第十二章
荷物を部屋に置き、階下で食事を取ろうというドクトルに大きく扉を叩かれ、キキは嫌々ながら扉を開いた。キキもアンジーも心底疲れていたので、とっとと眠りたかったが、お腹が空いていないわけでもない。キャシーはドクトルの背後にぴったりついて、相変わらず無表情で立っていた。キキにはそれが気がかりだった。
階下に降りると、『ハイウェイ・エイティ』の客は先程よりは減っていて、それでも彼らの視線は遠慮なくキキたちを検分した。ビートルは定位置なのだろう、元の椅子に戻って何かの冊子に鼻先を突っ込んでいて、『ハイウェイ・エイティ』の主人は金属で出来たカップを拭いているところだった。もっとも、いくら拭いてもその錆が落ちることはないだろう、とキキは思ったのだが。ドクトルは空いている丸テーブルにさっさと着席すると、キャシーもそれに続き、キキとアンジーもどきどきしながら着席した。主人にまでじろじろと見られているのが分かったからだ。ドクトルは不安げなキキとアンジーには気づいていない様子で、「今日は私の奢りだよ」と相変わらず大きな声を出すと、「バーボンはまだ残っているかね? それからウサギ肉も頼もうかな」と続けて主人に注文をした。『ウサギ肉』という単語にキキとアンジーはびっくりする。動物の肉は貴重であるがゆえに、街ではあまり見かけないもので、一度も食べたことがないものだった。
「明日の昼までは滞在したいところだね。太陽が上らないとソーラーパネルの意味がない」
「そんなことよりキャシー、あなた大丈夫?」
ひたすら喋り続けるドクトルを遮るように、キキはずっと思っていたことを口に出した。キャシーはデイビッドの記録を削除されて以降ずっと無口で無表情だ。キャシーはキキを見ると、「持ち主のいないアンドロイドに、あまり意味はありません」とフラットな合成音声に答えた。
「活動する意味がないのです」
「つまらないことを言うんじゃないよ、キャシー。君は自由の身になれたんだ。好きなことをしていいんだよ。まあ、旧式のアンドロイドではそのように思うのも無理はないが」
支払いのために、今にもディスクが抜け落ちてしまいそうなボロボロの財布の中身を見ていたドクトルは、顔を上げずに言う。キャシーはドクトルを見、「持ち主がなくては、わたしの存在意義がありません。わたしにとって、自由は存在意義にはならないのです」と説明した。ドクトルがこれみよがしにため息をつくと、「都市に着いたら、その固い頭はどうにかしたほうがいいね」と言い、そこにビートルが食事を運んでくる。カップと同じように錆びきったトレイの真ん中にはまるごと焼かれたウサギの肉が乗っていて、キキとアンジーの腹が同時に鳴った。
「あんたら、都市に行くの?」
トレイの上から粗暴な動作でカップに入った飲み物とウサギ肉をテーブルに置きながら、ビートルはキキとアンジーに視線を向けて言った。ドクトルは早速アルコールに手を出していたので、キキはビートルの素性を怪しみながら曖昧に頷く。ビートルは不審なものでも見るような目つきで、「子供なのに?」と付け足した。キキはその視線に気分を害していた。
「あなたに関係ないじゃない」
「ビートル、何油を売ってんだ」
キキが言い返すと、店主が大きな声を上げた。ビートルはその言葉にちらりと店主を見てから、のろのろと所定の位置に戻っていく。その直前に、ビートルはキキに向かって至極小さな声で「あとで話を聞かせてほしい」と言った。キキには何がなんだか分からなかったが、その言葉の真意を尋ねる前に、ビートルは元の椅子に戻って冊子を取り上げていた。
夕食が終わり、各々が部屋に戻った後、アンジーは十分と経たずに眠りについた。キキはといえば、ビートルの発言が気になって眠れないでいた。その疑念に答えるように、夜も随分深まってキキがうとうとし始めた頃、部屋の扉が控えめにノックされた。キキはびっくりして飛び起き、ドクトルだろうか、と思ってから、ドクトルのノックならもっと大きいはずだと思い直した。ベッドから下りたキキが扉を数センチだけ開けると、そこにいたのはビートルだった。キキは一気に警戒心を強め、「何の用?」と不躾に聞いた。ビートルは「おれも都市に行きたいんだ」と答えた。
「マスターに聞かれたら困る。入れてくれないか」
ビートルは真剣な表情で続ける。キキは一瞬迷ったあと、扉をあと十センチほど開けて、ビートルが部屋に滑り込めるようにした。痩せこけたビートルはするりと扉の中に入ると、キキが扉を閉めるのを待って口を開いた。
「おれ、元々は都市の出身なんだよ」
ビートルの言葉に、「だから?」とキキはあくまでも頑なな態度で聞き返す。ビートルは先程のつっけんどんな様子とは打って変わって、必死そうな顔つきになっていた。
「小さい頃のことだからあまり覚えていないけれど、たぶん、おれは売り飛ばされたんだと思う。都市から子供でぎゅうぎゅう詰めの車に乗って、いろんな街を回った。おれはたまたまこの場所であの男の下で働くように命じられたんだ」
ビートルの話を、キキはすぐに理解することができなかった。ただ警戒心でいっぱいだった態度を少しだけ緩めて、「子供を売り飛ばしてるって、どういうこと?」と聞き返す。「そのままの意味さ」とビートルは肩をすくめた。
「都市みたいに人がいるところから、人手不足の街やこういう店なんかに、子供を売るんだ。儲かるんだと思う。子供は無抵抗で無力だから、捕まえやすいし」
「それであなたは都市に帰りたいの?」
「父さんと母さんを探したいんだ」
ビートルはそう言うと、大きな茶色の瞳でキキをまっすぐに見た。その言葉に、キキはどうしていいか分からなかった。キキには親がいなかったから、ビートルの気持ちが理解できないような気もしていたが、たとえば自分が祖父から引き離されたとしたらどうするだろう、と考えていた。腕を組み、組んだ右手を顎に当てながら、キキは神妙な顔になった。
「…それは、ドクトルに相談したほうがいいと思う」
「あの男は信用できるのか?」
「絶対に、とは言い切れない。でも、都市には確実に向かえる」
「じゃあ、紹介してくれよ」
ビートルの言葉に、キキは大きく頷いた。ビートルに部屋の中で待つように指示して、ドクトルの部屋の扉を叩く。ドクトルは絶対に起きている、という根拠のない自信がキキにはあって、実際ドクトルは起きていた。扉を大きく開いて「やあ、どうしたんだい!」と叫びかけたドクトルに、キキは人差し指を立ててしーっとジェスチャーした。ドクトルは存外素直にそれに従った。そのままキキはドクトルを自身の部屋に引っ張っていき、中に押し込んで自分も部屋に入る。ドクトルはビートルを見ると相も変わらず大袈裟な身振りでぎょっとしてみせると、「ビートルがどうしたっていうんだい」とキキを見た。キキは状況を簡単に説明すると、「都市でお父さんとお母さんを探したいそうなの」と付け加えた。ドクトルはキキを見てからビートルを見、またキキを見て、最後にビートルを見た。
「子供売りの話はよく聞くよ。君もそういう事情だったのかい」
ドクトルは今度こそ真剣な顔になった。
「そういうことでは、わたしも黙っているような大人ではないからね。よかろう、君を連れて行こう。ソーラーパネルの充電の関係で、今すぐに忍び出るということはできない。滞在を伸ばして、明日の夜に抜け出す算段でどうかな」
ドクトルの言葉に、ビートルの顔が明るくなる。ビートルは「お願いします」と礼儀正しく頭を下げると、キキたちの部屋を静かに出ていった。キキはビートルがいなくなってからもしばらく、ビートルのことについて考えていた。




