一話『名前も居場所も知らない少女』
薄暗い部屋の中。
首元を横切る冷たい風。
頬を撫でる風に揺られた白髪。
目の前にある鏡に映る少女の姿。
そっと、鏡の存在に手を伸ばす。
これは、何の変哲もない日常。
「ああ、またか」
――――もし、この少女が本当に俺なのだとしたら、だが。
※ ※ ※
数刻前。
俺、癒川示杞はとあるゲームを持って呆然としていた。
「う、動かない…………」
あらゆる方向からそれを観察する。だが、どこから見てもそのゲームが壊れたという事実は不変である。
――――俺は現在高校二年生。友達はいない。
中学生の頃のただ二人の友達は別の高校に行ってしまった。
だから、最近話題になっているこのゲームで皆と仲良くなれたらいいなって思ったんだ。
「はあ……」
けれど、このどうしようもない惨状を前にため息をつく。
そんな俺にとどめを刺すかのような目の前に浮かぶ数字。
「…………はあ」
目の前に浮かんでいる数字は俺の所持金を示している。その数字に二度目のため息。
2080年代の今。最近になって普及した、この触れないパネル。
『PICM』といって、自分で持ち運ぶ必要はなく、少し前のスマートフォンという機械の代替品だ。今ではすっかり皆の生活必需品。
このような発展があるとはいえ、『PICM』と今俺がしていたゲーム以外は特に数十年前と変わらないのだが。
『511円』
「…………やったー! 5と11、セクシー素数だ!」
憂鬱な気分を、セクシーという何だか素晴らしそうな響きの言葉で誤魔化す。
テンションも上がっていき、散歩でも行きたい気分になってきた。
‟ガッ“
「あっ」
早速部屋を出て外に向かおうとした時。
足の指先が固い何かに衝突する。
…………どうやら、この憂鬱はまだ続くらしい。
視界が横転する。
浮ついていた俺に、受け身を取る余裕はない。
目のすぐ上に床が広がり、少し伸びた髪も床に吸い寄せられる。
――――そして、引っかかったものがゲーム機であることに気付いた時にはもう既に、頭皮に床の感触があった。
「――――何してんだろ、俺」
※ ※ ※
そして、この体を得た俺。
物心ついたときに気づいた能力『憑依』。
上手く使えれば有用ではある能力であろうが、俺には制御ができない。
眠ると能力が発動するのだと今までは思ってたんだけど、どうやら気絶でも問題ないらしい。いや、問題だらけだけど。
「き、き」
――――綺麗。なんて、目の前の鏡に映る純白の美少女に言いかける。だけど間接的に自分にも言うことになるから、やめとく。
気を取り直して周囲を見渡す。
ちょっと薄暗いけど見えなくはない。
見える限り生活に必要なものだけ。逆にいえば、生活必需品がすべてといえるほどに、この一室に集まっていた。洗濯機、食器洗い機、冷蔵庫、電子レンジなど。そして何より――
「ひっろ。どこだよここ……」
そんな詰めに詰めこんだ部屋でも窮屈に感じさせないほどの広さ。
――――この子ひとりの部屋、なのか?
そんなことを疑問に思っても、確認する術はない。
情報を集めようと、辺りを歩き回る。
すると、部屋の隅の机の上には、手紙があった。
『初めまして。この文字が読めるか? 貴様はここで普通に暮らしてくれればいい。
ただし外出できる時間は0 a.m.から8 a.m.の8時間のみだ。
このことを理解できたなら、次からは直接指示をする。
では、これからよろしく頼むぞ』
字の力強さから、書いた人の豪快な性格が窺える。
――――どういうことだ? 指示? というか貴様って。
手紙からわかったのはそれくらいで、他のことはよく理解できない。
――――ん?
手紙を見ながら歩き回っていると机のそばに、鉄のドアを見つけた。
…………開かない。
だが、ドアノブを捻っても、押しても引っ張ってもドアはびくともしない。
…………しょうがない。他の所を――――
“コンコンコン”
他の所を当たろうと折り返そうとした時だった。
ノックする音が聞こえる。
「時間だからカプセル入ってね。扉は開いてるから」
その音の後にどこからか聞こえる女性らしき声。
――――入ってって……この鉄のドア? さっき開かなかったけど…………まあ、どうせ開かないと思う――――けどおおお!?
「ぶへっ」
俺の目の前が地面で埋め尽くされる。
開かないと思っていたドアが開いたため受け身を取る余裕はなく、勢いよく顔を地面に打ち付けた。
――――ごめん、この体の持ち主。
“ガシャン”
――――え。
鍵がかかったような音。
嫌な予感がする。
すぐさま地面に突っ伏していた体を起こして、この部屋の入口のドアノブを捻る。
「……やっぱり開かないっ!」
だけど、予想通り最初のようにビクともしない。
不安がどんどん膨らんでいく。
――――何が、起こってるんだ!?
『じゃあ、カプセルを開けて入って』
部屋に響くアナウンス。
閉じ込められた以上、それに従うしかない。
ドアノブからそっと手を放して、部屋に視線を向ける。
狭い部屋。そして、そこにあるのは不気味なカプセルのみ。
カプセルは楕円形で、丁度人一人は入れるぐらいの大きさ。
カプセルの蓋が勝手に開いていく。
カプセルの中には布団と枕。
カプセルの蓋の裏側にも何もない。
――――あれ? 思ったより待遇がいい? それはそれで不気味だけど……入るしか、ないか。
カプセルに座るようにしてから、少しずつ体をカプセルに入れていく。
完全に体を入れ終わると、機械的な音と共に蓋が次第に閉まっていく。
――――一体何が起こるんだ?
完全にカプセルが閉まってしまった。
目の前は既に真っ暗。
頭の中は疑問と不安でいっぱい。
……あれ? 『PICM』がない?
そんな状況にさらに疑問が生まれる。
『PICM』は“日本全国民”に政府によって使用を義務化されている。
支払いなどの様々なことを『PICM』で行う。従来のものでは、対応していない場合もある。
――――じゃあ、海外の人なのか?
疑問に対する推測。
だが、違う。今まで憑依で海外に行ったことなんかない。
ここ十数年の経験則。
――――なら、どうして? ……何だ、あかる――――
「――――あがっ!!?」
突如、身体に電流が流れたような途轍もない痛みが襲う。
――――こんな、の今まで!
俺は今までの憑依で様々な生物に憑依した。
足がなかったり、器官が飛び出ていたりした生物もいた。
その時の激烈な痛みとは全く違う痛み。
全身に駆け巡る激痛。骨がひび割れたように。頭をかき回されたように。そして、何かが埋め込まれるように。痛みは治まることなく膨張していく。
「う――――あ、あけ、ろ…………」
激痛が吐き気をももたらす。
目の前が揺らぐ。
叫ぼうしても、声が出ているのかもわからない。
カプセルを殴ろうとしても、当たっているのかもわからない。
「う…………あ、あ」
揺らぐ視界の中。
最後に映ったのは、完全に脱力しきった、握りしめたはずの拳だった――――
※ ※ ※
「――――やめてくれ!! ……あ」
――――自分の部屋だ。
戻ってきた、らしい。
乱れた息。多量の汗。
かかっていた布をゆっくり退かす。
「何だった……んだ? あの部屋は。あの女の子は…………!?」
昨夜のことが頭から離れない。
…………あの話しかけてきた女性、慣れているようだった。
――――あんな目をあの子は何度も?
「だけど、俺に何ができるって…………!」
あの子を救いたい気持ちは、ある。
だって、あのときと同じだから。
「何もできないだろ」
でも、その気持ちだけで何とかなるほど甘くないことを知っている。
日本の人口1億人ほど。
そこから、居場所も名前も知らない女の子を探す?
警察に話すとしても、俺の能力を話さないといけない。誰が信じる?
「俺じゃ、力不足なんだよ…………」
思い浮かぶ過去の記憶。その後悔。
だけど、結局俺にどうしようもない。
あのときと同じように惨状をただ見ているだけ。
俺はまた、何も見ていないかのように日常へ戻るだけなんだ。
※ ※ ※
――――授業の内容。何にも入ってこなかった。
日は沈み、放課後。
あれから時間が経っても、まだあの感覚が残っている。
――――見て見ぬふりなんてできるわけ、ないだろ。
絶対に探す。過去の後悔が俺にそう思わせる。
現実的じゃない? 知らない。
意味がない? 意味は俺が見出す。
「二度とあんなこと、させてたまるか」
途方もないかもしれないけれど。
どうしようもないかもしれないけれど。
その過去をなかったことにしたくないから。
俺はただ、やるべきことをやるだけだ。
――――得体のしれない研究所らしき場所にいる少女。
彼女を探すために、俺は準備をし始める。
二度と同じ過ちを繰り返さないように――――。