ハル 02
4月も終わろうとする頃には、大学の職員としての生活にも、慣れてきた。時々、彼が廊下の向こうから歩いてくるような錯覚にとらわれて苦笑することがあるくらいで、この生活は良好だった。そんなある週末、少し買い物をして帰ると、マンションのドアの前に貴方がいた。会いたくない。慌てて、マンションを出た。
「どうしたのかな。」
就職した会社で何かあったのだろうか。心配だった。けど、会いたくない。会えない。夜の公園のブランコに座って、どれくらいたっただろう。気づくと12時を回っている。
マンションへ戻ると、ドアの前に座り込んで、貴方が眠っていた。観念して、貴方を起こすと、
「ハル、やっと、帰ってきた」
うれしそうに、何の疑いも持たずに笑っている。
「ハル、会いたかった。元気だった?」
そう尋ねる貴方は、少し疲れているように思えた。私は、何も答えずに、ドアのカギを開けて、中へ通した。ダイニングテーブルに座らせて、コーヒーを淹れる。
「いい匂いだね。いつも、そうやって淹れているんだ。」
目をとじて、大きく息を吸い込んでいる。淹れ終わったコーヒーを貴方の前に置き、私も座った。
「何かあったの?」
「何も無いよ。ハルに会いたかっただけ。」
そう言うと、にっこり笑う。
高校から10年、貴方は私の何を見てきたの。一方的に、愛情を降り注ぎ、私を困らせているだけでしょ。涙がにじんで、もう一言でも言ったら泣いてしまいそう。
「ハル。今まで、ごめんね。」
突然、貴方が話し出す。
「ハル、君のお母さん、僕の母さんになったんだよ。」
「えっ」
「高校の入学式、母さんと一緒に行ったんだ。母さんが、突然泣き出した。びっくりしたよ。泣いているところなんか、それまでの10年間見たことなかったから。母さんの見ている先に君がいて、あー、この子だったんだ。母さんが前の旦那さんのところへおいてきた子は。そう、すぐに理解した。だって、君の眼は、母さんとよく似ていたから。そして、君は一人だったね。」
もう、何が何だかわからない。混乱しているけど、母の話なんだ。大切な人。一番大切、だった人。
「母さん、何も言わずに君を見ていた。君は、誰も寄せ付けないオーラを放ってた。母さんが、何か言いかけてやめた。僕は、ハルをお願いって言われたように感じたから、うんって言って母さんに、笑った。」
「その後は、君も知っているだろ。嫌われても、しつこく君のそばに居た。最初は、母さんをとってしまった罪悪感かな。でも、ある時、君は、校庭の片隅に咲いていた花を見て、にっこり笑ってた。あー、ハルはこんな風に笑うんだって思ったら、ハルがいつも笑っていられるように、守ってあげたいと思ったんだよ。」
「大学へ行くときも、こっそり調べて、同じ大学の同じ学部の同じ学科ばかり受験した。」「良かったよ、僕が受けられる大学で。」
重い空気を嫌うように、少し冗談をいいながら、貴方はコーヒーを一口飲んだ。
「ハルに、益々、拒絶されていたけど、何かあったら、僕が守るんだと思っていた。それが、大学で美人と評判になってた君には、すぐに恋人ができて、初めて、自分の気持ちに気付いた。バカだよな。僕は、ハルを愛していた。」
「そう、気づいてしまうと、苦しかった。ハルは、何人も何人も、付き合っていく。それでも、僕には、目を向けてくれない。途中で、あきらめようと思ったよ。何度もね。でも、無理だよ。そうだろ。10年近く君だけを見て来たんだから。」
「そして、2月、君が入院したあの日、携帯が鳴って誰からだろうと見ると、君からの電話で、びっくりしたよ。初めて電話貰ったのが、『来て、お願い』だったんだ。」
「ひどかったよ。君の部屋。これ以上は言わないけど。」
「救急車、呼んで、搬送してもらった。危なかったんだよ。肝がつぶれるってこういうことを言うんだなって震えた。」
「君が目を開けたときは、本当にほっとした。」
「そして思ったんだ。ハルが、生きていてくれれば、それでいい。」
貴方の無償の愛に戸惑ってきたけど、今日、初めて母のことを知らされて、そう言うことだったのかと理解すると、残酷な運命だなって思った。母も、貴方も、そして私も。
「でも、3月も4月も、ハルに会えない日が続いて、自分がつらかった。」
「僕は、ハルがいないとダメなんだ。そばに居るだけでいいから。ハルを見ていたい。」
私が、貴方を愛していると気づいて、何年がたっているのだろう。ぼんやりと、貴方のコーヒーカップを持つ手を眺めていた。
長い沈黙の後、貴方が言った。
「時々、こうやって会ってくれないか?」
どうして、そんなに私を困らせるの。心が悲鳴を上げた。
「貴方を好きよ。きっと、愛してる。」
一瞬、貴方が私を見つめた。だから、目を伏せて話を続けた。
「でも、ダメなのよ。一番大切なものは、手に入れてはいけないの。」
「知っているわ。貴方の愛情は本物よ。私が一番欲しかった本物の愛情よ。だから、怖い。きっと、貴方の手を取ってしまったら、貴方がいなくなる日を考えて生きていくようになる。」
「だったら、どこかで幸せになっている貴方を想像するほうがましよ。」
「これまでも、一人だったけど。これからも、一人で生きていくの。それが、私の生き方よ。貴方が、私を10年見てきたって言うけど、私はこの生き方を20年以上続けてきたのよ。お願い。もう、ここへは来ないで。貴方が、また来るようなことがあったら、私、大学もやめて、この街を出ていくわ。きっと。」
「そう、 させないで。」
貴方が天を仰ぐ。唇をかんで、じっと黙っている。何か言いたそうな唇は、ずっと動かないままだった。だから、最後にわがままを言った。
「私が、眠ってしまうまで、そばに居て。」
ふっと、貴方の手が腕から離れ、思わずぎゅっと目をつぶる。寝ったふりをしていただけ。貴方の顔が私に近づいて、様子を見てからそっと部屋を出ていった。
しばらくすると玄関のドアのほうでゴトンと音がした。鍵をドアポストに入れてくれたのね。きっと、あなたはドアの前で慌てている。今の音で私が目を覚ましてしまったのではと帰れずに、それでも、戻ってくることもできずに、途方に暮れているのだろう。
「ばかね。」
くすっと、笑ったつもりだったのに、涙があふれた。
廊下で、靴音がひびいて、貴方が帰っていく。
ベッドの中で震えながら、小さくなる靴音を、耳を澄まして、じっと聞いていたら、
もう一人の私が、叫んだ。
「バカなのは、ハル、貴女でしょ!」
「後悔するわよ!」
玄関のドアを乱暴に開けて、裸足のまま走って、貴方に抱き着いた。
貴方が、ゆっくりと腕を回して、抱きしめてくれた。
「ハル。」
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涼音色 ~言ノ葉 音ノ葉~ 第11回 ハル と検索してください。
声優 岡部涼音が朗読しています。
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