3 黄泉比良坂
めっちゃ削りました。
西暦2217年/8月
ヒグラシが鳴き、胸いっぱいに冷たく湿った空気を目覚めと同時に覚える季節。
人々がまだ心地よいまどろみの中にいる刻限。
古き日本の原風景を色濃く残す静かな町で、一人の男が果てのない遠い旅路へと旅立とうとしていた。
男の名は京極院国香。
飛騨の山間に広がる街の主人。
日ノ本一の猛者・大太刀の小人・毒をも食らう変幻の蛇 などと渾名された日本皇国の盾。
齢164。老齢の鬼武者と恐れられた彼もまた、天命に従い人生の幕を閉じようとしていた。
コー・・・フォー・・・コー・・・フォー・・・
人工呼吸器のマスクから漏れる規則的な息遣いの音が、衣のすれる音一つしない仄暗い部屋に静かに響く。
広く、だが派手さのない部屋。
調度品といえば床の間に掛けられた大太刀のみ。
そんな部屋に多数の人が静かに息をひそめて集まっていた。
部屋の中央には布団が一枚、畳の上に寝かされている。
そこに静かに横たわるのが、京極院家の元当主である国香だ。
「私も長いこと生きた。息子たちをこの目で看取り、古き友たちも全員が旅立った。そろそろ行かねば閻魔直々に迎えに来そうだ・・・」
周囲を囲う者たちが歯を食いしばり涙をこらえる。
一世紀と64年間。
国に尽くし、民に尽くし、家に尽くした男。
その人生は実に波乱で悲劇に満ち、そして愛にあふれていた。
妻も子も、孫もひ孫も全員が彼の死を惜しむ。
「年甲斐もなく泣くでない・・・逝くに逝けぬではないか。」
今にも吹けば消えそうなか細い声で笑う。
「逝かないでください。我々にはまだ・・あなたが・・・」
そこに集まる者たちからすればまだ若い、50歳ほどの男が涙のシミを畳に作りながら懇願する。
「国久・・お前はこの家を背負う当主であろう・・・そのような顔をするでない。お前達ならば私がいなくても問題ない。なんせ、この私の子孫であろう。何ら心配することなどない。」
国香は冬の木の枝のように瘦せこけた腕を上げ、子供のように泣きじゃくる男の頭を春風のように優しく撫でる。
それから国香は一人一人に声をかけていった。
時に厳しく、時に優しく、愛情深くゆっくりと最期の時を家族と過ごした。
「・・・・それでね、お祖父様。私は嬉しかったの。ずっと大切にするよ。」
「そうか。・・・・・ありがとう。・・・・・・皆の者、そろそろ・・・時間だ。この国を、この家を・・・・・頼ん・・・・・だ・・・ぞ・・・・・・・・」
最後の一人と話し終えたその時、国香は静かに息を引き取った。
その場にいた誰もが涙を流し、静かな部屋は人々の嗚咽の声で満たされた。
紫紺色の螺鈿の鞘に差された大太刀が悲しげに朝日を反射した。
山間から登る朝日が照らす朝露が竹の花からひとしずく、紅く、赫く咲いた彼岸花に零れ落ちた。
【いにしえに 君と夢見し 今日の飛騨 朝露結ぶ 竹のまほろば】
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始めに知覚したのは、視神経を焼くような眩しさだった。
重力という逃れようのない縛りから解き放たれたその魅惑の浮遊感は、弛緩した四肢を穏やかに包み込み、暑さも寒さも感じぬ、泡沫の安らぎ。
いっその事、このまますべてを委ねてしまいたくなるような心地よさに酔いしれるその時、閉じた瞼を強烈な光が貫いた。
夢幻のまどろみを楽しむ余裕もなく挿し込まれる現実的な痛みに悶え、束の間の平安を手放した。
うぅっ・・・・・・・!
弛緩した四肢は粘度の高い泥中にいるかのように動くことはなく、瞼を貫き瞳を焼くその光を遮ることはできなかった。
眩しさに耐え兼ねて、重く閉じた瞳を開く。
すると目の前には見慣れた、だが、久しく鮮明に見ることが叶わなかった我が家の天井が目に入った。
今となっては逢うことも叶わぬ愛する人が、生前に描いた妹背の大桜。
老いて輪郭さえも鮮明に見えなかったその天井画の桜が、美しく目の前で咲き誇っていた。
ふと辺りを見渡せば、打覆いをかけられた自分を囲う子孫らが、浮遊する自らの足元に見えた。
彼、彼女らはいずれも悲壮感を漂わせ、中には大声を出して泣き叫ぶ者もいた。
嬉しいものだ。自らの死を嘆き悲しんでくれるのは・・・・だが、笑顔で送り出してほしいと言ったではないか・・・・
人一倍泣き叫び、布団にしがみつく愛らしい昆孫の頭を、半透明となったしわくちゃの手で撫でる。
一瞬震えていた肩が跳ねるも、それに触れることも抱き寄せることもこの体ではできはしない。
「別れの覚悟はできているか?」
いつの間に現れたのか、年若い男とも女とも取れる美麗な声が問いかける。
振り返るとそこには、黒金に輝く一対の翼を背中に携え、同じく黒金色の羽団扇を腕に抱く齢20に届かんばかりの美少年が立っていた。
空中に於いて赤く塗られた一本歯の高下駄を静かに鳴らしながら近づいてくる。
国香は直感する。彼は自分を迎えに来たのだと。
恐れはなかった。だが、悲しさと寂しさが胸中を埋め尽くす。
「私は地獄に堕ちるのか?」
部屋を漂い、思い出に浸りながら国香は問いかける。
「それを決めるのは私ではない。だが、安心しろ。私が迎えに寄こされたのだ、お前たちの言う地獄とやらには行かないのだろう。」
静かに、そして感情の一切がこもっていないその声にわずかな優しさを感じる。
部屋の隅に置かれた使い込まれた桐箪笥に近づき、奥にしまわれた古い画用紙を撫でる。
「私はこの家を愛している。この家族を愛している。人笑うこの町を、鳥啼くこの森を、神遊ぶこの大地を、神さぶその時まで永遠に・・・・」
窓から見える朝霧の晴れた町をゆっくりと見下ろす。
音もなく静かに後ろを歩く彼は静かに答えた。
「お前が護ったこの家も、町も、みないつかは朽ち果て滅びゆく。それゆえに美しく、それゆえに尊いのだろう。永遠などないほうが良いのだ。だが、お前の行いは無駄ではない。それを誇れ。」
慰められているのだろう。少しばかり優しい声音で諭された。
見た目こそは自分よりも圧倒的に年下であるが、その物言いは圧倒的な歳月の差があってこそなのだろう。
床の間に掛けられた埃一つついていない大太刀を愛しむ様に撫でる。
刃渡り99cmを超える長大な太刀。国香の生涯の大半を共に過ごした友。
剣林弾雨の戦場を共に駆け抜けた半身ともいえるそれを一層優しく撫でる。
「覚悟は決まった。鳥よ。翼を持つものよ。私は逃げも隠れもしない。連れていくがよい。そのために来たのだろう?」
彼は死を受け入れない者を連れていく。それを生業とした天狗。
未練があろうと、地に縛られようと強制的に連れ去る者。
人はそれを死神と忌み嫌う。
「相、わかった。」
集まった家族らに向き直り、最期のときまでその光景を目に焼き付ける。
鳥は羽団扇を大きく振るった。
室内に一陣の秋冷な色無き風が吹き抜けた。
箪笥にしまわれた画用紙には、黒く輝く大きな鳥が広大な大空を羽ばたく姿が描かれていた。
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「知らない天井だ。」
目が覚めると目の前に障子の張られた天井。
一畳のやわらかく弾力のある畳の上に寝かされ、几帳に囲まれた帳台の上だった。
寝起きにもかかわらず、妙に冴えた頭で自らの置かれた状況を鑑みる。
「私は......記憶が正しければ私は天寿を全うし大往生したはず。だが、現に今こうして目覚め、見て、話して物に触れている・・・」
身体に掛けられた布団を優しくたたく。
そして自らの体の異変に気が付く。
「なっ・・・!手が・・・ある!」
生前に戦争で失ったはずの左手がそこにはあった。
さらには、年若くしわのないきれいな肌をしていた。
目の前の出来事にとっさに頭に手を置く。
するとどうだろうか、すべてが眠り冬の山のようであった頭部が、まるで春の森林のように生き生きと生え賑わっているではないか。
久しく感じることのなかった視界の鬱陶しさが愛おしいと感じる。
自身の異変に感動していると帳の向こう側から声がかかる。
「目が覚めましたか?」
霊峰白山にチロリと流れる湧き水のように澄んだ鈴音の声が意識を現実に戻す。
慌てて身だしなみを整えようとするも、自分が何も身に着けていないことに気が付く。
「こちらにお着替えください。私はここで。」
そう言って帳の隙間から出された装束に急いで着替える。
シミ一つない肌触りの良いその衣は、あからさまに上質なものであることをうかがわせる。
慣れた手つきで装束を身に着け、恐る恐る帳に手をかけ外の様子をうかがう。
「大変お似合いです。どうぞこちらへ。」
帳の外にでるとそこはなんとも表現できない美しい光景が広がっていた。
仄暗い部屋から眺める、光に照らされた四季折々のあでやかな草花。
チロチロと流れる小川に川面を泳ぐ銀の魚。
機織り機が音楽を奏でるその光景はまるで、神々が愛した土地であるかのよう。
「なんと美しい・・・・・・」
百年、追い求めた景色がそこにあると人はどうなるのか。
国香はあまりの美しさに呆気にとられ、無意識に涙を流し拭うことも忘れその場に崩れ落ちる。
どれほどそうしていただろうか。
再度、優しげな声音で呼ばれる。
「国香よ、こちらへ。」
千早姿に雑面を着用し、その表情はうかがい知ることはできない。
不気味なほど静かな部屋らを後目に広庇の下を彼女と歩く。
寝ていた建物は寝殿造りの屋敷だったようでなかなかに広く、はぐれればすぐさま迷子になるであろう構造であった。
「この屋敷は豊葦原中国において、文学史を代表するある女流物語作家によって四季折々の壮麗な景色を楽しめるようにと考案され建てられました。目覚めた直後の混乱を抑えることにも一役買っています。ですが、今では利用することも減ってしまい、わたくしと他数柱程度が、時折来る方々のために来ているにとどまっています。嘆かわしいことです……」
少し歩いていると屋敷の外に小舟が浮いているのが見えてきた。
装飾のほとんどないその舟にはこれまた雑面をつけた褌一丁の男が、櫂を肩に担ぎ待っていた。
「おう! あんたが国香か! 待ってたぜ。こっからは《わ》が送ってくんでよ、安心して乗ってんな!」
快活なその姿はまさしく海の男とあらわすのだろう。
黒く焼けた肌は汗をはじき、その身に纏うほどよく引き締まった筋肉を浮き上がらせていた。
「よろしくお願いします。」
腰から身体を曲げ、深く深く頭を下げる。
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天を浮く舟に乗り、富士山によく似た山に掛かる雲の川を昇っていくと、頂上より先、さらに上に掛かる雲にうっすらとおおきな城のような影が見えてきた。
「あの雲の奥に見えるのがわたくしたちの住まう高天原です。」
心なしか嬉しそうな声で説明される。
そして間もなく雲の中に舟は入っていく。
舟を操る男の櫂を握る手に一層の力が入る。
「ちっとばかし荒れるんで堕ちねえよう気張ってな。」
幾層にもなる笠雲の最下層に舟が入る。
始めのうちは何の問題もなく航海が進む。
しかし、しばらく後に雲行きが怪しくなる。
周囲から音が消え失せ、光が届かなくなる。
またしばらくすると、舟は小刻みに震え、軋み声をあげる。
風は一切吹いていないにもかかわらず体が揺さぶられる。
一緒にいる二人を見るも、二人とも全く動じる様子がない。
雨も風も雷もない雲の中、にもかかわらず国香は振り落とされないよう船端にしがみついていた。
[お前のせいであいつは死んだんだ! お前さえいなければ!]
[あんたにそこは不釣り合いよ。わたしに寄こしなさい。]
暗がりから多種多様の幻聴が聞こえてくる。
気持ち悪さか、恐怖か、背筋を冷たい何かがつぅーーっと、つたう。
ふと舟の下をのぞき込む。
するとそこには、おぞましさすら消し飛ぶほどの人々の怨嗟と呪詛が目に見えるように集まり、深淵を作り出していた。
それらすべてが自分に向けられたものであると、考えるまでもなく察した。
その深淵には見知った顔がいくつもあった。
目の前で自分が殺した者たち、手を下さずとも間接的にその生活を奪ってきた者たちがいた。
その者たちの目は一様に濁っており、今にも呪い殺さんとそのドロドロに溶けた腕をうようよと船底に伸ばす。
恐怖で声が出ない。
「カッカッかッ! なんじゃお前さん、えらく呪われちょるな。こんなに強くて濃ゆい呪いを向けられるなんぞ久方ぶりだ。これは堕ちたか?」
彼は笑いながら、同じ速度で舟を漕ぎ続ける。
「あれだけのことをしたのです。当然でしょう。それよりも舟は大丈夫なのですよね。」
「おそらく問題ない。あれが来なければ《わ》の舟はびくともせん。」
彼が指さすその先は深淵の最奥。
その先からは得体のしれない何かが這いずり出ようとしていた。
「オ゛ォォォォァァ」
その何かが低くうなる。
舟がさきほどよりも一層大きく軋む。
幻聴はよりひどく生々しくなる。
「だめかもしれないな。」
男がボソリとこぼす。
文字通り国香には限界が来ていた。
戦時中の悲惨な叫び声が頭の中でこだまし、女子供が自分を恨む呪詛が耳にこびりつく。
目は赤く血走り、口からこぼれる息は死にかけの小鳥のように小刻みに、身体の震えは止まるどころかひどくなる一方で今にもその舟から身を投げてもおかしくない様相だった。
「ア”ァァァァ」
ついに何かが猛然と深淵から暴れ牛もかくやという速度で登ってくる。
その姿形はいびつで、顔は眼球のない老婆、体は巨大なムカデ、何百と付いている足は多種多様で尻尾に魚のヒレがついていた。
その巨大な体躯を暴れさせ、ほかの怨嗟を踏みつけながらソレは這い上がる。
ソレが近づくにつれ幻聴はひどくなり舟に亀裂が入り始める。
〔くに・・・にか・・・国香・・・・・・〕
ふと、それまでの幻聴とは異なった優し気な声が頭に響く。
それはなによりも聴き続けた声。
なによりも求めた声。
そして、二度と聴くことの叶わなかった声。
ふと周りを見渡すも見えない姿。
〔大丈夫、心を、気を強く持って。強い願いはいつか叶うから。想いは必ず形となるから。〕
身体の震えは止まっていた。
頭の中で鳴り響いていた幻聴もだいぶ落ち着いている。
一度大きく深呼吸をし心を落ち着かせる。
(何を恐れているんだ。私は京極院国香。国家の護り手、こんなもの恐るるに足らん。)
背筋を伸ばし気を強く持つ。
すると、今にも船底に手が届きそうであった怨嗟がみるみるうちに退いていく。
暗く澱んでいた空気も徐々に晴れ、わずかに光が差してくる。
けれどもそんな中諦めていないものがあった。
「ヴァァァァァァァ」
怨嗟の根源 呪詛の塊であるソレが、それまでよりも一層大きく低いうなり声を上げながら迫りくる。
すると、横で颯爽と立ち上がる白い影が一つ。
「しつこいですね。時間切れだというのがわからないのですか。」
その左手には20cmにも満たない懐刀が握られていた。
彼女は刀に唾を吐きかけるとためらうことなくソレに打ち投げた。
刀はまっすぐにソレの眉間に突き刺さった。
「ア゛ァ・・・・・・ァァァ・・・」
ソレは恨めしそうな断末魔を残し、ぼろぼろと多数のムカデに姿を変えて深淵へと霧散し、落ちていった。
舟は厚い雲を抜け,高天原がその全貌を現した。
現在、大幅改訂中