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こうしてボクは今に至る  作者: 朱本来未
【5】『教室は逃げ出した』
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◆天野の現実

改札を抜けて、すぐに母と連絡をとって10分ほど会話した後、天野を伴って帰宅した。天野とは十数年来の付き合いだが、彼女がこの家を訪れるのは初めてだった。それに天野と知り合って長いといっても、顔を合わせるのは年に十数日程度。母とともに藤岬の祖父母の家を訪れた時だけなのだ。


今は夏草が繁茂しているだけになってしまっている祖父母の家の隣にある空地、そこには春先まで天野の実家があった。しかし、今はもう跡形も残されていない。今日、それを実際に目の当たりにして思い知らされた。脳裏にちらつく悪夢を振り払うように首をふって天野を家の中へと招き入れた。


リビングのソファに腰を下ろす天野に向かって声をかける。


「着替えとかどうするんだ」


「アスタの服貸してくれないか。大は小を兼ねるって言うし、着れなくはないだろ」


「お前はおかしい。計画的に動いてるのか無計画に突っ走ってるだけなのか、わけわかんねーな」


彼女は何を言ってるんだと言いたげに首を傾げると、一拍の間を置いて口を開いた。


「始めからアスタの服借りるつもりだったぞ。着替えを持って炎天下を歩きまわるなんて体力的に無理だしな」


計画的に動いていたと言いたいのだろうが、発想自体がズレているとしか思えなかった。


「まぁ、それはそれでいいけどな。そろそろその喋り方やめたらどうだ。記憶喪失を装ってるのバレてんだから、今更無意味だろ。私からしたら違和感しかないんだが」


考え込むように彼女は口を閉ざして頭に手を当てていたが、やがて徐ろに言った。


「そうしたいのはやまやまなんだが、どうにもそぐわなくてな。あの日以降、この話し方じゃないと落ち着かないんだよ。親しい人間には記憶喪失になって人格が変わっちまったと勘違いされちゃってるけどな」


演技してるわけじゃないのか?と不思議に思った。それがはっきりと顔に出てしまっていたのだろう、天野は補足の説明を加える。


「前もって言っておくが、話すのに時間がかかることを了承して欲しい」


「時間は充分あるんだし、別に構わないよ」


即座にそう応じると彼女は目線を左下へと向け、顎に手を当ててじっと考え込んでいた。5分近い長考の末に、彼女はようやく口を開いた。


「私が一酸化炭素中毒で入院していたことは、アスタも知ってるよな」


話の途中で水を差さぬように、頷くのみにとどめた。それを確認した彼女はゆっくりと二の句を紡ぐ。


「その中毒症状を起こした際に脳にダメージを負ってな。中毒性パーキンソニズムと言うらしいのだが」


と、そこで言葉を切って彼女は腕を上げる。その腕は小刻みに震えていた。


「症状はいろいろあるんだが、これもそのひとつだ」


と言いながら震える手で、彼女は変化に乏しい自分の頬を摘んだ。


「これもそうだな、仮面様顔貌と呼ぶらしい」


顔から手を離して、またしても無意味に間を置く。


「時間がかかって申し訳ないな、わざとではないんだ。説明しにくいが、もどかしいことに思考は巡っても身体は言うことを聞いてくれないのだ。その所為で痴呆症か記憶喪失だと思われてしまってるがな」


「お前が無意味な行動で間を埋めてたのは、その為か? 癖を装って指を噛んだりとかさ」


こくりと頷き、彼女はそれを肯定した。


「とにかくそういう症状のせいか、元の人格と肉体が乖離してしまったのか噛み合わなくなってしまってな。今のこういう立ち振舞になってしまってるんだ、申し訳ないが我慢してくれ」


話を聞き終えた私は「あぁ」と短く応じて、もう充分だと手で示してその話題を切り上げさせた。気分を切り替えるため、自分から新たな話題として「晩御飯買ってくるが、何か食べたいものはあるか?」と切り出した。


天野とのゆっくりとしたやり取りを終えて、夕飯は焼き魚となった。彼女はついてくると言ってくれたが、先にお風呂でも済ませておいてくれと着替えを渡して私はひとりで買い物に出た。


無理やり理由をつけて彼女を家に残してきたが、単にひとりになりたかったのだ。明日の分までの食料を買い込み、両手にビニール袋を引っさげて家路を必要以上に時間をかけて歩く。家とスーパーを往復する間中、私は彼女の話してくれた内容について考えていた。


さっきの話が事実なのだろうかと、どうしても疑ってしまう。たぶん、彼女の話に嘘はないのだと思う。でも、簡単には受け入れることが出来なかった。


帰宅し、玄関の扉を開けると天野が上り框に腰掛けて待っていた。お風呂は済ませたようで、貸した大きめのTシャツに袖を通していた。天野は上目遣いをして「おかえり」と言い、私は迷ったものの「ただいま」と応じた。彼女は立ち上がり、私に向かって手を差し出してきた。


意図を察し、手にしていた軽い方のビニール袋を天野へと渡す。一瞬、彼女はそれを落としそうになったが両手で持つことでどうにか堪えていた。立ったまま雑に靴を脱ぎ捨て、重そうにビニール袋を持つ天野を置いて私はひとりリビングへと向かった。

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