第一章
キキは、そのゲームセンターで動く数少ない筐体の一つに座っていた。筐体の前には背もたれのない、座面の丸い椅子が置いてあり、キキはそこに座っていた。丸い椅子はカバーがほとんど剥がれてしまっていて、かろうじて昔は臙脂色だったのだろう、と分かる程度で、回すたびにギシギシと極めて不快な音がしたので、キキはなるべく身じろぎをしないようにしていた。ゲームセンターは元々はしっかりとした店舗だったのだろうが、今は道に面した壁――残存した破片たちを見るに、窓もあったのだろう――はほとんどすべてなくなってしまっていた。そのせいで、筐体に座るキキの顔には寒い風と時折吹き上げられる砂埃が当たっていたが、キキは気にする様子も見せなかった。時刻は午前十時で、十四歳のキキは本来ならば学校にいるべき時間だった。
率直に言って、キキは学校が嫌いだった。学校というシステムが嫌い、というよりは、そこに通っている有象無象を嫌悪していた。皆一様におしゃべりで、(キキに言わせれば)頭も悪く、何より感情的だ。甲高い声で笑ったり、声を荒げて争ったり、キキはそういうことが大嫌いだった。そういうことは総じてリソースの無駄だと思うのは、キキの祖父がよく言う言葉に由来しているのかもしれなかった。
「リソースは有限だよ」
祖父は機械工で、今はこの街でアンドロイドの修理屋を営んでいる。キキに親はおらず、その子細の説明が祖父からなされたことはなかったが、祖父が話したがらないようなことなら、大方自分は捨て子か何かなのだろう、と踏んでいた。それがキキの『人間嫌い』に拍車をかけていた。人間は、大人になってもきっと変わらない。無責任で、くだらない話に花を咲かせるしか能がなく、感情をコントロールする術も結局は身につけない。それは祖父の店に訪れる人間たちを観察していても明白なことだった。自分たちのアンドロイドを粗末に扱う客、延々と無駄話をする客、祖父の仕事ぶりにケチをつける客。キキはそこまで考えて、ピロピロと音を立てる筐体に向き直ると、丸く銀色のコインを筐体に投入した。筐体は、この特殊なコインでしか動かない。コインはたくさんあるわけではないので、キキは遊び終わると必ず筐体を開けてコインを回収していた。ところどころひび割れたスクリーンの下部にはよくわからない物体が表示されていて、それを動かしてスクリーンの上方から現れる、これもまたよくわからない物体を攻撃して倒すゲームだ。キキは一度ゲームをスタートさせると、それから日が暮れるまでその場所を動くことはなかった。
夕方になってしまった、と気づいたのは、辺りが急に騒がしくなったからだ。
「そっちのクラスで宿題は出た?」
「マーフィー先生のクラスは本当に退屈。耐えられない」
「明日の放課後だぞ。場所はグラウンドだ」
意味のない言葉が、キキの耳に次々と飛び込んでくる。集中を途切れさせてしまったキキの前のスクリーンに、『ゲームオーバー』という文字が表示された。キキはちっと舌打ちをして、ふとゲームセンターの外に目をやる。黄ばんだり、泥まみれになったりしている洋服を着込んだ同じくらいの年齢の子供たちが、ゲームセンターの横を集団になって通り過ぎていた。学校が終わったのだ。子供たちの何人かはキキを見て、ひそひそと声を潜めた。学校で、キキの存在は有名だった。何しろまともに出席したことがない上、いつもこのゲームセンターで決まったゲームに何時間も打ち込んでいるからだ。子供たちの間で、キキはよく『あのオタク』と呼ばれていた。キキ自身は、そもそもそんな風によく知りもしない他人を気にかける彼らの神経が分からなかった。キキはため息をついて、隣に置いていた布で出来た古ぼけたショルダーバッグから工具を取り出すと、コインを回収するために筐体を開きにかかった。その背中に、子供たちのひそひそ声はちゃんと届いていた。
「ただいま」
コインを回収したキキは、その後寄り道することもなく、まっすぐ家に帰った。ブリキとトタンを継ぎ接ぎして作られたドアをギィという音を立てて開けると、家の中には部品に差すための油や、溶接を行った後の独特の匂いが漂っていた。キキはその匂いが好きだったし、この家の匂いを嗅ぐたびに安心感を覚えた。家に入るとすぐ右手にカウンターがあり、奥が作業場になっている。二階は生活スペースだ。キキが帰宅すると、祖父は横たわったアンドロイドの片手を取り外していた。祖父のほかにも、依頼主であろう男がそれを観察していた。
「ああ、キキ」
必要以上に大きな音を立てるドアの音を聞いて、祖父は顔を上げて右手を上げた。祖父は真っ白になった髪を顎の辺りで切りそろえ、前髪を真ん中で分けて、その上に溶接の際に使うゴーグルを乗せていた。真っ黒な髪に緑色の目をしたキキとは違い、祖父は灰色の目をしている。その顔にはたくさんの皺が刻まれていて、いつも煤だらけだった。祖父に「ただいま」と返しながらショルダーバッグを手近なところに放り出し、キキはアンドロイドに近寄る。男は初めて見る客ではなかったので、そのアンドロイドには見覚えがあった。キャシーという名前の家政婦アンドロイドだ。
「こんにちは、キャシー」
キキは依頼主の男を無視して、しゃがみこむようにして台の上に横たわるキャシーに挨拶をした。片腕のないキャシーはキキを見ると、無表情だった顔を滑らかに切り替えてにこやかに笑う。
「こんにちは、キキ。久しぶりですね」
「久しぶりだね。何が悪いの?」
「右手の指関節の異常です」
キャシーは合成された音声で答えた。キキが祖父を見ると、祖父は別のテーブルでキャシーの右手を分解していて、ケーブルに電気を流して右手の様子を見ている。指の関節が正しく折れ曲がっていないのは、キキにも見て取れた。大変だね、とキキは続けた。
「大変さ」
そのキキの言葉に答えたのはキャシーではなく、キャシーの持ち主だった。キャシーの持ち主の名前は覚えていない。覚える必要もないと思ったからだ。キキは惰性で持ち主の方を嫌々ながら見ると、持ち主は腕を組んでキキとキャシーを見下ろしながら、まったくアンドロイドってやつは、とひとりごちた。
「人間も病気をしたり怪我をしたりするが、自己治癒能力というものが備わっているだろう。アンドロイドももっと人間らしくあるようには出来ないのかい。不便で仕方がないよ」
持ち主は祖父の背中に声をかけるが、祖父が口を開くより先に、キキがふんと鼻を鳴らした。
「アンドロイドは無駄なおしゃべりをしたりはしないし、無駄な行動を取ることもない。リソースを正しく配分して、正しく利用する。人類の最適解こそがアンドロイドなんだ。わたしはそう思っている」
キキがそう論説するのは今に始まったことではない。祖父はがはは、と大きな笑い声を立て、持ち主は呆れたように肩をすくめた。変な孫を持ったな、と持ち主は祖父に言う。
「自慢の孫さ。機械工としての腕も既に十分だ。機械に対して、素晴らしい理解力を持っている。それに、エンジニアは多少気難しいほうがいいんだ」
祖父はそう言うと、キキにウインクを送って作業に戻った。キキはそれだけで大いに満足して、持ち主の男を自慢げに一瞥すると、何か手伝うよ、と祖父の元に向かった。持ち主の男は再び大きなため息をついて、やれやれとばかりに首を振りながら手近な椅子を引き寄せて座り、頭の後ろで手を組んで作業が終わるのを待つ。これが、キキの日常だった。