得てしまった幸福の分の対価(ダール視点)
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小さな木造の家屋。強い風が吹けば家屋全体が揺れ、隙間風も入ってくるような古くてボロボロの家が、ダールにとって世界で一番温かい場所である。ギイ、と玄関扉が開閉する度に鳴る不快な音も、幼いダールにとっては大好きな母が帰ってきたことを知らせる幸せの音だ。ギシギシと踏む度に軋む床を駆け、ダールは母を出迎える。
「ただいま、ダール。いい子にしていたかしら」
優しく微笑む美しい母の穏やかな声。細く落ち着いた目は笑みを浮かべると柔らかく曲線を描き、ダールに安心感を与えてくれる。栄養状態の悪さと仕事の疲労から少しやつれてしまってはいるけれど、ダールと違って美しい母の美貌は未だ健在だ。きっとダールがいなければ、ダールが食べている分の栄養を摂れるからもっと健康的な美しさを維持できているだろうに。どこまでも優しい母は、ダールがどんなに醜く成長しても変わらず慈しんでくれる。
「お腹空いたわよね。今作るから、待っていてね」
ダールの頭を撫でて、狭い台所へと向かう母。その背中を見送ってから、ダールは椅子へと座って目を瞑る。少しすると、とん、とん、と包丁で食材を切る音が聞こえてくる。空腹の中で、目を閉じながら聴くその音がダールは好きだ。もう少しで、ご飯が食べられる。大好きな母と一緒に、母の作った大好きなご飯を。
「また目を閉じているの?ダールはそうしているのが好きね」
瞼の裏で、母が笑う。くすくすと、耳に心地よい笑い声。ダールに笑い掛けてくれるのは、優しくしてくれるのは、母だけだった。
「ダール、もう少しでご飯が出来るわ。目を開けて、お皿を準備してちょうだい」
そう言われて瞼を持ち上げようとしたダールは、唐突に気付く。――これは夢だ。ダールが一番幸せだった頃の。
目を開けてはいけない。夢が醒めてしまうから。
ダールを愛する人は母だけだ。ダールは誰もが嫌う程醜いから。
夢を見ている今この瞬間以上に幸せな時間はない。母は死んでしまったから。
「ダール」
優しい声がダールを呼ぶ。
「ダール」
凛とした女の声。母の声はこんなにも澄んだ声だっただろうか。もっと、柔らかで穏やかな声だった気がする。――ああ、けれども、確かにこんな風に優しくて思いやるような声ではあった。
「起きて。朝食だよ」
「………ん…、?」
「おはよう、ダール。気持ちよく寝てたのにごめんね。朝ご飯が来たから食べよう?」
「っ!?…す、スミレ様……ッ!?」
目を開くと、ダールの視界に飛び込んできたのはこの世に存在する人間とは思えない程美しい女――信じられないことにダールの主人となったスミレ――の顔だった。先程まで幸せな夢の中で揺蕩っていた心地が急激に冷めていき、同時に寒気とも似たぞわりとした恐怖がダールを襲う。
慌てて周りを見渡し、自分が昨日見たばかりの宿屋の部屋にいることを把握する。そして、最悪なことにダールが眠っていたのがこの部屋に一つしかない寝台だったということを理解し、込み上げる吐き気を抑えながら床へと転がり落ちるようにして移動した。首を垂れ、驚くようなスミレの声が降ってくるのも構わず慈悲を乞うようにして謝罪する。
「寝台を占拠した挙句、惰眠を貪る等…っ、申し訳ありません!」
優しい主人に買われた奇跡が夢ではなかった安堵感よりも、主人の寝台を醜い自分が奪うという信じられない粗相をしてしまった絶望感が勝る。
昨日あれ程までに優しかったスミレを、今度こそ怒らせてしまったのではないか。こんなにも役に立たず主人の邪魔をする奴隷などいらないと、捨てられてしまうのではないか。未だに何故買ってもらえたかもわからず、有用性も示すことが出来ていないダールにはそんな未来が手に取るように想像できた。
「昨日は色々あったから疲れてたんだよ。気にしないで大丈夫だからね」
スミレは宥めるように優しい声でそう言うと、項垂れるダールの手を取った。白くて柔らかくて、柔らかい手。ダールの手を緩やかな力で握るそれは、決してダールを傷つけないと教えてくれるようで、ダールは安堵で泣きそうになるのを必死で堪えた。
スミレの促すままに移動し、ソファーへと腰掛ける。奴隷の自分が座るなんて、と言いそうになったが、奴隷が主人の命に背くなどそれこそ懲罰ものだ。ダールが出来ることは、スミレがどんな思惑で言ったのであろうとその命に従うだけなのだから。
ソファーに座った目の前の机には、ほかほかと温かそうに湯気を出す食事が置かれている。昨日食事を頂いたにも関わらずお腹が空いた感覚に襲われて、ダールは自身の卑しい身体に内心で舌打ちした。――あれ程豪華な食事と贅沢な甘味まで頂いておきながら、まだ足りないとでも言う気なのか。昨日までの飢餓感に比べれば蟻程の空腹感ではあったけれど、ダールは早くも身に余る幸福に慣れつつあることが恐ろしかった。
「っ、」
ダールが自身の卑しさに辟易としている内に、スミレはダールの横へと腰掛けた。それ程広いソファーではないため、肩と肩とが触れ合ってしまう。ちらとスミレを見るが、スミレは楽しそうな表情を浮かべるだけで特に嫌悪感を表してはいない。
昨日から幾度となく思っているが、スミレは奴隷であるダールとの距離感がおかしい。接し方からするに奴隷を買うのは初めてなのだろうが、少なくとも奴隷自体は見たことくらいある筈だ。それなのに、こんなにも近付くことに躊躇がないのはどうしてなのだろうか。
「朝ご飯が来たから食べようね。って言っても、一人分だから……足りなかったら、出掛けたときに何か食べよっか」
「え、いや、俺……わ、私は」
もしや、ダールの卑しい考えがスミレに伝わってしまったのだろうか。流石に目の前に良い匂いのする温かそうな食事が置かれれば多少は空腹感を覚えるとはいえ、ダールはスミレの食事を奪ってでも食べたい等と思ったりはしていない。
言い訳をしようと思ったダールだったが、そんなダールを余所にスミレは既にパンをちぎり始めていた。見た目の均衡の取れた美しさとは裏腹な、乱雑――豪胆なちぎり方である。先の発言からしてスミレはダールに朝食を分け与えてくれる心算なのだろうが、それにしてもスミレのちぎり方では三分の一はダールのものになってしまう。少々多過ぎやしないだろうか。それでは、スミレが三分の二しか食べられないではないか。昨日スミレは甘味しか食べていないのだから、ダールのことなど気にせずに朝食を全量食べるべきなのだ。
ダールがおろおろとスミレの様子を見守っていると、スミレは三分の二のパンの方に目玉焼きを乗せた。そして、ウインナーを二本寄せる。三分の一のパンの方にもウインナーを二本寄せているが、それでは今度はスミレとダールが等分になってしまう。スープを全量スミレが食べるにしても、やはりダールが貰いすぎである。
「こっちの目玉焼きが乗ってるのが、ダールの分ね。ウインナーも。スープはダールが貰っちゃって良いからね」
――なんと、スミレの分だとばかり思っていた方がダールに分け与えられる分であったらしい。
「し、しかし、それではスミレ様の分が…」
「私はこっちで足りるから。元々あんまり朝ご飯って食べないんだよね」
ダールはスミレ分の朝食と、ダール分の朝食を見比べた。やはりおかしい。けれども、スミレ自身があまり朝ご飯を食べないと言っているのに、無理やり食べさせるのも奴隷としてはおかしいように思う。ダールが混乱しているのにも構わず、スミレは「いただきます」と三分の一のパンの方を手に取ってしまった。
スミレがちらりとダールの様子を見ているので、これは自分も同様の行為を求められているのだと気付いて、量がおかしいことはひとまず置いておいて「いただきます」と小さな声で発した。スミレは満足そうな顔でパンを齧り始めたので、恐らくダールはスミレの意に沿えたのだろう。きっと。多分。自信はないけれども。
一口食べれば、そこからは食事を止めることは難しかった。昨日も思ったことだが、やはり温かい食事というのは格別に美味しい。しかも、真横で共に食べている女は女神が如き美しさを持つ、ダールの主人なのである。状況も相まって、ダールはぺろりと朝食を平らげてしまったのだった。
◇
ダールのような存在するだけで周囲の人を不快な気分にさせる醜い者は、過分な幸せを得てはならない。人に与えた不幸分、自分も不幸を背負わなくてはならないから。――そんな考えを持たされるようになったのは、奴隷になってすぐの頃だっただろうか。毒草による身体の辛さもあったから、その頃の記憶は苦痛ばかりで曖昧だ。けれども、ダールは今になってその教えを痛感していた。
ダールは現在ソファーに座っている。つい先程まで、ダールは正しく過分な幸せを身に受けていた。温かい朝食をスミレ以上に頂いたばかりか、昨日とはまた違う洋菓子まで頂いてしまった。二種類の洋菓子を目の前に出され、「どっちが良い?」と聞かれ選べなかったダールに対して、スミレは「甘いの好きそうだったから、とりあえずこっちが良いかもね」と艶々の果物がこれでもかとばかりにふんだんに乗せられた洋菓子を選んでくれた。
フルーツタルトというらしいそれは、一口ごとに違う果実が口に入るために食べる度に新しい感動を与えてくれる素晴らしいものだった。新鮮な果物も勿論高級品だ。昨日のショートケーキとは違うが、サクサクで食感の良い土台の上にはやはり甘いクリームが敷かれており、甘酸っぱい果物との相性が最高だった。
しかも、スミレは「こっちのも美味しいから味見してみてね」等と言いながら、再び手ずからダールにスミレの分の洋菓子を食べさせてくれた。ティラミスと呼ばれたそれはとろけるような食感で、けれどもほのかな苦みが印象的で別方向の美味しさだった。感想を求められたが、美味しいとしか言えなかったダールは密かに落ち込んだ。学がないばかりに、スミレに感動の一割も伝えられない。だというのに、スミレはにこにこと楽しそうにしていた。
――つまり、今度は得てしまった幸福の分の対価を払う番だ。
ソファーに座るダールの目の前には、険しい表情を浮かべたスミレが立っている。その手にはハサミが固く握られており、ダールはこの先の展開を易々と理解することができた。
昨日、スミレはカミソリやハサミが欲しいと呟いていた。カミソリはダールが髭を剃るための道具であったので、恐らくはハサミが昨日ダールの思い至った使用目的――痛めつける手段――のものだったのだろう。奴隷商人が使っていた鞭と比べて、どれ程の痛さなのだろうか。想像するだけで、体温が下がる心地である。
一方のスミレも、思い詰めたような、それでいて緊張しているような表情をしている。どこか世間知らずで、華奢な身体をしているスミレのことだ。奴隷相手とはいえ、誰かを痛めつけるのは初めてなのかもしれない。嗜虐に慣れた者よりも慣れない者の方が加減を知らない分受ける方はきついと聞くが、果たしてどうなのだろうか。
「汚すと後片付けが大変だよね……どうしよう」
ぼそりと呟かれたスミレの言葉に、ダールはより一層身を固くした。先程まで信じられない程の待遇を受けたのだから、スミレの望む暴力くらい快く受け入れなくてはと思うのに、どうにも身体がうまくコントロールできない。震えそうな身体を叱咤しながら、ダールは「浴槽を利用されてはいかがでしょうか」と提言した。浴室ならば、例え返り血がスミレを汚しても、すぐに洗い流すことが出来る。客だからあまり気にしなくても良いだろうが、血痕は掃除しにくいと言うし、宿屋の人間も助かるだろう。
ダールの言葉はスミレを満足させることが出来たらしく、スミレはこくりと頷くとダールの腕を引いた。これからすることと結びつかない程に、その引き方は優しい。引かれるまま着いていくと、やはり浴室へと通された。
浴室の中の椅子へと座らされ、とうとうこの時が来たのだと身体に力を籠める。抑えているつもりだが、身体が震えてしまっているかもしれない。奴隷商人に幾度となく打たれたのに、そのときは感情を無にして受けられるようになっていた筈なのに、この優しい主人からされると思うと、より自身が存在すべきないものではないと突きつけられるようで苦しくなった。
「やめようか?」
頭を優しく撫でられながらそう声を掛けられて、ダールは顔を上げた。見上げたスミレの瞳に申し訳なさと残念さを見つけて、――今度は失望されることが恐ろしくなった。優しいスミレに申し訳なさを感じさせてしまっている。そして、多くを求めないスミレの求めに応えられないダールを残念に思っているのだ。こんなことを繰り返せば、スミレはダールを不要に思うに違いない。これ程美しいスミレの嗜虐に絶えられる奴隷なら、きっといくらでもいることだろう。折角ダールを見出してくれたというのに、それを自分で棒に振ってしまうことになる。
「いえ。……スミレ様の御心のままに」
「ダール…」
決死の思いで発したダールの言葉に、スミレはつらそうな表情を浮かべた。
「………ごめんね、やっぱり専門の人にやってもらう方が良いよね。素人がやったんじゃ、どうなるか分からないし」
「…専門、ですか……?」
「近くにリヨウシツとか、そういうところあるかな?あとで宿屋の人に聞いてみよっか」
ハサミによる折檻に、専門があるのだろうか。リヨウシツとは聞いたことがないが、ダールは生まれつき奴隷だったわけではなく奴隷歴もそれ程長くない。ダールが知らなかっただけで、もしかしたら奴隷を折檻するための教えを説いてくれるような、そういう商館があるのかもしれない。
「リヨウシツ、とは奴隷商館の一つでしょうか?」
「え?いや、そうじゃなくて……トコヤ?も違うのか……ええと、ビヨウシツとか、ヘアサロンとか……あ、これも違う?…、もしかしてここってそういうお店ないの!?」
「リヨウシツ?やトコヤ…とは、どのような店のことを仰っているのですか?申し訳ありません、私に学がないばかりに」
色々とスミレが問い掛けてくるが、どれもダールにとっては聞き覚えのない言葉ばかりだ。首を傾げつつも謝罪をすると、スミレはすぐに「あっ、ダールは悪くないの!」と許容してくれる。
「ただ、私の国とはなんかちょっと文化が違うのかな?ごめんね、私こそ常識知らずで」
確かに、スミレには常識とはかけ離れている部分がかなり多い。宿屋を探すときもそうだったし、奴隷であるダールに対する接し方や扱い方もそうだ。初めて出会ったときのスミレの服装からして遠い異国から来たのだろうし、国や地域ごとに文化や風習が違うことは往々にしてあることだから、それも仕方ないのかもしれない。そのお陰で、ダールは過分な幸福を得ることができている部分が多い。一体どんな国から来たのか知りたいところであるが、主人の個人的な部分を詮索するなど奴隷としてもってのほかなので当然聞くことは出来ない。
「…ダール、本当にありがとう。私、ダールがいなきゃ生きていけないよ」
「……っ!?」
唐突な殺し文句に、ダールは驚きとともにすぐさま赤面してしまった。まるで口説くような言葉は先程スミレが言っていたように文化の違いからくるものなのだろうが、それにしても。それにしても、心臓に悪い。
そんな台詞を言われたことのないダールが衝撃で数分間活動停止してしまったのは、仕方のないことだっただろう。