第二章
その日、キキは学校にいた。何日ぶりだろう、と思って、いや、一ヶ月以上顔を出していないかもしれない、と思い直す。キキの出席率があまりにも悪い、ということで教師に何度も呼び出されたことがあるが、その度にキキは教師の呼び出しを無視していた。祖父も、キキが学校へ行かないことについては特に何も言わなかったし、それ以上にキキには学校に行く意味がわからなかった。幼少期から自分は祖父の後をついで機械工になるのだ、と決めていたし、だったら実際に手を動かして学ぶのが一番だ。学校の粗末なテーブルを囲んで、実用性のない文章の書き方とか、誰も実はよく把握していない世界の歴史とか、そんなことを学ぶ必要はないと思った。それでも今日、キキが学校に来たのは――というより、キキに言わせれば連行されたのは――校長が直々にキキの家までやってきたからだった。ちょうど祖父が高齢で動けない依頼主のアンドロイドを直しに出かけていたので、校長を追い払ってくれるだけの権力のある人間がいなかった。それで、キキは学校の校長室にいた。
校長室、といっても、そこはただの小さな部屋だった。窓は割れていて、隣の部屋に面する壁が少し崩れているので、この会話にはなんのプライバシーもなかった。校長の座っている椅子は黒い革張りで確かに上等そうだったが、革がそこここで剥がれて中のクッションがむき出しになっていた。デスクもやはり木で出来た高価そうなデスクだったが、天板は割れているし何より右に傾いでいる。キキは薄汚れたタンクトップにカーゴパンツ、それから最近の誕生日に祖父にプレゼントしてもらったサイズの合わないエンジニアブーツという出で立ちで、そのデスクの前に座ってそっぽを向いていた。校長は髪の毛を団子状にまとめた古めかしい髪型の女性だ。名前はなんと言ったか、キキには思い出せなかった。
「どうして学校に来ないんですか」
「必要性がわからないからです」
校長の第一声に、キキは校長を見るとすぐに答えた。校長の眉間の皺が深くなる。校長は古めかしいものが好きなのか、恐らく元々は白かったのだろう、黄色いブラウスに穴の空いた紺色のジャケットをびっちりと着込んでいた。胸に金色のブローチまでしている。あれを溶かせば良い資源になる、とキキは思った。
「学校は学びの場です。大人になるために、皆一様に必要なことを学んでいます」
「必要なものは人それぞれです。わたしは機械工になります。必要なことはすべて祖父から学んでいます」
「機械いじりばかりしていては人として成長できないのですよ」
「くだらない噂話をしたり、物を粗末に扱うのが人として成長するということなら、わたしは人間になりたくありません」
キキが厭味ったらしくそう答えると、校長は額に手を当てて大きなため息をついた。どうしてあなたは、と感情的な声を出しかけて、咳払いをしてやめる。キキはもうこの会話に飽き飽きとしていて、ひとつに結んだ長い黒髪を前に持ってきて枝毛を探していた。校長はその様子を見て、先程押し込めたはずの声音で言い放った。
「親の顔が見てみたいわ」
これにはさすがのキキも感情的になった。枝毛を探すのをやめて、きっと校長を睨みつけると、親なんかいません、と怒る。
「自分の子供を捨てるような奴も『人間』なら、人間なんて腐っている。アンドロイドのほうがよっぽど信用できます」
キキはそう言うと、床に置いていたショルダーバッグを持ち上げた。中の工具ががちゃがちゃと音を立て、校長はそれすらも忌々しいとばかりにキキを見ている。キキは最後に校長の目を軽蔑のこもった眼差しで見ると、わざと「失礼します」と大きな声で断ってから部屋を出た。最悪の日だ。キキはショルダーバッグをがちゃがちゃと言わせながら、学校の廊下をずんずんと突き進んだ。通りすがるたびに、ほかの子供たちが自分を大げさに避けたり、ひそひそ会話をしたりする。まったく人間ってやつは、と思ってから、キキは立ち止まってその場で深呼吸をした。彼らみたいに成り下がってはいけない。
キキが家に戻ると、鉄で出来た煙突からは煙が上っていた。祖父が帰宅している証拠だ。キキはそれだけで安堵のため息を着くと、「ただいま」と言いながら薄っぺらい玄関ドアを開ける。キキが家に半分入ったか入っていないかのところで、ドアが大きく開かれたのでキキは危うくつんのめるところだった。ドアを開けたのは祖父で、祖父はいつも通り溶接用のゴーグルを頭につけ、両手に作業用のグローブを嵌めたまま、「キキ!」と大きな声を上げキキを抱きしめた。
「どこへ行っていたんだい」
「校長先生に連行されたんだ」
祖父はそう聞いたものの、キキの返事など耳に入っていない様子でせわしなく作業場に戻る。祖父は明らかに高揚していて、キキは祖父が何かを完成させた、ということだけ理解した。最近、祖父は仕事をしていないときは常に作業場で何かを作っていた。キキがそれを見ようとすると、祖父は慌ててその『何か』を隠し、キキに「完成までは秘密だよ」と真剣な顔で言った。完成したということは、自分もその『何か』が見られるということだ。キキは校長との会話をすっかり忘れ、わくわくしながらショルダーバッグを放り出すと、祖父の後をついていった。
「見てくれ。ランバートだ」
祖父は作業場で、大きく手を広げて『何か』を紹介した。キキがよく見ると、それはどうやらロボットのようである。ただ、普通のロボットではなかった。背の丈は三十センチほどしかなく、頭も身体も長方形で出来ている。スクラップを継ぎ接ぎして作ったのは明白で、目はついているが片目は瓶のキャップで出来ているし、もう片方の目はモノクルだ。顎の部分に切れ目があり、顎が開閉することは理解できたが、理解できないのは祖父がなぜこのロボットの完成を喜んでいるか、ということだった。祖父の腕なら、もっと高尚なロボットを作れるはずなのに。
「おじいちゃん、これのどこがすごいの」
「そこは企業秘密でね」
祖父は茶目っ気たっぷりに先日のようなウインクを送ると、ランバートに旧式の電池を嵌め込んだ。ガガ、ピッ、というエラー音としか思えないような音が出て、ランバートは座っている状態から直立するが、頭が大きすぎてふらふらしている。キキが慌ててランバートを支えようとすると、ランバートはギシギシと音を立ててゆっくりと首を回転させ、
「キキ」
と変に甲高い音で発音した。キキは驚いた。この見た目で、顔認識システムと発声機能がついているとは。
「キキのことはプログラム済みだよ。なんてったって、これはキキへのプレゼントだからね」
祖父は親指を立ててキキの方に向けたが、キキには何がなんだか分からなかった。キキの誕生日は少し前に過ぎた。それに、この明らかに祖父の技量に見合っていない、目的の分からないロボットはなんだろう。質問したいことが多すぎて言葉に詰まっていたキキに、ランバートは右手をぎこちなく上げると、「ヨロシク、オネガイシマス」と言った。
「…よろしく、ランバート」
戸惑いながら、その音声認識レベルが信用できないので、大きな声ではっきりと返事を返す。返事を返すと、ランバートは上げた右手をキキの方によろよろと差し出した。それが握手を求めているのだ、と認識するのには時間がかかったが、キキはすぐに差し出された手をつまむようにして握った。
それだけで、キキは少しこのロボットが好きになれるような気がした。