ハル 01
ふっと、貴方の手が腕から離れ、思わずぎゅっと目をつぶる。
寝るまでそばに居てと無理を言ってずっと待っていてくれたから、寝ったふりをしていただけ。貴方の顔が私に近づいて、様子を見てからそっと部屋を出ていった。
しばらくすると玄関のドアのほうでゴトンと音がした。鍵をドアポストに入れてくれたのね。きっと、あなたはドアの前で慌てている。今の音で私が目を覚ましてしまったのではと帰れずに、それでも、戻ってくることもできずに、途方に暮れているのだろう。
「ばかね。」
くすっと、笑ったつもりだったのに、涙があふれた。
小さい時から、一番大切なものは無くなってしまうと諦めていた。母が、3歳の時、父と離婚して出ていった。前の日、父にも、祖母にも、泣いてすがって、私のことを連れていきたいと言っても、許してはもらえなかった母。最後にあと一晩と願って、私を何時ものように抱いて寝てくれた母は、朝起きると、もう家には居なかった。父や祖母に尋ねても、何も言ってはくれない。
「お母ちゃんは、もうこの家にはいないんだよ。」
と、泣いている私を抱きしめてくれた祖父でさえ、小学校に入る年に亡くなってしまった。
中学校に入ってすぐ、新しい母がやってきて弟たちが生まれた。父は弟たちの父になって、祖母が死んでしまうと、それまでは、かすかな繫がりだった祖母と父と言う家族でさえも、私は、失っていたのだ。そして、そのころには、すべての物に執着しない人間になっていた。それが、自分の心を守る手段になっていたから。
高校でも、友人を作らなかった。周りの同級生からは「変人」と影でよばれていたけど、それでよかった。ただ、一人だけ、話しかけてくる男の子がいて、とても戸惑った。大学へ行けばもう会わないと思っていたのに、同じ大学の同じ学部。同じ学科。その後ゼミも一緒。ずっと続く、貴方のボディーブローのようなやさしさが、私を苦しめた。初めてと言っていいほどの、愛情のシャワー。
「何でなの。」
優しくて、暖かくて、その心地よさに縋り付いて(すがりついて)しまいそうな自分が怖かった。
「近づいてはいけない」
この言葉を呪文のように唱えた。でも、その瞬間から、きっと、私の執着は始まったのだ。ある日、授業が終わって、ゼミへ向かう廊下で、他の女子学生と話す貴方を見つけた。それだけで心がざわついて、逃げ出していた。気づいた貴方が追いかけてきて、
「大丈夫?」
と、聞いてくれても、
「何が?少しやりたいことがあって、急いでいただけよ」
そして、自分の心が傷つくことを恐れた私は、貴方を遠ざけるために、男を作った。貴方は、寂しそうに離れていって、ほっとしたわ。でも、当然、そんな男とは、長続きはしない。
「君は、どこを見ているのさ?」
「俺は、恋人が欲しいんだよ。」
「だれも、君のそばには居られないんだね。」
そうして、男との関係は、終わる。それでも、私は傷ついたりしない。だって、一番大切な物じゃないから。そんなことを何度繰り返しただろう。
大学院卒業後は、大学へ残ると決まったころ、付き合っていた男と最悪な別れ方をした。
「君は、俺を愛しているのか?」
あまりに唐突に聞かれて、私は、嘘をつけなかった。嘘をつけばよかったのに。
「愛していないわ。きっと。私は、誰も愛せないのよ。」
そう、言い終わらないうちに、頬をたたかれた。何度か頬をたたかれたところまでは覚えていたけど、後は記憶がなかった。気づいた時には、病院のベッドの上。付き添ってくれたのは、貴方だった。
「わたし、どうしちゃったの。」
「まあ、良いよ。今日は、何も考えなくて。もう少し眠れば。」
震える声で、そう言って、そっと手を握ってくれた。温かい。冷たかった私の手がじんわりと温まっていく。知っていた。この温もりを。小さい頃の母の手と同じ。涙をこらえてたら、貴方は苦しいのだと勘違いして、手を放し看護師さんを呼びに行ってしまった。
「待って、待ってよ。違うのよ。うれしかったの…」
私が初めて、貴方に対して本当のことを言った「言葉」は宙をさまよった。
「そうね。こんなものよ。」
いつもの自分に戻るまでに、時間はかからなかった。看護師さんが、
「別に異常はないですね。ゆっくり、休んでください。」
そう言って部屋を出ていった頃には、貴方に
「ありがとう。もう大丈夫よ。あとは、看護師さんが見てくれるから、帰っていいわ」
冷たく、突き放していた。
- 貴方を、愛してはいけない。-
退院して、元の生活が戻ってきた。大学の構内は、桜が満開の季節を迎えた。希望に満ち溢れた新入生たちで、はなやぐ季節。私は、大学の職員として、歩き出していた。
彼? 彼はいない。入院中も拒絶して、会わないまま4月に入った。彼は、どこかの企業の研究所へ就職だったから、もう会うこともない。これからは、穏やかに生活できる。