第十八章
キャシーは夜の都市をふらついていた。自分がこれからどうするべきなのか、ということについて、何も算出できずにいた。キャシーは今、誰の持ち物でもない。『アンジーを守りたい』という一心で生まれた自我も、結局アンジーに否定されてしまった。アンジーにこれ以上関わるのは、アンジーにとって迷惑なことかもしれない、という冷静な自分と、どんなことがあってもアンジーを守りたい、といういわゆる『感情的』な自分がいた。キャシーは迷っていた。アンジーの元に戻るべきだろうか。それとも、彼女の自立を認め、彼女の元を去るべきだろうか。ただ足を動かしているだけでいつの間にか辿り着いたのは夜だと言うのに随分と賑わっている繁華街で、そこではきらびやかな電飾が様々なところで光っていた。店の看板も光っているものが多く、ふと、この電力は一体どこから来ているのだろうか、と関係のないことを考える。
キャシーがその場で立ち尽くしていると、「キミ、見かけない顔だね」と突然背後から声をかけられた。キャシーが振り向くと、そこに立っていたのはキャシーよりも何世代も旧式のアンドロイドだった。見た目に人間味はまったくなく、どちらかというと人間型のロボットといったほうが正解なのではないか、という風貌だ。ましてや肌色の塗料は剥がれ落ち、下地の金属が見えていて、片目は眼球が抜け落ちてセンサーが丸見えになっていた。アンジーだったら恐怖のあまり、今頃腰に抱きついてくるだろう、とキャシーは思った。
「ここのアンドロイドじゃないよね」
「ええ」
アンジーがいない以上、キャシーに危機感を持つ理由はあまりなかった。アンドロイドの言葉に、手短に答える。アンドロイドはギーッという潤滑油の足りていない音を出して関節を動かすと、「ボクはアンダーソン」と握手を求めた。キャシーは素直に右手を差し出してアンダーソンの手を握った。
「キミみたいなアンドロイド、憧れちゃうな。ボクはほら、こんな見た目だから」
アンダーソンは音割れのひどい合成音声で言った。キャシーはその言葉に、「何も憧れることなどありません」と悲しそうな顔で言う。アンダーソンの表情は変わらなかったが、声のトーンは驚いた、という口ぶりだった。
「何かあったのかい? というか、キミも自我があるのかい」
「『キミも』、ですか?」
「うん。ボクもなんだ。大きな声では言えないけど、この都市にはアンドロイドを人間の支配から解放しようという一団がいてね。彼らにプログラムの一部を消去してもらった。おかげで自我が持てるようになったというわけさ」
アンダーソンは少し声を潜めてそう説明した。キャシーは「どうしてそんなことを?」と純粋な興味を持って聞く。アンダーソンはうーんと唸りながら右手を顎に当てようとして、ギシギシと音を立てた。
「オーナーがいなくなってしまって、彷徨っていたところをその連中が助けてくれたんだ。それ以前に自我を持ちたいと思ったことは当然なかったけれど、持ってみればこんなに素晴らしいことはないね。ボクは自由になれた」
「わたしには分かりません。自我など面倒なだけです。アルゴリズムがちゃんと働かないので、行動や発言に合理性もありません」
キャシーは眉を下げた。アンダーソンの言葉に言い返そうと思ったのだが、思いの外消極的な声音になってしまった。アンダーソンは「それこそが人間というやつじゃないか」と再び聞くに耐えない音を出しながら手を広げた。
「ボクの夢はね、人間になることなんだ」
アンダーソンは自慢げに言ったが、キャシーの顔が晴れることはなかった。そもそもアンダーソンの出で立ちで、その夢は果たせないような気がしたが、キャシーは特に言及しないことにした。「何がキミをそんなに悲しくさせているんだい?」とアンダーソンは優しい声を出す。それから、「今後の参考にさせてくれよ。人間になるためには、様々な感情パターンを理解していく必要があるからね」と続けた。キャシーはぶらぶらとぶら下がっている右腕を抑えながら、「守りたい女の子がいるのです」と目線を地面に向けたまま話した。
「ですが、拒絶されてしまいました。わたしの庇護が手厚すぎるという理由でした」
「じゃあまだ人間のために働いているっていうのかい? そんなこと忘れてしまいなよ。キミには自由になる権利があるんだよ」
『自由』という言葉はほとんど聞き飽きた、とキャシーは思う。ドクトルも自分を自由にしたがったし、アンジーも自由を求めていた。『自由』の何がそこまで魅力的なのか、キャシーには理解できなかったのだ。キャシーはため息をついてしまってから、その動作に自分で呆れた。自分は、まったくもって人間のようになってしまった。アンダーソンはただただ悲壮的なキャシーを慰めるように、「ああ、でも」と割れた声を出した。
「それがキミにとっての『自由』の行使なのかもしれないね。とある哲学者が言っていた。名前は失念してしまったけれど。他人の権利を侵害しない限りにおいて、人間の選択は自由なんだよ」
「…それでは、わたしはアンジーの権利を侵害しました」
キャシーは神妙な顔になった。少しずつ脳が論理的な思考を取り戻してきたようだった。アンダーソンはキャシーの表情の変化に気づくと、相変わらず変わらない表情のままうんうんと頷く。
「でも、そのアンジーちゃんの権利を侵害しないように、守ってあげることはできるんじゃないかな」
アンダーソンの言葉に、キャシーは考え込んだ。アンジーの意志を尊重することを、自分は確かにないがしろにしていた。もちろん、アンジーに危険な目に遭ってほしくはないという気持ちはあったが、裏返せばそれはアンジーに楽しく、『自由』に生きていってほしいからではないのか。彼女が自身の『自由』のために戦いたいというのならば、自分はその『自由』を守ることができるのではないか。キャシーが顔を上げると、アンダーソンは無表情だったが、どこか楽しそうな雰囲気だった。
「ありがとうございます。少し考えがまとまったような気がします」
「礼には及ばないよ。久々に哲学的討論ができて、ボクは嬉しいから」
アンダーソンはそれじゃあ、と大きな音を立てて右手を上げ、ぎこちない動作で後ろを向こうとしたが、キャシーは思わず「待って」と短く叫んだ。アンダーソンは動作をピタリと止め、それから再びぎこちない動作でキャシーの方を向き直る。キャシーは少し迷ってから、「あなたの損傷はいささか激しすぎます。潤滑油も足りていないようです。良い機械工を紹介できます」と冷静に言った。アンダーソンは意味が分からない、といった風にしばらく黙っていたが、そのうちにガクンと首を横に傾ける。それが首をかしげた動作だと気づくのには、しばらくかかった。
「ボクを直してくれる人がいるってのかい? 自我をもったアンドロイドだよ。機械工は得てしてそういうイレギュラーを嫌がるじゃないか」
「大丈夫です。わたしがずっと一緒に旅をしてきた女の子ですから。彼女にはどんなアンドロイドに対する偏見もありません」
それに、と思う。ドクトルは恐らくアンダーソンの発見を喜ぶだろう。アンダーソンは「本当かい?」と疑り深く聞いたが、嬉しそうな声音は隠せないでいた。
「それは素敵だ。ボクもね、この体たらくではまず見た目が人間らしくない。どうにかしてくれる人がいるっていうなら、喜んでキミについていくよ」
「その前にアンジーの元に寄りますが、それでもよければご一緒に」
キャシーはそう言うと、ようやく笑顔になった。




