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第二十二章

 酔っ払いの男が離れると、ビートルはすぐに早足で教えられた路地へと足を向けた。最早キキとアンダーソンが一緒にいることを忘れているようで、キキはともかく、アンダーソンはさっさと歩くビートルに大幅な遅れを取りながらついていく。教えられた路地はそれなりに幅が広かったが、当然のように薄暗く、その薄暗さはロストマンの件を思い出させたので、路地の入り口に立つビートルにキキは「やめたほうがいいと思う」と最後の忠告をした。ビートルは勿論聞く耳を持たず、「これしか方法がないんだ」と両手の拳を握ってずかずかと路地に入った。路地は袋小路になっていて、その一番奥にボロボロのフードを目深に被り、毛布のように麻の布を膝にかけてあぐらを掻いている人物がいた。彼が酔っ払った男に聞いた『情報屋』のようで、ビートルが彼の前に立つと、情報屋は顔も上げずに「ファイル」と短く言った。


「リンク」


 ビートルが即座にそう答えると、情報屋はそれでも顔を上げないまま、「どんなご用かな」と感情のない声で言った。「子供売りの帳簿を持っていると聞きました」とビートルが本題に入ると、情報屋は小さく何度か頷くと、「いかにも」と言いながら身じろぎをし、顎でそばの錆び付いたドアを示した。


「帳簿はあの中にある」


 情報屋はそう短く言うと、もう何ヶ月も腰を上げていないとばかりに緩慢な動作で立ち上がった。ドクトルやオースティンのように細身なのではなく、ただただ痩せこけている。情報屋はビートルの横を通ってドアの前に立つと、ドアを開いてビートルに中に入るように促した。この時点でキキの警戒心は天井を超えていて、キキはビートルの洋服を引っ張ると「正気なの?」とその耳に囁いた。


「言っただろ、これしか方法がないんだよ」


 ビートルは頑なにそう言うと、情報屋の開けたドアの中に入っていく。ドアの先は階段になっていて、地下に繋がっていたので、キキは余計にロストマンのことを思い出した。続けてビートルのために情報の報酬を支払うと決めていたアンダーソンがギィギィと音を立てながら中に入り、キキはしばらく逡巡してから意を決したようにその後についていった。情報屋は更にその後に続くと、後ろ手にドアを閉めてから階段を下りた。

 階段を下りきると、そこは書庫のような場所だった。キキもビートルも、アンダーソンも見たことがないほどの量の本が壁一面を覆い、それ以外には家具の一つもない。部屋の中心まで進み出た三人の横を通り過ぎた情報屋は壁面の本棚を吟味するように見ていくと、時たま冊子を取り出して中を検分し、ビートルの求めている情報と違うと判断すると別の本を探しに行く。その壁には一箇所だけ本棚がないところがあり、そこはドアになっていた。キキはそのドアを見ると突然妙な不安に駆られた。この場所にいる人間は一人ではない、と直感的に思ったのだ。キキが引き返そうと提案しようと思ったところに、情報屋は黄ばんだ紙の束をただただ集めたような分厚い冊子を取り出し、ビートルの前に立った。


「名前は」

「ビートルです」


 情報屋の質問に、ビートルは急いで答える。情報屋は立ったまま冊子をめくりながら、名前のリストを辿るように指を動かしていた。興奮のあまり少し前のめりになっているビートルを見もせずに、情報屋はビートルの名前を発見して「あの家か」と呟いた。ビートルはその小さな呟きに、「父さんと母さんはどうしてるんですか」と早口で聞いた。そこでようやく情報屋が顔を上げたが、フードのせいで顔はまったく見えなかった。


「よく覚えているよ。君のご両親は君を引き渡すことに随分抵抗なさった。ああも抵抗されては、いなくなって頂く以外に道はない」


 男はそう言いながらフードを取り、顔を露わにする。その顔には大きな傷跡が斜めに入っており、頭はところどころ禿げていて、眉毛がない。「父さんと母さんがいない? 覚えているって、どういうことですか」と困惑したビートルが聞くが早いか、キキの懸念していたドアが開き、三人ほどの屈強な男が部屋に入ってきた。ビートルは情報屋と男たちを交互に見たが、恐れよりも驚きが勝っているようだった。キキはといえば、何が起きてもいいように身構えていたが、四人目が入ってくると目を丸くするしかなかった。四人目は、オースティンだったのだ。


「あなたもグルだったの」


 キキが甲高い声を出すと、オースティンは芝居ではないと明らかに分かるような申し訳なさそうな顔になる。「僕も不本意なんだ」とオースティンは言い、「都市の一部を管理しているのはこの人たちなんだよ。怪しいことは全部伝えなくちゃならない。僕も死にたくはないから」と目を伏せて続けた。情報屋はオースティンが話し終わるのを待ってから口を開いた。


「我々のビジネスについて嗅ぎ回られるのは、こちらとしても非常に厄介でね」

「それじゃあ、あなたたちが子供売りなんだ」


 事態が飲み込めずに硬直しているビートルの横で、キキは警戒心が丸出しになった声で言った。情報屋――この時点ではもう子供売りだった――は無言で頷き、「そしてここに子供が二人いる。もう話は分かるね?」と見た目にそぐわず落ち着き払って言った。屈強な男たちがキキたちを囲もうと歩き出しそうになったのを、キキは見逃さなかった。キキはビートルの手を引っ張ると、「アンダーソンも!」と叫んで階段へ向かおうとする。しかし、行く手はすぐに子供売りの男に塞がれた。キキはビートルの手を握ったまま、子供売りを睨みつけた。


「威勢の良いお嬢さんだ。商品としては扱いにくい部類に入るが」


 子供売りはそこで口の片側だけを釣り上げて笑った。キキは部屋をぐるりと見渡して、急いで状況を計算する。武器になるようなものはない。キャシーもいない。アンダーソンの鈍さでは戦えないだろう。そこでキキははたと思い出して、アンダーソンのパーツが入った祖父のボストンバッグに入り切らずに飛び出していた長方形の金属片を引き抜くと、両手を使って目一杯の力で子供売りに縦に斬りかかった。子供売りは驚いた様子も見せずにそれをかわそうとしたが、キキには次の手が分かっていた。今度は金属片を横にして、子供売りの腰に向かって振りかぶる。それはきっちりと子供売りの腰に命中し、子供売りが大きくよろけたのを合図に、キキは走った。ビートルがそれに続き、アンダーソンも慌てて階段を上り始める。子供売りは舌打ちをしたが、それでも余裕を保っていた。「そのドアをロックしていないとでも思ったのか?」という声が階下から聞こえる。実際、ドアはロックされていたが、キキは不思議と焦らなかった。ドアは数字のついた暗号パッドでロックされていたものの、キキの頭には四桁の番号がすぐに浮かんだ。キキは手早く四桁の番号を押すと、ロックを解除してドアを開く。「貴様、何をした!」という子供売りの大きな叫び声が背後からしたが、キキたちはとにかく人の多いほうへと走り出す。子供売りたちは追っては来なかった。彼らは秘密裏にしか活動しないのだろう、とキキは思って、繁華街の中心部で足を止めると息を整えるために身体を折って両手を膝についた。


「どうしてあの数字が分かったんだい」


 一人だけ息の切れていないアンダーソンが、驚いたような割れた声で聞く。キキは肩で息をしていたのでしばらく答えられなかったが、「勘だよ」としか言えなかった。どうしてあの四桁の番号が頭に浮かんだのか、キキにも分からなかった。横ではビートルが同じようにぜえぜえと息をしながら、神妙な顔つきになっていた。ビートルには先程の情報が処理しきれていなかったのだ。ビートルの親は、恐らくもうこの世にはいなかった。

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