第三章
アンジーはキキのクラスメイトだった。赤毛、というよりくすんだオレンジ色に近いウェーブのかかった髪に、顔中にそばかすのある素朴な顔をした子供だ。アンジーはいつも前髪ごと髪の毛をハーフアップにして、その広い額を丸出しにしていたから、学校では『デコ助』というあだ名がついていた。アンジーはもちろんそのことに良い印象を抱いていなかったどころか、実際は恥ずかしくて仕方がなかったが、アンジーの母親は毎朝アンジーの髪を同じようにセットする。消極的なアンジーは一度だけ母親に「髪型を変えたい」と申し出たが、それはすぐに却下されたので、以来アンジーは髪型について母親に反抗するのをやめた。そんなアンジーにとって、キキは不思議な存在だった。キキは、誰に何を言われても意に介さない。『オタク』とか、『根暗』とか、『変人』とか、キキには様々な(アンジーにしてみれば)不名誉なあだ名がついていたが、そのどれについてもキキは何も言わなかった。それどころか、キキは学校に来なくなった。アンジーたちのクラスの教師が、何度もキキを学校に来るように説得しようとしていたのを、アンジーは知っている。それでもキキは頑なだった。アンジーはもう一ヶ月以上、キキの姿を見ていなかった。
アンジーの家――というよりそこは、窓ガラスが割れ、屋根に空いた大きな穴をトタンで塞いでいる小屋のようなところだった――から学校に行く道すがらに、キキの家がある。キキの家は全体的にフォルムが丸く、ドーム状の一階に、長方形の二階が必死でバランスを取っているようについている。一階からは煙突が伸びていて、いつももくもくと黒い煙を吐き出していた。アンジーは学校へ向かうとき、いつも一度キキの家の前で足を止めた。一階には窓がついておらず、中の様子は一切分からない。ただ、何かを金槌で打つような音や、何かを機械で切断している音が聞こえた。その日もアンジーはキキの家の前で足を止めていたが、すぐにドアが開き、肩に四角いロボットを乗せたキキが現れた。キキはアンジーを見ると、心底嫌そうな顔をして、玄関ポーチを降りるとアンジーの横をすり抜けて街の中心部に向かおうとした。
「待って」
アンジーは思わずキキを呼び止めてしまってから、しまった、と思った。アンジーは特にキキに用があるわけではないし、キキが自分のことを――自分のみならず、学校の人間全員のことを――疎ましく思っているのは明白であった。キキは呼び止められて、あくまでも嫌々といった動作でアンジーを振り返る。肩にロボットが乗っていたので、首だけを回すことが出来ず、キキはアンジーと対面する形になった。キキは何も言わずにアンジーを睨めつけていた。
「あの、ごめんなさい」
アンジーはすぐに謝罪の言葉を口にしていた。それはアンジーの癖でもあって、何かにつけてアンジーは謝ってしまうのだ。ただ、今回の謝罪は正しかった、とアンジーは思う。用もないのに、キキを呼び止めてしまったのだから。キキは、すっかり萎縮して目をそらし、両手と両足をもじもじさせながらその場に留まっているアンジーを見て、「用がないなら、もう行くよ」とそっけない声を出す。
「わたし、忙しいんだ」
「…どうして学校に来ないの?」
キキはすっかり呆れ返ってしまった。昨日は校長で、今日はアンジーだ。同じ質問を何度も繰り返されて、その度に同じ返答を返すのは時間の無駄であり、ひいては体力の無駄だ。要するに、キキの一番嫌いなリソースの無駄遣いなのである。キキは目を回して、長いポニーテールを揺らしながら身体を回転させると、とっととその場を去ろうとした。アンジーは慌てた。
「待って。違うの。学校に来てほしいわけじゃないのよ」
アンジーは矢継ぎ早に言いながら、キキの後をよろよろとついていく。キキが立ち止まって再びぐるりと振り返ったので、アンジーはよろめきながらその場に踏ん張った。そうでもなければ、キキの胸に飛び込んでしまうところだった。そして、キキは最高にそれを嫌がるだろう。
「…わたしも学校に行きたくないの」
何も言わないキキに、アンジーはぼそぼそと伝えた。誰にも伝えたことのない本心であったので、その言葉を言うのには大変な勇気が必要だったが、キキならば誰にも告げ口はしないし、もしかしたら自分の気持ちを分かってもらえるのではないか、と思っていた。ただ、前者は正しかったが、後者は的外れだった。キキは癖のようにふんと鼻を鳴らすと、
「行きたくないなら、行かなければいいじゃない」
とだけ言い残し、アンジーを道に残してさっさと歩きだしてしまった。残されたアンジーは、ただただ舗装されていない道の上で呆然と立ち尽くすしかなかった。放心はしていたが、絶望はしていなかった。ただ感嘆していた。キキは強い。アンジーは思う。自分もあれくらい強くあれれば、きっと人生が楽になるのに。そう思ってから、アンジーは意を決したように小さくなりかけていたキキに向かって走り出した。「待って」と再び声に出しながら、キキを追いかける。久しぶりの運動に息の荒くなったアンジーがキキに追いつくと、キキは鬱陶しそうにアンジーを見た。
「まだなにか用なの?」
「わたしも学校に行かないことにしたの。だからついていくわ。今日はどこへ行くの? いつものゲームセンター?」
「ただのお使いなんだよ。二人も必要ない。とてつもなく邪魔だから帰ってくれないかな」
「嫌よ。決めたんだもの。そっちのロボットはなあに? かわいい」
アンジーはすっかり高揚していた。はじめて親の言いつけに背いているのだ。そして、長らく密かに憧れていたキキと一緒に話している。アンジーの気は大きくなっていて、キキはその様子を見ると声にならない唸り声を上げながら足を止め、本腰を入れてアンジーを追い返そうと向き直った。ランバートが口を開いたのは、そのときだった。
「ボク、ランバート」
キキは参ってしまった。これでは話の種が増えてしまったではないか。案の定、アンジーは目を輝かせてランバートを見た。
「ランバートっていうのね。よろしく。わたしはアンジーよ」
「ヨロシク、オネガイシマス。アンジー、トモダチ」
「ランバート、アンジーはわたしの友達じゃないんだよ」
「これでランバートとはお友達になったわ。キキのお友達にもなれたら、嬉しいんだけれど」
キキが再び鼻を鳴らしてそんなことありえないね、と言おうとしたときだった。
「見ろよ。オタクとデコ助が一緒にいるぜ」
ちょうど自分たちが歩いてきた道を辿って、三人の子供たちがこちらに歩み寄ってきた。背の高い金髪の子供が一人と、それぞれ背の小さい痩せこけた子供が二人。この三人は、学校でもいじめっ子として名のしれた三人組である。キキはいよいよ大きなため息をついて、面倒に巻き込まれまいとさっさとその場を離れようとした。だが、その瞬間にランバートが肩から飛び降り、飛び降りた衝撃で一旦倒れながら、ふらふらといじめっ子たちの前に立った。
「ランバート、キキ、マモル」
「このジャンク品みたいなロボットはなんなんだ? 気持ち悪いな」
驚くキキをよそに、背の高い子供がランバートに歩みよって、一瞬のうちに蹴り飛ばす。キキは衝動的に「ランバート!」と叫んでランバートの方へ走り出した。その場に留まっていたアンジーは、震えながら背の高い子供を見上げる。にやつく子供に、アンジーは弱々しく言った。
「キキに謝って」
ランバートを回収したキキにも、その声は聞こえていた。幸い、ランバートは枯れ草の中に突っ込んだので、大きな損傷も見られなかった。その代わりに、キキの方に今度はアンジーが突き飛ばされてくる。子供たちはその様子をげらげらと笑いながらその場を去ったが、キキは倒れ込んだアンジーを助け上げながら、
「なんであんなことしたの」
と聞いた。アンジーは、砂まみれになった顔を上げるとただ一言、
「友達だから」
と笑った。