた(というか腐っていた)パンを与えられた記憶しかない。
まだ温度の残るスープ。野菜や豆などが入っており、じっくりと煮込まれた具は噛まずとも溶ける程だ。ここ暫く温かい汁もの等見る機会すらなかった。
ホイルに包まれた白身魚。噛むとほろりと身が崩れて、その食感に愕然とする。肉や魚なんて、冒険者時代に野営で丸焼きにして食べた以来だ。丸焼き以外の調理法なんてダールは知らなかったので、きちんと調理するとこれ程までに美味しいのかと驚いた。幼い頃は母と二人裕福な暮らしではなかったので、そもそも肉や魚の類は滅多に食べられなかったのだ。
食事を食べ終える頃には、ダールはあまりの幸福感に瞳に滲む涙を抑えきるのに大層苦労した。先程もようやっと涙を堪えたばかりであったのに。そしてそれと同時に、申し訳ない気持ちになった。こんなに醜く既に人ではなくなった自分が、人としての幸せを享受しているかのような状況に。
なんとか収まったとき、入浴を終えたスミレが部屋へと戻ってきた。収まったとは思ったものの、戻ってきたスミレはダールを見て驚いたような表情を浮かべていたので、実際には収まっていなかったのかもしれない。きっと見るに堪えない顔をしているだろうダールに躊躇いなく近付くスミレへ、ダールは深々と頭を下げた。「え、なに!?」とスミレの驚嘆の声が聞こえる。
「このような素晴らしい食事を頂き申し訳ありません」
そう述べれば、スミレは怪訝そうな表情を浮かべた。その後すぐ、何かを思案するような素振りを見せる。ダールがその様子を黙って見守っていると、スミレは考え事を終えたのか、ダールの瞳をまっすぐに見つめた。
「そんなに畏まらないで良いよ。まだお腹に空きはある?」
「……、はい」
「良かった。それなら、今度はこっち食べよ」
スミレは安堵するように息を吐くと、麻袋を手に取った。先程洋服が入っていた麻袋とは別のものなので、恐らくは違う店で買い物をしたのだろう。食べるというくらいだから口にするものなのだろうが、いかんせんダールは夕食を頂いたばかりの身である。普通の食料が入っているとは到底思えない。
――何を食べようというのだろうか。
逡巡し、ダールは「毒草ではないか」という考えに至った。それは少し前に毒草の話をしたからかもしれないし、ダール自身がなんの理由もなく親切な扱いを受ける筈がないと身に染みて理解しているからかもしれない。ああ、と思わず息を吐いてから、毒草を食べた後の苦しみを思い返し――それでもスミレの役に立てるのならと、口を開いた。
「毒草でしょうか。謹んで頂きます」
「………」
何かを言おうとした様子のスミレは、それでも何か言葉を発するでもなく、無言で麻袋から箱を取り出した。箱を開けた先に現れたのは、まかり間違っても毒草とは思えない、可愛らしい洋菓子であった。
「…っ、甘い……!」
口に含んだ瞬間、周りを覆っていた白いクリームがふわりと溶ける。口を閉じれば、歯を全く使っていないというのに中の生地がダールの口内でいとも簡単に潰れてしまった。間には小さくカットされたイチゴが挟まれているらしく、クリームの甘さとイチゴの甘酸っぱさが絶妙に相まって多大な幸福感が押し寄せてくる。
この美味しさを表現する言葉はきっと世界中に溢れているというのに、教育がまともに受けられていないダールにはただ「甘い」と言葉にすることしかできなかったのが非常に口惜しい。とにもかくにも、ダールはこれ程までに美味しいものを食べたのは初めてだった。
そもそも、洋菓子というのは非常に高価である。勿論肉や魚だって買おうとすればある程度高価であるが、洋菓子と比べると天と地ほどの差がある。というか、比べる対象でもない。肉や魚は食料品の中で高価なのであって、洋菓子は嗜好品である。余程裕福な者でなければ、買おうとすら思わない。買ったとして、誕生祝だとか、そのくらいだ。間違っても、ダールのような奴隷が口にできるものではない。
「このようなものを食べたのは初めてです」
そんな感想を口にしてから、しまった、とダールは思った。こんな高級品を与えてもらっておきながら当然のことばかり口にして、呆れられてしまうのではないかと不安になる。が、スミレは気にした風もなく「そっか」と相槌を打ってから、「ショートケーキ、食べてみてどう?」とダールに尋ねてくれる。その表情は柔らかく、ダールの粗相を怒っている風ではない。
「ショートケーキというのですね。甘くて、ふわふわしていて、口の中ですぐになくなってしまう……。おいしい、です」
ダールの言葉を聞いたスミレは、満足そうに微笑んでから自身の洋菓子を匙で掬い、何故かダールの口元へと差し出した。何を求められているか分からず、ダールは静止する。ふと、過去母が幼いダールに食事を手ずから食べさせてくれたことを思い出した。
これまで、ダールを厭うことなく普通に接してくれたのは産み育ててくれた母だけだった。母だって、望んでもいないのに無理矢理手籠めにされた挙句孕まされたのだから、半分その男の血を引いている上に他には及ばぬほど醜いダールを疎んだって仕方がないというのに、それでも腹を痛めて産んだ子であったからか、大事にしてくれた。孕ませた男を恨みこそすれ、産まれた子に責はないと思ってくれているようだった。母からは確かに愛を感じていたし、そのときの記憶がどんな苦境のときでもダールを奮い立たせてくれていた。自分は命を落とすそのときまでその記憶をよすがに生きるのだと思っていたのに、目の前のスミレはいとも簡単にその決意を崩そうとする。
ダールが静止している間に焦れたのか、スミレは差し出した匙をそのままダールの口内へと押し込んだ。
「ン、……っ」
「こっちはモンブラン。栗を使った洋菓子だけど、どうかな」
「っ、ああ、これも、美味い」
そう答えてから、ダールは漸くスミレに手ずから洋菓子を与えてもらったのだと理解した。こんな扱いは母以外の他人に受けることはないだろうと想像すらしたこともなかったのに。しかも、たった今口に入れられた匙は、スミレが使用していたそれである。
現状を正しく理解したダールは、不相応とは思いながらも込み上げてくる気恥ずかしさに顔を熱くした。
――こんなの、まるで。ただの恋人同士ではないか。
想像することすら烏滸がましい。だというのに、ひたすらに羞恥がダールを襲い、スミレの方を見ることさえ難しかった。
(……どうして)
スミレに会ってから、何度こうして脳内で問いを繰り返したか分からない。どうして、こんなにも親切にしてくれるのか。ダールは望まれて出来た子ではなく、母には大事にしてもらったが他者からは蛇蝎の如く嫌われる醜い存在であり、会ったばかりの、それもこの上なく美しい女性にこうやって様々なものを与えてもらえる価値のある男ではない。そんなこと、他の誰よりも理解していた筈だった。
スミレを見れば、その見目麗しい顔は何かをぼんやりと考えているようで、心ここにあらずといった様子だった。ダールが名を呼ぶと、「あっ、ごめん。考え事してた」と答えてから、その頬を桃色に染めた。あまりにも可愛らしいその表情には、やはり嫌悪も何も見えてこない。
「美味しいね」
「はい」
「明日の朝食べる分も買って来たんだ。今日のとは違うやつだから、それも楽しみにしててね」
「明日も頂けるんですか」
「うん、勿論。また一緒に食べようね」
スミレは、何でもないことのようにそう言ってから、楽しそうに微笑んだ。
(――…明日。明日も、食事を。また、一緒に……)
目尻に熱い何かが込み上げてきて、ダールは思わずスミレから視線を逸らした。目が熱くて堪らない一方で、頬が濡れて肌の温度が下がっていく。身体の震えを抑えることが出来ない。せめて声だけは我慢しようと、必死に拳を握り、口を引き締めた。
明日を約束されたのは、いつぶりだっただろうか。母でさえ、いつ父に見つかるか分からない恐怖があったからかどうかは分からないものの、そういった言葉は意図して使わなかったから、初めてだったかもしれない。
母といるときは父の影に怯え、母を亡くし冒険者となってからは日々生き残るために魔物と戦い、奴隷に落ちてからはいつ捨てられるのかとどこか諦めた気持ちで過ごしていた。明日に希望を持ったこと等、ただの一度だってなかった。それが、今日一日でがらりと変わってしまった。
正直、夢なのではないかと思う。そうでなければ、都合が良すぎる。命が途絶える瞬間に神が与えてくれた幸福な夢だという方がまだ信憑性がある。だというのに、涙も嗚咽もいつまで経っても止まらないし、力任せに握った拳はじんじんと痛い。
何を思ったのか、スミレはみっともなく泣いているダールの頭を抱え込むようにして抱きしめた。涙も鼻水も止まらないダールの機能しない鼻では分からなかったが、それがなければきっとあの甘くて良い香りが充満していただろう。こんな風に優しく慰めてもらえるような存在ではないと思いながらも、ダールにはスミレの腕の温かさを拒むことは出来なかった。
暫く経って漸く泣き止んだ頃には、ダールはすっかり疲労感で身体が重くなっていた。何しろ、こうして安堵したのは母が亡くなって以降初めてと言っても過言ではない。今まで張りつめていた緊張が一気に解け、睡魔が襲ってくる。
それでも何とかスミレに感謝の意を伝えれば、スミレは嬉しそうに笑った。その顔をもっと見ていたいと思うのに、瞼が重くて開けていられない。それでも何か話さなくてはならないと口を開いてみたものの、何を話せばいいのか考えることも、思うように言葉を紡ぐこともできない。手を引かれてそれに追随するように足を動かすが、何をどうしたら良いのか頭が回らない。
気付けば柔らかい何かに身体全体が包まれ、心地よい感覚に顔の筋肉が緩んだ。そのまま、ダールはとうとう意識を手放したのだった。