何もこんなタイミングで鳴らなくても(ダール視点)
相変わらず亀更新で申し訳ありません。
菫が部屋に戻るまで、ダールは生きた心地がしなかった。
高価な髪留めを守るようにと預けられたのだから帰って来ないことはないと心の中で言い聞かせながらも、あの美しい主人が我に返って醜い奴隷を捨てたのではないかという恐れが拭えず、無意識の内に全身に力が入る。入浴を終えたばかりで身体が温まっている筈なのに、冷や汗が止まらなかった。
確かにスミレは出会ってからずっとダールにこれ以上ないくらい優しく接してくれたし、スミレがダールにとって「良い主人」であることは間違いないのだが、スミレと出会ってからの数時間でダールの今まで培われてきた経験が薄まるわけではない。奴隷ではないときだって、スミレ程ダールに優しくしてくれたのは母くらいなものだったのだ。これまでの人生が、ダールを一層臆病にさせていた。
いっそのこと数時間だけでも夢を見れたのだと割り切れたのなら、ダールもこれ程までにスミレが戻ってくるかどうかに怯えなくても済んだのかもしれない。けれども、モノではなく人のように扱ってもらえる、醜い外見をものともせず接してもらえる心地よさを知ってしまった今、そうして割り切ることなど不可能に近いことだった。
――だから、スミレが部屋に帰ってきたとき、ダールは思わず泣きそうになってしまった。彼女の名を呼んだとき、声が震えてしまっていたかもしれない。
「ダール、なんで床に座ってるの!しかも正座なんて」
部屋にいるダールを見たスミレは、そう叱るような口調で(とはいえこれまでダールが受けた叱責の類に比べれば赤子をあやすようなものであるが)ダールに声を掛けた。初めてスミレのそのような口調を耳にしたダールは、とうとうスミレを怒らせてしまったのだと心底怖くなり謝罪の言葉を口にしようとして――…
「せっかくソファーもベッドもあるのに!足痛いでしょう」
「え、」
思わぬ言葉に、間抜けな声が漏れてしまった。
聞き間違えでなければ、スミレは「ダールが奴隷の分際で未だに部屋に居残っていること」ではなく「ソファーやベッドに座らず床に正座していたこと」を叱っているようで。そんなの、まるで。
(…俺のことを、心配しているみたいじゃないか)
そんなことはありえない筈なのに。それなのに、スミレはダールの腕を掴んで立つようにと促して、そのままソファーへと座らせてしまった。
奴隷が宿屋の一室にいることも、主人より先に入浴することも、あってはいけないことなのに。彼女が座る筈のソファーにダールが座ることなんて、考えていなかったのに。
驚くダールを余所に、スミレは何やら外で購入してきたらしい麻袋の中に手を突っ込むと、何枚か布を取り出してダールへと手渡した。渡された布をよくよく見ると、一般庶民が着る服や下着であることが分かる。けれども、手渡された服は明らかに男物のそれだった。
今度は髪飾りではなくこれを持っていろということだろうか。そう考えながら意図を問うと、スミレは当たり前のようにそれをダールの服だと言い放った。
「いつまでも裸に布一枚じゃ風邪引いちゃうでしょ?サイズが分からないからとりあえず大きいのを買って来たんだけど…」
「俺の…?」
奴隷が風邪を引くのを心配していることよりもダールの服をスミレがわざわざ購入したということに違和感を覚えてしまうのは、あまりにも奴隷生活が身に染みてしまっていたからかもしれない。一般的にちゃんと作られた服を着させてもらえる奴隷は、それこそ見目の麗しい「観賞用」だけだから。
思わず首を傾げたダールにつられるように、スミレも首を傾げる。仕草一つとっても可愛らしく、醜いダールとは違い絵になるのだから美貌というのは恐ろしい。
「ごめん、こういう服嫌いだった?」
スミレは動かないダールを見て、洋服が好みではないから受け取ろうとしないのだという結論に至ったらしい。奴隷が主人から物を与えてもらうのに、好き嫌いなんてものはあるはずがないというのに、スミレはどうもダールの気持ちというものをダールよりも尊重しようとするきらいがある。そんな配慮なんて必要ないのに。
「着替えて参ります」
ダールは妙なむず痒さを感じながら、慌てて洋服を持って脱衣所へと向かった。
スミレに渡された洋服は、思った以上にぴったりのサイズだった。久しぶりにまともな洋服を着たダールは、自身の身体を信じられない気持ちで見下ろす。
――無駄に筋肉ばかりがついてしまった、醜い身体だ。折角スミレが洋服を与えてくれたというのに、釣り合わない身体。滑らかそうなところはどこにもなく、せめて筋肉が贅肉であったならば、裕福な証として多少は心象も良かっただろうに。
それでも、吐き気を催す程に醜悪な顔が変わることがなければ、やはりダールが受け入れられることはない。――筈、なのだけれども。
(スミレ様があまりに優しくしてくださるから、…スミレ様になら俺の存在を受け入れてもらえるかもしれない、なんて)
そう期待してしまうことを、浅ましいとは思うのに止めることができない。
期待を振り切るように首を横に振ったダールは、部屋へと戻る扉に手を掛ける。もしかしたら、折角買い与えた洋服を着こなせない自分をスミレが叱責するかもしれない、なんて最悪の想定――今までのスミレとのやりとりからは、どうしても想像がつかない――をしながら、部屋へと足を踏み出した。
「スミレ様、お待たせいたしました」
「おかえり。…って、うわあ、すっごい似合う…!」
スミレは嬉しそうにそう言うと、笑顔でダールの全身を一瞥した。見るに堪えない身体だろうに、スミレの視線には微塵も侮蔑の感情等が感じられない。
「あ、ダール、さっき渡したヘアピンある?」
「っはい!傷一つつくことなくこの通り!」
渡されて以降初めて髪留め――ヘアピンというらしい――の存在に言及され、入浴後も肌身離さず持っていたそれをスミレへと差し出す。なにしろ、スミレから初めて命令された任務である。お風呂は自分が入るためのそれであったので、実質的にスミレからの命はこの髪留めを守ることしかない。自分は役立てるのだと示したいダールにとっては、漸く訪れた機会であった。
スミレは髪留めを受け取ると、ありがとう、と礼を述べる。本来礼等必要ないけれど、ダールはその一言に酷く安心した。
「ダール、屈んでくれる?」
「はい」
「………ん、よし。後で前髪は切るけど、とりあえず温かい内にご飯食べないとね」
折角守り切った髪留めを、スミレは再びダールの前髪へと留めた。これは任務続行ということで良いのだろうか。恐らくスミレは髪留めの状態を見て、ダールにまた預けても良いと判断してくれたのだ。ダールは僅かばかりに初めての達成感を得た。
そうこうしている内に、スミレがソファーへと座る。何故かソファーの端の方へと座ったスミレは、ダールを見ると空いたスペースを軽く叩いた。一体どうしたのだろうか。ダールが不思議に思いながらも見つめていると、少し諦めたような表情のスミレが口を開く。
「ここに座ってくれる?」
先程の行為が隣に座るよう促したものなのだと漸く気付いたダールは、恐れ多いと思いながらもゆっくりとスミレの隣へと腰掛けた。
――落ち着かない。
ダールの身体が大きいばかりに、華奢なスミレの肩がダールの肩と触れてしまう。そればかりか、隣のスミレからは何故か甘くて良い香りがして、ダールは息を止めたくなった。主人の香りに高揚する奴隷なんて、存在して良い筈がない。スミレには自身の魅力というものを少しは理解してもらいたいものである。この美貌であるというのに、全くもって危機感も驕った感じも見受けられない。
「ダールって食べられないものある?」
ダールの葛藤等想像もしていないのだろうスミレは、そんな質問をダールに投げかけた。これまで食べられるものであれば問答無用に食べていたダールにとって、好き嫌いという概念は存在しないに等しい。冒険者であったときも、自分が醜い故に食事処を利用することはもちろん露店で食事を買うことすら抵抗があった。自分と接する店員も可哀想だと思ったし、冷たい対応をされることのしんどさがあったから。
勿論母と暮らしていたときは母が作ってくれていたし、ダールは母の手料理が大層好きであったけれども、その味や食べたときの幸福感を思い出すとどうしても現状と比べてつらい気持ちになったので、当時のことは心の奥底へとしまい込んで決して思い出さないようにしていた。ダールなりに精神を保つための防衛本能とも言える。
兎にも角にも食べられないものが思い至らなかったダールは、一旦ないと言い掛けて、それからそういえば毒草が原因で奴隷に身を落としたのだと思い返した。出来れば、もう二度と毒草は食べたくない。
そう思って毒草について言及してはみたものの、それだってスミレが食べろと言うのであればきっとダールは食べるだろう。元々、薬の開発などのために研究者が奴隷を購入して色々と試すということは往々にしてあるのだ。スミレが何を生業にしているかは聞いたことがないが、そういう必要があってダールを購入したのであれば、ダールは自身が実験体になることに否やはない。もしかしたら、スミレは実験体になるダールを哀れに思って好待遇を施したのだろうか。
そんなことをつらつらと考えていたダールであったが、スミレに心配そうな表情で身体が平気かを問われて拍子抜けしてしまう。好き嫌いはないかと聞かれ嫌いなものはないと答えたダールの目の前に、スミレは笑顔でいつの間にか届いていた夕食のトレイを差し出した。
「これ、食べられないものがなければ全部ダールが食べちゃって」
「……は、?」
「甘いものも買って来たから、苦手じゃなければ後で一緒に食べようね」
「いや、ええと、…これを、俺が?」
――何を言っているのだろうか。
スミレは宿屋に夕食を二人分欲しいと交渉する程、お腹が空いていたのではなかったのか。ダールはそう考えて、こくりと頷いたスミレを見て漸く気付く。スミレは、ダールのためにあの交渉をしたのだ、と。
胸にじわりと広がる戸惑いや名前の分からない感情に、動けなくなる。ダールはただひたすら目の前に出された夕食を見つめた。
「もしかして、お腹空いてない?」
そう問われて、ダールははっと顔を上げた。どう返答をすればいいか迷いながら、ひとまず何かを紡ごうとして――ぐきゅるるる、と恥を知らないダールの腹の虫が勢いよく鳴いた。確かにお腹はこれでもかというくらい空いているが、何もこんなタイミングで鳴らなくても。
「……ふふっ」
腹の虫を鳴らしたダールを見て、スミレは目を細めて笑った。蔑むようなそれではなく、まるで子供を見ているような、そんな慈愛に満ちた表情で。
恥ずかしくなったダールが顔を赤く染めると、スミレは「ご、ごめんね、つい……。あ、ほら、冷めないうちに食べて」と再び夕食をダールへと勧めた。
主人の食事を頂くわけには、と思ったダールではあったが、久方ぶりのまともな食事の誘惑を前に抗うことは酷く難しい。結局誘惑に負けたダールは、目の前の食事にゆっくりと手を付け始めた。
(――…っ、あたたかい……)
不思議と、久しぶりの食事に抱いた最初の感想はそれだった。じわじわと身体の中に熱が伝わり、身体が震える。
嫌悪ない表情を、温かい湯を、新しい服を、美味しい食事を――これまで他人から与えられること等ないと諦めていたものをいとも簡単に与えられ、ダールは涙を堪えるのに必死だった。