第八章
キキとキキの祖父の家から、祖父の遺体はなくなっていた。マーチンが言うところの『現場検証』が済んだからだ。キキの祖父の遺体はまずニュートンに引き取られた。ニュートンは医者としての仕事だけでなく、この街で死んでしまった人間の処理も引き受けていた。キキの祖父の遺体は、街の墓地に埋葬されることになっていた。
祖父が死んでしまってから、キキがこの家に足を踏み入れるのは初めてのことだった。家の中には変わらず油や様々な金属の匂いが漂っていて、いつもキキを安心させていたその匂いは、居心地の悪いものになっていた。この家に入ることで、祖父はもう居ないのだ、という現実を、キキはもう一度実感しなくてはいけなかった。戸口に立ったまま動かないキキを無視して、ドクトルはずかずかとキキの家に入り込むと、「これは素晴らしい!」と大声を上げた。その声にキキはただただ苛立つばかりだった。無神経にもほどがある、とキキは思った。ドクトルはバタバタとキキの祖父のデスクに駆け寄ると、祖父が使っていたパソコンを見て驚嘆の声を上げた。
「アイマックをこの目で見ることが出来るなんて! なるほど、君の祖父もまた旧世紀の遺物の虜だったようだな。これがあれば私の研究も大いに捗るところだ」
「勝手に触んないで」
祖父の椅子に座り、パソコンに手を伸ばそうとしていたドクトルに、キキは慌てて駆け寄って制止した。お世辞にも礼儀正しい少女とは言い難いキキだったが、この男にデリカシーという言葉は存在するのだろうか、とキキは呆れる。ドクトルは降参するように両手を宙に上げると、「でもランバートを直したいんだろう?」と切り札でも出すような声で言った。キキは歯ぎしりをするしかなかった。
そして結局、ドクトルの腕は確かだった。渋々といった様子のキキからランバートを受け取ると、ドクトルは丁寧に腹部のパネルを外し、外したネジを作業台の上に種類別に並べ、ランバートをパソコンに接続した。当然その設備は祖父のデスクにすべて備え付けられていて、ランバートに関するファイルもすべてパソコンに入っていたので、ドクトルは手馴れた動作でパソコンを操作すると、黒い画面に緑色の文字が流れる様子をしばらく眺めていたかと思うと、時折カタカタとパソコンを操作し、ものの十五分でランバートを元通りの形に直した。ガガーッ、ピッ、という、相変わらずエラー音としか思えない大きな音が鳴って、ランバートがぐるりと辺りを見回し、キキを見つける。
「キキ」
ランバートがガサガサの合成音声でしっかりとそう発音すると、キキは思わずランバートに駆け寄ってその小さな体を抱きしめた。祖父の欠片がやっと戻ってきたような気がした。
「言っただろう? これでも私は腕のある機械工なのだ」
その感動の再会をぶち壊すように、ドクトルは椅子の上で足を組むと、ふふんと自慢げに鼻を鳴らした。キキはランバートを抱き上げ、ドクトルの方を苦虫を噛み潰したような目で見ると、ドクトルとは一変して軽蔑のこもった鼻を鳴らし方をした。
「直してくれたことに対してのお礼は言う。プログラミングの技術が確かなことも認めるけど、機械工としての技術はまだ見せてもらってない。その点はまだ信用出来ない」
「その気難しさはエンジニア向きだね。ますます気に入ったぞ」
ではお前はどうなのだ、とキキは聞き返したかったが、感情的なところをこれ以上見せる訳にはいかなかったので、すんでのところで口を閉じた。それにしても、話し方はさておき、言葉の選び方が祖父に似ている、とは思った。キキの気難しさを、祖父は確かに褒めてくれた。学校や街の人間には、まったく不評な性格であったのに。
「それで、君を都市に招きたいという話だがね」
ドクトルがギシリと祖父の椅子――革を模した黒いビニール張りの、黄色いスポンジがところどころから飛び出している椅子――の背もたれに体重を預けると、玄関ドアがノックされた。キキは思わず、祖父が存命のときのように「はい」と元気よく返事をすると、小走りに玄関まで移動して大きな音を立てる玄関ドアを開ける。そこに立っていたのはデイビッドとキャシーで、キキは驚いてキャシーを見た。
「何かあったの」
それでもキキはあくまでもキャシーに問いかけた。「また故障だよ」と答えたのはデイビッドで、そこでキキはようやくデイビッドの存在を認識した。よく見ると、キャシーは左腕を抑えている。「肩関節の異常です」とキャシーは説明した。
「爺さんはいなくなってしまったけど、キキ、お前ならどうにかできるのかい」
「見てみないとなんとも分からない。診断だけさせてもらってもいい?」
デイビッドの言葉に、キキは凛として答えた。デイビッドは頷くと、キャシーを先に通してキキの家に入る。ドクトルはその一連の様子を、珍しく(ドクトルのことはよく知らなかったが、少なくともキキはそう思った)無言で眺めていた。
キキはキャシーをアンドロイド用の作業台に案内し、横になるように指示をすると、肩関節の見聞にかかった。キャシーの肩は胴体との接続部分から外れてしまっていて、何本か配線が断線しているのがわかった。キキはキャシーの腕を上げたり下げたりしてみるが、サーボには異常がないようだ。「これならすぐに直せる」とキキは顔を上げてデイビッドを見た。デイビッドはどこかほっとした様子だった。
実際、キャシーの肩関節はすぐに治った。デイビッドは「助かったよ」と財布からディスクを取り出そうとしたが、キキはそれを片手で止めた。
「泊まらせてもらってたんだから。これくらいはいいよ」
「恩に着るよ。もうこっちに戻るつもりなのかい」
「うん。もう…おじいちゃんもいないしね。荷物は後で取りに行く」
キキは途中で言葉に詰まり、尻すぼみになりながら言った。デイビッドはそうか、とだけ言うと、キャシーを連れて帰った。玄関ドアが閉まった瞬間に、口を開いたのはドクトルだった。
「不自然な故障だね」
玄関ドアを閉めたキキは、ドクトルを見て再び嫌悪感でいっぱいの顔になる。ドクトルはそれを意に介さず、そして顔が笑っていなかった。
「何らかの衝撃が与えられなければ、あのような壊れ方はしないだろう?」
「アンドロイドだって転んだりすることはある」
「それにしてもだ。彼は何度君のお祖父様に世話になっている? アンドロイドがそんなに事故を起こすと思うか?」
キキはそこでふと考えた。たしかにデイビッドは祖父の常連だった。いつもキャシーが故障した、という内容で訪れるのだ。その故障はいつもハードウェアの故障で、どこかしらが破損している、というものだった。キキはドクトルを初めて真面目な顔で見た。
「つまりどういうこと?」
「あの持ち主はあの女性アンドロイドに乱暴を働いているね」
キキは驚いた。デイビッドが、そんな人物には見えなかったからだ。たしかに少しがさつで、物を大切するような人間ではなかったが、数日寝泊まりしても、デイビッドがキャシーに手を上げているのを見たことがない。キキは「デイビッドはそんな人じゃないと思う」と考えたままのことを言った。
「人間なんて信用ならない、そうだろう?」
ドクトルはモノクルの向こうの目を光らせて言った。キキははっとする。そうだ。デイビッドは人間なのだ。感情がコントロールできず、暴力的である可能性は否定できない。キキは考え込んでしまった。
「少なくとも、彼女のことを思うなら、真相を確かめた方がいいだろうね」
ドクトルはそう言うと椅子から立ち上がり、大きく伸びをしてから何事も無かったかのように玄関の方へ向かおうとして、途中でキキを振り返る。
「で、勧誘の件だが、私は諦めていないからね。また会おう」
ドクトルは白衣を翻して玄関から出ていったが、キキはそれどころではなかった。キャシーが、心配だ。