第十一章
「出発するならば早いほうがいい。少なくとも、キャシーの持ち主が帰ってきてしまっては困るからね」
そのドクトルの言葉で、四人はすぐにでも街を出ることになった。そもそも持ち物がないキャシーや家に戻れないアンジーは手ぶらだったが、キキは急いで家に戻ると必要なものをかき集めた。ドクトル曰く、「工具の類はすべて揃っているから、気にしなくてもいい」とのことだったが、使い慣れた工具というのはあるものだ。ショルダーバッグには当然入りきらなかったので、キキは祖父が持っていた上等そうだが古ぼけたボストンバッグに、祖父がよく使っていた工具類を手早く収めていった。そういえば、とキキは思う。祖父がこのボストンバッグを使っているところを見たことはなかった。祖父もまた、キキが知っている限りでは街から出たことがないのだ。キキはそのことに引っかかりを感じながら、最後に祖父の作業着をボストンバッグに押し込んだ。キキが大人になったらそれを譲ってくれる、という約束だったが、それはついに果たされなかった。キキは作業着を押し込むと、家の真ん中でしばらく放心した。祖父はもういない。それでも、キキがもう泣くことはなかった。泣いても喚いても祖父が帰ってくるわけではない。そして、いなくなってしまったとしても、祖父はたくさんのものをキキに遺してくれた。キキは立派な機械工になることこそが、いなくなった祖父のためになると信じていた。
キキが家を出た頃には、辺りは薄暗くなり始めていた。ドクトルは街の南で会おう、と言っていたので、家を出るとすぐにそちらに足を向け、早足で街の中を歩いた。『ビッグ・ハリーの道具箱』を通り過ぎ、『フライング・オッター』も通り過ぎる。途中、アンジーの家も通り過ぎた。アンジーの家には灯りがついていて、キキは少し複雑な気持ちになった。キキを捨てた親のように、アンジーの親もまた、アンジーのことを大切にしていない。これだから人間は、と思って、キキはドクトルとアンジーについて考えた。彼らもまた人間だけれど、それぞれ何かが少し違った。
ドクトルはキキの姿を認めると、すぐに大きく手を振って「こっちだ! 急ぎたまえ!」と大声を出した。こっそり街を抜け出そうとしているのではなかったのか、とキキは思ったが、ドクトルの発言や行動にいちいち付き合っていたらきりがなかった。キキはドクトルの前に立つと、重いボストンバッグをどすんと地面に下ろしてドクトルの背後にある物体を見た。それは大きなつぎはぎの、全体的に茶色い布に包まれていた。
「それは何?」
「車さ。君たちは見たことがないだろう。これはね、従来の旧世紀のガソリン車と違って、ソーラーパネルで動くように改造してあるんだ」
そう早口で言うと、ドクトルは茶色い布を掴んでばさりと一気にそれを引き剥がす。現れたのは横に長い長方形の乗り物で、キキとアンジーはそれを見ると目を丸くした。とにかく大きく、車輪がついている。様々なところが錆びていて、ガラスが嵌っていたと思われる窓の部分はすべて空洞になっていたが、元は下半分が塗装されていたらしい。黄色い塗料の破片がところどころ残っている。そしてその『車』の上には、車よりももっと大きなソーラーパネルが取り付けられていた。
「どうだい、素敵な車だろう。部品を盗まれると困るから、隠しておいたんだ。フォルクスワーゲン・タイプ・ツーだぞ。見つけたときは喜びのあまり踊り狂ったものだ」
ドクトルはとにかく楽しそうにそう言うと、さあ乗りたまえ、とドアを開き、キキたちを誘導した。車をしげしげと観察していたキキがまず乗り込み、キャシーが続いて、アンジーが戸惑いながらもなんとか座席によじ登る。ドクトルは茶色い布を畳んでそれを車の後部に乱暴に突っ込むと、運転席と思われる丸いハンドルのついたほうの座席に乗り込んで後ろを振り向いた。
「それじゃあ、都市までひとっ飛びだ。賞味六時間ほどだろうか。準備はいいかね」
そう聞いておきながら、ドクトルは三人の返事を待たずに車を発進させる。その大きな揺れにキキとアンジーはよろめいたが、キャシーは行儀よく二人の間に座ったままだった。車はその後もガタガタと上下に揺れ、キキとアンジーは天井に何度か頭をぶつけ、「もっとどうにかならないの」とキキが叫んだ。ドクトルは振り向くことなく、「メインロードに出ればもっとマシだよ! 少し我慢してくれ!」と叫び返した。
街を出ると、確かに車の揺れは幾分ましになった。車が街を飛び出すと、そこには広大な砂漠が広がっている。キキとアンジーはそれぞれの窓から顔を出して外の風景をまじまじと見つめた。アンジーはわぁ、という感嘆の声を上げながら、その赤毛を風になびかせていたが、キキは小さくなっていく街の姿を見ていた。何かが、もう後戻りはできない、とキキに告げていた。
都市に向かう間、車は一度だけ停車した。そこは砂漠の中にぽつんと存在する酒場のような場所で、『ハイウェイ・エイティ』というトタンで出来た看板に文字が書いてある。『ハイウェイ』がなんなのかキキにはまったくわからなかったが、ドクトルはそこで車を急に停車させ、キキとアンジーは危うくシートから放り出されるところだった。ドクトルは後ろを振り向くと、「ソーラーパネルの充電が必要だ。しばらくここに滞在しよう」と言った。キキとアンジーは一気に不安になったが、キャシーは無表情のままだった。持ち主の記録が削除されてから、キャシーは無口になっていた。
キキがドアを開いて飛び降り、キャシーが続くと、アンジーはのろのろと車から降りた。
「気分が悪いわ」
「それは『車酔い』ってやつだね。まあ、今日はここで一晩を明そうじゃないか」
運転席を降りたドクトルは、軽いステップを踏みながら『ハイウェイ・エイティ』のドア――厳密には『ハイウェイ・エイティ』の中は丸見えで、控えめな木の板が両側についているだけだった――を大きく開けると、「たのもう!」と大きな声を出した。その背後に隠れていたキキたちは、ドクトルの緊張感や恐怖心のなさに戦々恐々としながら行く末を見守る。『ハイウェイ・エイティ』はほとんどが木材で出来ていて、テーブルが複数あり、それを囲むように置いてある椅子にはボロボロの身なりの客が何人か座っていた。客が一斉にドクトルを見、それからキキたちを不審げな顔で見る。それでもずかずかと店に入ったドクトルに反応したのは、これもまた木で出来た、よくわからない褪せた色の紙がたくさん貼り付けてあるカウンターの店主だった。店主は顔をしかめたが、どうやらドクトルとは顔見知りのようだった。
「相変わらずうるさい奴だな」
「まあそう言わないでくれ。一晩泊まらせてもらうよ」
「その後ろの子供たちはなんだい。アンドロイドまでいるじゃないか」
「私の未来の弟子たちだよ。こっちがキキ、こっちはアンジー。この女性アンドロイドはキャシーだ」
ドクトルは手早く全員を紹介し、アンジーだけが恐る恐る頭を下げた。店主は尚もじろじろと三人を眺めていたが、そのうちに「ビートル、部屋に案内しな」と顎を動かす。『ビートル』と呼ばれたのはキキと同い年くらいの少年で、店の隅の椅子で冊子を読んでいた少年は面倒くさそうに立ち上がると、「こっちだよ」と階段を上がっていった。二階には三部屋ほど宿泊出来る部屋があり、そのうちひとつをドクトルとキャシーが、もうひとつをキキとアンジーが使うことになった。
あくまでも面倒くさそうな態度を崩さなかったビートルが部屋を出ると、キキとアンジーは部屋の両端に設置されたベッドにそれぞれ座ってから、顔を見合わせる。とんだ冒険になりそうだ、とお互い何も言わずとも分かっていた。




