三話『蒼穹の消失』
少女救出計画8日目。
学校に向かいながら、思い浮かべるのは昨日の出来事。
――――昨日、アイツに向かって『センスないよ』と言ったのはマズかった。
アイツってのは、もちろん『ネーム魔』こと名織南陽。
俺の言葉がアイツの闘志を燃やしてしまった。
あの後、休み時間すべて彼のあだ名への思いを熱弁されていた。
――――でも、『ゴビ』って言われるほどだったか? 俺。
その中でも、名織に聞いた『ゴビゴビマン』の語源。
それは、学校の新クラスで自己紹介をした時のこと。
『ゆ、癒川示杞だ、です。い、一年間よろしく、しますわ………します、よ?』
俺が選んだのは自己紹介のテンプレ。
――――だったはずなのに、今まで憑依したときに使っていた『語尾』によってデコレーションされてしまった。
――――緊張って怖い。
……やめよう、つらくなってきた。
思い返していると、どんどん心の傷が深くなる。
幸いにも? 眠いからか思考はぼんやりしてそのことを考える余裕はない。
「……つか、れ……」
圧倒的寝不足。
瞼が重く、意識も朦朧とする。
学校へと向かう通学路。
それを脱力しきった足で最小限の動作で進んでいく。
気持ちよかったはずの早朝に何も感じず。
普段耳にする、鳥の囀りも聞こえない。
「助けて……!」
「ッ!」
――――だけど、この声は見逃すことができなかった。
「何だ!?」
地をもう一度踏むだけで、軽く打ち消されてしまうような弱く儚い声。
喋るのを聞いたことはないけれど、聞き覚えのあるその声は、俺の意識を呼び覚ます。
鮮明になる、ぼやけていた視界と思考。
「だ、誰か! 路地裏から声が!」
咄嗟に周囲に呼びかける。
けれど、辺りを見渡しても誰かを呼んでも、誰も、いない。
俺しか、いない。
――――行くしか、ないか。
脱力しきっていた足に力を入れ、駆け出す。
転げ落ちているゴミ袋を退かして。
狭い路地を潜り抜けて。
一刻も早く。
「助けて――――!」
前は聞くことのできなかった、助けを求める声。
その声が、繰り返し頭の中で流れた記憶を呼び覚ます。
※ ※ ※
2年前、暑い日々が過ぎ去った秋。
中学3年生だった俺は1、2歳年下だと思われる女の子に憑依した。
………ここ、は? ――――っ!
俺の――女の子の体は縄で縛られていた。
そして、目の前には20代くらいの包丁を持った男。
金髪で、身長は180センチほど。
『ようやく目覚めた?』
俺に高さを合わせて男は話しかける。
『急に気を失ったから、死んじゃったかと思ったよ…………』
………誘拐。
俺は、すぐに女の子のおかれている状況を察知した。
『さて、目が覚めたことだし、ウツキちゃんのお母さんを呼び出すとしますかね』
男はどこかに電話し始める。
その隙に落ち着いて考える。
どうしたらこの女の子を助けられるか。
強引に抵抗するのは良くない。怒らせてしまったらどうなるかわからない。
憑依時間内で出来ることがあるとするならば、隙を見つけ出して、警察に通報するくらいだ。
『にしても、無事でよかった!』
『え?』
どこかへの電話を終えた男。
女の子を助け出す方法を必死で考える俺に、男は予想外な言葉をかけてきた。
『“え?”ってウツキちゃん、気を失ってたから。覚えてない? ……まあ無理ないか』
『…………』
男の言うことはいまいち理解できない。
だけど、今は当たり障りなく返事をしないと。
『す、すみませんっ! 覚えてないです……』
沈黙の末に、俺は14年間積み上げてきた女の子の前を実践。
『それにしても、なんでこんなことをするんですか? あなたにも家族はいますよね?』
棚の上にあった、誘拐犯が複数人と写っている写真を指して、説得を試みる。
『うん、知っていると思うけど、いるよ。だからこそ、だね』
『ど、どういう』
――――こと。と、そう言おうとした時、俺の言葉を遮るようにインターホンが鳴る。
『おっと、ちょっと待っててね。出てくるから』
男は玄関へと歩いていく。
誘拐犯にしては優しすぎる男の対応。
ちょっと混乱する状況だけど、今がチャンス。
――――今のうちに警察に。
女の子の持つ『PICM』で警察への通報を試みる。
拘束された手で番号を一つ一つ押していき、最後の番号を押す。
『ようやく来たか! このクソ野郎!』
その直前だった。
さっきの言動からは想像もできない、男の張り上げた声が俺の手を止める。
『クソ野郎なんて失礼ね。いいじゃない。あの子も受け入れてくれてるのだから』
『ウツキちゃんは無理やりさせられて、あんなになったんだろ!』
耳に入ってくる会話。
不安になりつつも、部屋の端からそっと玄関を覗く。
その女性は黒いコートを身に纏っていて、顔はフードの影に隠れて見えない。
だが、女性から感じられる不気味さと恐怖。
『!』
………俺を見て、笑った?
フードの影から現れる女性の口。
その口は示すのは笑み。
そして、それを向けられたのは男ではなく俺。
俺は怖くなって、咄嗟に身を隠す。
『何もかも、結果が全て。最終的に私たちに手伝ってくれているんだから』
『………ウツキちゃんは渡さないぞ』
『ええ、でも私たちの邪魔をするなら容赦しないわよ。たとえ、知人だとしても』
『俺は守らないといけない。助けないといけない……気づいてあげられなかった。だから――――』
見えないけど、続く会話。
何となく、男の動機が分かったような気がする。
男は今、俺が憑依している子を助けようと――――
『――――あ、そう』
『え?』
俺が男の目的に気づいた時だった。
突然、会話が途切れる。
『あ、うあ………ああああああ!』
男の叫び声が俺の鼓膜を震わせる。
俺の中で生じる不安。恐怖。
――――何が。何が、起きている!?
その叫び声の後に続く、液体が飛び散る音。
見れない、見たくない。
鼻に入りこむ、血の匂い。
ひた、ひた、と足音がする。
音は近づいてくる。大きくなってくる。
逃げる。どこへ?
戦う。どうやって!?
わからない。動けない。抗えない。
――――足音が止まる。何が起きたのかわからなかった俺は、頭を上げる。
『さて……どうしましょうか』
そこには、刃物を持った血に塗れた女性がいた。
俺を見る笑み。それが不気味で怖くて仕方がなかった。
――――あ、ああ。
そして、俺は何もできずに、そこで憑依を終えた。
※ ※ ※
後にニュースで知った。
誘拐犯と思しき男は意識不明の重体。少女の従兄。
全ては、あの黒のコートを纏った女性から女の子を守るためだったのかもしれない。
だが、その女の子は感情を失った状態で発見され、入院することになったらしい。
そして、失われた感情は元に戻ることなく女の子は姿を消したという。
俺は、それを聞いて部屋から一歩も出なくなった。
あの出来事が怖かったのもある。だけど、何より。
何もできなかった自分に嫌気がさして。
見ているだけだった自分が憎たらしかった。
何度も目の前に浮かぶあの女の姿。
何度も鼓膜を揺らす男の叫び声。
何度も鼻を狂わす血の匂い。
ずっと、同じ光景が目の前に浮かぶ。
悔やんでも悔やみきれない。
女の子のした怖い思い。男の嘆き。
――――俺は、何をすればよかったんだ………!?
――――高校生になって、ようやく学校に通い始めた。
答えは見つかっていない。
ただ、妹の、家族の心配している姿を見たから。
部屋に閉じこもって、その姿を見るのがとてもつらかったから。
※ ※ ※
――――今もわからない。あのときどうすればよかったのか。何をすべきだったのか。
だけど、俺は守りたいものを守るために強くなると決意した。
どんな条件下にあったとしても、戦えるように。
憑依しているときにも守り切れるように。
――――だから。彼女は必ず助けてみせる。
分かれ道を右に曲がる。
「――けて」
左に曲がる。
「――すけて」
脳に響き渡るような声が。前は聞くことのできなかった助けを呼ぶ声が。
俺の耳に届く。
進む。疲れなど気にしてられない。
「たすけて」
――――そして。女の子の姿が見える。
静まった路地に女の子がぽっつりと、背を向けて立っている。
純白の髪と対照的な真っ黒なワンピース。
その姿はこの路地裏の暗闇と一体化している。
「ハア………や、やっぱりあのときの!」
顔を見ずとも確信できる。不気味な研究所のような場所にいた女の子だと。
憑依の規則性を求めるための努力が無駄になったとしても、どうでもいい。
ただ、女の子が無事でいてくれて嬉しかった。
………?
だが、ふと、疑問が生じた。
――――一人? 襲われている、ってわけではない……のか。
「……来た」
振り向いた女の子の表情は怯えだった。
こんなに不安そうな顔をしているんだ。やはり何かあったに違いない。
俺は女の子に近づく。どこをどう見ても、研究所のような場所にいた女の子。
だけど、彼女の蒼穹のような瞳は雲に包まれたようだった。
「………大丈夫? 誰かに襲われたのか?」
「違う」
「……どういうことだ? 確かに君は『助けて』って」
「ごめん」
「何か困ったことでも?」
「それも、ない」
「じゃあ、どうして?」
「…………」
黙り込む女の子。俺の方へ、ゆっくりと歩いてくる。
「ごめんね」
再び彼女の謝罪。
「――――死んで」
「ッ!?」
女の子の服から抜き出される短剣。
それを右手に持って走りだす。
俺は、反射的に逃げ出す。出来る限り遠くへ。
今までないほど全力で。
――――逃げなきゃ。
状況はわからないけど、それだけは感じた。
振り向いて、彼女のいる位置を確認する。
「!」
――――俺の真横。そこには既に先の女の子。
とんでもない速さで、俺に追いついている。
俺の目に映る、女の子が握る短剣。
その刃先が俺に向かう。
「うっ」
首を右に曲げて避ける。
けれど、躱しきれずに頬を掠める。
頬が痛む。だけど、それより気になるのは“後ろ”。
石が地面に落ちる音。
恐る恐る後ろを向く。
「嘘だろ」
そこには大きな亀裂の入った壁。
か弱そうな女の子に、殺傷力はなさそうな短剣。
壁が破壊されることなんてありえないはずだ。
――――ヤバイ。ヤバイ。
壁に短剣が刺さっている隙を見て、その場を去る。
あんな攻撃をまともに喰らったら一発でお陀仏だ。
走る。でも、力が思うように入らない。
気力も、もうない。
走らなければ死ぬという事実への恐れだけが俺の足を動かす。
「ハアッ、ハアッ」
後ろを見て、誰もいないことを確認して足を休める。
……巻いた? ……何なんだよ。あの子は。助けを求めていたと思っていた彼女は助けを求めていなかった?
頭の整理が追いつかない。
理解ができない。
「……いた」
――――あ、ああ。
落ち着く暇もなく耳に届く彼女の声。
彼女へ向かう頼りにしていた声は、絶望へとなり果てた。
………もう、だめ、か。
わかっている。この女の子を救う実力がないこと。また、助けられないことを。
いや、助け、求めてないんだっけ。
でも、今はもう関係ない。
「――――あ」
諦めてしまおう、そう思った時だった。
ふと、見てしまった。女の子の腕を。
震えている。歩く振動では誤魔化せないほどに。
それは、誰かを平気で殺すような人がするようなものではなく。
誰かを殺すのが怖いと思う人の振る舞い。
――――殺される、ものか。そうしたら、きっとこの子は戻れない。
やってみせる。もう、あの子のようにはさせないから。
目の前の女の子は俺に向かってくる。
彼女から繰り出される短剣の突き。
俺はかろうじて躱す。
俺だって、あれから戦いの練習をした。
けれど、それは人間相手の戦い。壁を破壊するほどの力に、目が追いつくのがやっとな速度。そんな異次元な要素はその範囲外。
躱せているのは女の子の躊躇が動きを鈍らせているから。
息が荒くなる。力も限界で、動くのもやっと。
――――その刹那、目の前に短剣が飛び込んでくる。
死を、感じた。躱すのも間に合わない。
「ッ!」
短剣が、頭の上を通り過ぎた。
不可避のはずの攻撃が躱せていた。
………速度を、緩めた。きっとこの子は殺したくないんだ。
その震えた手に、その行動に彼女の思いを見る。
――――守って、みせる!
俺の頭上を通る彼女の腕。
その震えた手を抑えるように掴む。
「!」
‟カラン、カラン“
即座に立ち上がって、彼女の短剣を叩き落とす。
そして、対応できていない彼女の身を封じる。
「……ハア、ご、ごめん……1回話を――――」
――――言ってくれればいい。殺したくないって。
事情を話してくれたら――――
「……わかった、時間、だから」
――――っ、抑えられない!
突如、腕に加わる尋常でない力。
彼女の動きを止めていた腕が振り払われる。
彼女の表情は安堵と、困惑。
………違う、違う。
路地の奥へ消えていく女の子。
「違う! 違うんだ……! 俺は、君を――――………」
彼女を呼び止める声は疲れで思うように出ない。
彼女を追いかけようとしても、体は動かない。
「……また、また、かよ。また、俺は……」
助けたい、その気持ちと裏腹に視界はぼやけて、瞼は閉じていく。
暗闇の中の振り向いた彼女の憂いの様な表情が、最後に鮮明に映った――――…………
※ ※ ※
ある人気のない研究所。
そこで少女とショートカットのボーイッシュな女性が立っている。
「つぐも、標的は殺した?」
「いや」
「なぜ? 手を抜いた?」
「……違う」
「実力で負けたわけないでしょ。訓練したし、手回しもした」
「…………」
「"最優先事項”でしょ?」
「……胸が、痛かった」
「っ!」
「したくないって」
「…………」
「しちゃだめだって」
「…………」
「しないといけないのに……」
「…………」
「私は――」
"プルルルル”
少女が何か話そうとしたとき、誰かが呼ぶ音が鳴り響く。
「ったく、何? ……チッ。……つぐも悪いけどあっちに行こう」
「……わかった」
少女は言いかけた言葉を言い直すこともせず、もうひとりの女性とその場を跡にした。