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夢幻詩篇  作者: かに道楽
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紡ぐ者

 紡ぐ者


 果たして、小さなこの島国に人が移り住んであちこちに国を創り、その小さな領土を手に入れるために愚かにも争いを繰り返し、約千年が経った頃の話だっただろうか。

 神々はとうに地上を去り、残された人は肉の母より生まれ出でて、まるで自らが何者であるかを探るように生きては死んでいく。それは親に見放された子が、迷い迷って鳴き声を上げるかのよう。

 それでも人はその在り方を互いに認め、そうして集合体となっていった。

 神はそれを良しとしたのか。

 神ならぬ者達にはそれは判らないが。

 同じく神に見放された、人よりも神秘に近き者達も、後にして思えば同じように足掻いていたのだろうと。

 無論、その時は誰とて気付くこともないことではあった。

 ――人里、都と呼んでも差し支えないほどに栄えた地から十里ほど。

 鬱蒼と木々が生い茂る山の中に、女は立っていた。

 時刻は夜。女の濡れたような長い黒髪は月光を反射して艶やかに煌めき、少女とも女ともつかぬ、他に比類なき色香を放つその身体からは力が抜け、全てを風に任せるままにぼうっと立ち尽くしていた。

 絹で縫われた真っ白い水干を纏うその姿は、とてもではないが庶民とは思えぬ美しさと厳かさがあり、それこそ着飾ればどこぞの貴族と間違われ、求婚の嵐にあうことに間違いはないだろう。

 憂いを帯びた瞳は月を見上げ。

 月もまた、彼女こそが我が伴侶に相応しきと、見返しているかのよう。

 それはあくまでも、彼女のその姿だけを見ればの話ではあるが。

 そも、人里からは離れた山の中に、こんな時間に女がいることがおかしいのだ。

 捨てられた子か、それとも悪漢に攫われ今まさに危機とあるか。

 或いは、人で無きものか。

 深い深い山の中。

 木々に囲まれ、足元には草木がそれこそ足の踏み場もないほどに咲き乱れている。

 そして、花の上にもまた華。

 倒れた幾人もの人の死骸と、それらから咲いた真っ赤な血の華が、夜の山を美しい鮮紅に彩っていた。

 死体の数は一つ、二つ、三つ。

 そう数えていては埒が明かない。まるで死で道でも作ったように、山中から入り口まで点々と伸びているのだから。

 血と肉の香りが混ざった、濃密な死の匂い。

 その中心に立つ女の両手は真っ赤に濡れており。

 それを薄桃色の可憐な唇に運んで、真っ赤な舌で舐めては笑うのだ。

 例えそれが傍目には信じられなくとも、その姿を見れば誰もが確信する。

 この惨劇を生み出した正体こそがこの女。当然人ではなく、人の形をした、その範疇を踏み越えた何かであると。

 神々の忘れ形見。この大地に深く、呪いのように染み込み続けた誰かの恨みや痛み。

 それらが形となって害をなす者。

 即ち妖であると。

「――随分とまぁ、悪質な輩もあったものだ」

 声がした。

 女は動揺することはない。

 元よりここは彼女の縄張り。糸は充分に張り巡らせ、そこに踏み入れた者は虫の一匹すら逃さず察知することができる。

 そのまま危害を加えることもできたのだが、それをしなかった理由としては。

 半分が退屈しのぎになるであろう期待。

 もう半分が、声の主がそれを許さぬほどの技量の持ち主であったというところだろうか。

 声は低く、男のものだ。

 風が吹いて女の髪が揺れれば、同時に男の着ている式服がはためく音が響く。

「あら。こんな夜更けにこのような山の中に訪れるなんて、きっとさぞ徳の高いお坊様とお見受けしますわ」

 振り返れば木々の間、人の死体を鬱陶しそうに蹴り退かしながらこちらに歩いてくる人物が一人。

 式服を纏った壮年の男は間違っても僧などではない。

 見れば男なら――女でも――たちまちに虜になってしまいそうな花のような笑顔を浮かべて、女は声を掛けた。

「見て判らぬか。こんな格好をして、錫杖も持たぬ坊主が何処にいる。それとも、人ならざる化物は人間の格好になど関心はないか?」

「いいえ。とても、とても関心がありますわ。人の作る服は綺麗ですもの」

「そうか。ならば貴様を仕留めた際には、死に装束でも送るとしよう」

「ふふっ。それは楽しみ」

 目を細めて笑う。

 男は険しい顔のまま、女を睨みつけていた。

「それから、その演技染みた口調はいらんぞ。この状況で貴様に化かされるのは、でっぷりと太った都の貴族並の阿呆ぐらいだろうからな」

「――あら」

 意外な物言いに、女は興味を引かれた。

「貴方はその貴族に仕えるものではなくて? ここの倒れている男達は皆」

 ざっと視線で死体を撫でる。

 両手で指折り、特に意味もなく殺した者の数を数えて見せる。

 それは女なりの挑発であったが、男には全くもって通じた様子はない。

「主のためにと、命を賭してこの山に踏み入れたのよ。素敵なお侍様ね。名刀名槍、単なる業物から果ては妖殺しの逸品まで、余程わたしを殺したかったのね」

「そうだろうよ。貴様、自分が何人喰ったか覚えておらぬのか?」

「ええ。まったく。食事の数を数える慣習はないものだから。貴方達人にはそれがあって?」

「そんなだから殺されるのだ。怪異が悪とは言わぬ。人がそれに殺されるのもまた自然の摂理の一つ。術を修め、より世界を知ればそれを理解するものだが……お前は派手にやり過ぎた」

「いいえ、違うわ。わたしは全く、そんなことはない。人が増えればどうせ人同士で喰いあうもの。貴方達はそういうものでしょう? わたしが喰う数なんて微々たるもの。一度争いが起こればものの数日で、わたしが食べた数なんて問題にならないぐらいの人が死ぬわ」

「真理だが、認められぬ。判るだろう? この世がどうあれ、それが定められた摂理であれ、人々の世はそれを望まぬ」

「それは随分と、身勝手話ね」

 女は屈み、足元にある首を一つ持ち上げた。

 喉元からすっぱりと切断されたそれは、いの一番に女に向かってきた勇敢な武者のそれだ。だからこそ、死体を辱めることをよしとせずに一息に首を立ち切ってやった。

「そう。身勝手であろう。人の理と言うやつは」

「そうね。かつて神々が住まい、神秘が息吹くこの世界に置いて貴方達は異物。にも関わらず、そうして我が物顔で大地を踏み荒らし、森を切り開き、無尽蔵に増えるのだから」

「そういう意味では、俺達も虫と変わらぬな。もっともそれは、こちらから見たお前達妖怪もそうだが。さて、美しき女人と話すのは嫌いではないが、このままでは夜が明ける。人の理によって貴様を討ちに来た俺を、お前は妖の理にて討つがいい」

「妖の理? ……そんなものはないわ。わたし達はただ気の向くまま、心に従うだけ。理が必要なほど弱いものではないもの。でもね」

 女の瞳が細く、鋭く変わる。

 手に持っていた人の首が、いつの間にかそこを離れて地面に落ちていた。

 強い風が吹き、ざざざと草木を揺らす。

 羽を休める鳥達が、夜であろうというのに、先も判らぬはずの夜空へと逃げていく。

「貴方と戦い、殺すのは楽しそう。そしてその肉を食べるのは、この上ないご馳走でしょう」

「それはよかった」

 男の気配が消えた。

 だが、それは一瞬のこと。

 距離を取ったのだが女が気付いた時には、その姿は山の中に生える一本の大きな木の枝の上にあった。

 式服がはためく。

 その懐から取り出したるは、一枚の符。調伏ではない、魔物を殺し滅するための力が込められたそれから放たれたのは、不可視の圧力。

 まるで空気が重量を持ったかのように、見えない何かに全身を押し潰されるような重みを受けて、女の身体が俯せに地面に伏せった。

 見れば、その影響を受けているのは女だけだった。木も草も、人の死体も、先程までと同じように平然とそこに在り続けている。

「八槍!」

 男が叫び、女の周りに紫色の輝きを放つ、槍が八本、その切っ先を向けて闇を切り裂いて現れた。

 一切の情け容赦なく、それは女の目を貫き、手足を縫い止め、心臓を抉る。

 そこに込められた破魔の気が女の身体を内から焼き焦がした。

「……凄い」

 素直に女の口から感嘆の声が漏れた。

 これはこのままやられっぱなしではつまらない。これほどの相手に対して失礼にすら当たるであろう。いや。

 こんな最高の享楽を、果たして五十年に一度会えるか会えないかのこの上なき熱を逃しては、これから先百年は後悔することになるだろう。

 そうならないために、女は気合いを入れなおす。思えば随分と甘く見たものだ。初撃を敢えて受けてやろうなどと、滅多なことは考えるものではない。

 ばちんと、何かが弾けるような音がした。

 全身から槍が吹き飛び、女に掛けられていた圧もまた消えた。

 男が口を固く結ぶ。

 女の口はその逆に、愉快そうに歪む。

「化物め」

「ええ、ええ。化物よ。人を喰らうもの、決して人には斃せぬ化生。貴方は滅せるかしら?」

 女の姿はいつの間にか、男の目の前にあった。

 ぐっと掌に力を込めて、男の方に触れる。

 たったそれだけで、枝ごと木が撓り、そこに掛けられた力に耐えきれずに、中央から真っ二つに折れて倒れた。

 べきべきと木が破壊される乾いた音と共に、女は更なる力を込めようとするが、それは無駄だった。

 いつの間にか男がいない。女が手を当てていたのは、掌ほどの大きさの、藁でできた人形だった。

「へぇ」

 上空から背中に向けて、衝撃が走る。

 女の身体はそのまま地面に叩きつけられ、倒れた木と共に周辺に風圧を撒き散らす。

 そこに更に加えられる打撃、殴打。

 青白い何かが二つ、女の背に乗るようにしてその拳で攻撃を加え続けていた。

「式鬼」

 そう呼ばれた二匹の動きが止まる。

 青白い、子供ほどの大きさのそれは額に二本の角を持つ、紛れもなく鬼と呼ばれる妖の一種だった。

 岩ぐらいなら容易く握り潰す鬼が、急に何かに拘束されたかのように、拳を振りかぶった態勢のまま動きを止めている。

 その力に対抗しようとしているのか小さな鬼達はもがくが、全く揺るぐことはない。

 女は鬼を無視して、少し離れたところで符を構える男へと視線を向けていた。

「鬼を操るとはね。随分とまぁ、人の術にも驚かせられるわ」

「それをあっさりと止めておいて、全く褒められた気がせんな」

「それはそうよ。この子達の力は貴方の術に囚われて本来の五分、六分程度の力しか出せていないわ。とは言っても」

 女の手が一匹の鬼の頭部を掴み、そのまま力任せに握り潰した。

「例え十全だとしても、この程度の小鬼では退屈しのぎにもならないわ」

 もう一匹も同じように、今度は胴体を両手で持って、真ん中から二つに分かれるように圧縮して見せた。

「やれやれ。ようやく少しは正体を見せてくれたか。もう少し、貴様を調べさせてもらうぞ」

 ふわふわと、辺りに何かが漂う。

 典雅に両羽を揺らして飛ぶは、光でできた大量の蝶。

 それらは餌に群がる羽虫の如く、本来蝶が持つ美しさとは真逆の不気味さで、女を四方八方から包囲する。

「あら雅ね」

「それで死ねるなら本望だろう?」

 蝶が女に群がり、触れた傍から爆ぜていく。

 肉体だけではなくその魂すらも削り殺す、陰陽の術によって生み出された蝶は、女の肢体を喰らうように纏わりつこうと羽をはためかせた。

 例え人知を超えた膂力でそれを弾こうも、触れた傍から痛手を負わされては話にならない。

 一つ一つはたかが知れたものだが、既に包囲するその数は百をとうに超えた。

 それら全てに触れられては――果たしてどうなるものか、女自身にも興味はあったが。

「でも、それではつまらないものね」

 囁きを最後に蝶の動きが止まる。

 羽を動かすこともなく、先程の鬼達と同じように、一切が空中で動きを制止していた。

「やはり、蜘蛛か」

「ここはわたしの領域。わたしの巣。糸はもう充分に張り巡らせている。絡め捕るも自由にさせるも思うがままよ」

 くいと指を動かす。

 たったそれだけで百を超える蝶が一斉に裂けて消えた。

「実体のあるなしなど問題ではない。妖の蜘蛛の糸からは逃れられないわ。貴方も」

 いつの間にか男の身体にも、目を凝らさなければ見えないほどに細く、白い糸が絡みついている。

 いや、いつの間にかではない。

 この山に足を踏み入れたときに既に、蜘蛛の糸は男を捉えていたのだ。例え気配を消そうと、足音をなくそうと、そこ身体に触れた糸は振動で女に侵入を知らせ、絡め捕る。

「いや、実に」

 だが、男も一筋縄ではいかない。

 服の中で一枚の符が赤く光り、発火する。

 それは男の衣服を焦がすことなく奔り、蜘蛛糸を焼き捨てていく。

 自由になった男はその符を構え、女に向けた。

 放たれたるは赤々とした炎。全てを飲み込む勢いの紅が、女に襲い掛かる。

 木々と、死体の幾つかと、ひっそりと咲いていた健気な草花と。

 それから山で暮らしていた、恐らく時間的に眠りについていたであろう命を無数に奪い去って、しばらくは思うがままに荒れ狂った後に炎は消えた。

 例え符から放たれた火が消えようと、森は燃え続ける。

 炎に巻かれる山の中に、女の姿はない。

 果たしてあの程度で滅せるものかと、男は思案する。

「持って来た符の中では最大威力をぶちかましたが。いや失敗だった。あれほどの大妖怪が相手ならば、もっと強力なものを準備しておくべきだったな」

 言い終えるのと同時に、地面から大量の土が撒き上げられる。

 上から下に突き上げるように伸ばされた糸が大量の砂や土を乗せて、それら燃えている木々に上空から覆い被せた。

 そうして残った火には女が腕を振るい、そこから伸びた不可視の糸が薪となる木を粉々に切り裂いて延焼を止める。

 呆然と男が見ること、呼吸十回分。

 燃えていた山は、未だ煙こそ上がっているものの、すっかり元の静寂を取り戻しつつあった。

「参ったな」

 そして何事もなかったかのように。

 いや、厳密には少しばかり違った。

 女は炎を避けなかった。その結果として彼女の衣服は燃えて、灰となって消えた。

 一糸纏わぬ姿で、女はそこに立っていた。

 長い黒髪が風に揺れ、まるで見てはならぬとその肢体を隠す。それがより官能的だが、同時に触れてはならぬ神秘すらも感じさせる。

 白い肌、スラリと伸びた細い手足。

 そこには先程までのやり取りによる傷も火傷も、存在していない。

 つまるところ、あれだけやって見せたところで女の身体には傷一つ与えることができなかったと言うわけだ。

「これは、俺の負けだな」

「どうして?」

「加減に加減を重ねられ、油断しているならば仕留められると思ったが見ての通り。これを敗北と言わずなんという」

「――ああ。そんなこと。人の身で、たかが数十年生きただけでしょう? むしろ充分に楽しませてもらったと思っているわ」

 女の視線が一度、東を向く。

 いつの間にか空は、朝焼けに染まっていた。

「夜も明けたし、今日はここまでにしましょう」

「見逃すのか?」

「ええ。殺して食べるよりも、そっちの方が楽しめそうだもの。もっと強い術を持っているのでしょう? もっと卑陋な手段があるでしょう? その全てを用いなさい。そうでなければ、幼き人が妖を殺せるはずがないのだから」

「約束はできん」

「どうして?」

「人だからだ」

 女は首を傾げた。

 それは少女のように幼く無邪気な仕草。

「まあいいわ。でも、どちらにせよまた殺しに来てくれるでしょう?」

「そうなるだろうな。貴様がここで人を喰らう限り」

「では、結論は次回に送りましょう」

 女が振り返る。

 髪を揺らしてその身体は森の中へと消えていく。

 その背に、男は一度だけ声を掛けた。

「名は。貴様の名は何という?」

「名など意味はないし、呼ばれなくなって久しいものだけど。どうしても呼びたいのなら八織と、そう呼べばいいわ」

「ほう。化生にしては立派な名だな。俺の名は明智。明智の清鳴。都では少しは名の知れた陰陽師だ」

「……覚えておくわ」

 そう言い残して八織は歩みを再開し、やがては山の奥へと溶け込むように消えていった。


 ▽


 八織はもう随分と長い時間を生きてはいるが。

 どうにも厄介なものがある。それは外からの敵ではなく、うちにあるもの。

 それ故に、八織の圧倒的な力を持ってすら滅ぼせぬ、封じられる病巣だ。

「本当に、心というものは厄介ね」

 動きを止めることはできる。

 事実、八織はここ十数年はそうして生きてきた。

 山に籠り、時折現れた獲物を喰らい、気が向けば玩び。そこに大きな感情の揺れはない。ただ無意識にも近い状態で、人を嬲りその姿を嘲笑うだけだ。

 それは妖の本能、蜘蛛として生きる上での必要な栄養だったのかも知れない。本当のところは判らないが。

 一度揺れ動いてしまえばその振り子はなかなか止まらない。八織の中でもっともっとと騒ぎ立てるのだ。

 それは腹の虫のようなもので、最初は鳴り響くが動かなければやがて大人しくなる。そうであることに慣れるまでの辛抱と、ただそれだけの話のはずなのだが。

「我慢する理由もないわ」

 妖は機構ではない。むしろ人が集団となり、組織を作って生きることで個を捨てて巨大な生き物のように、それぞれの役割だけを果たすようになっているのだとしたら。

 妖怪の持つ自由さ、感情を我慢することができぬ幼稚さは、その証明でもあった。先日の清鳴の言葉を借りるのならば、妖の理、とでも言っておこうか。

 あれから時間は流れ数ヶ月。派手にやってしまったものだから、清鳴どころか人は滅多にこの山には近づかない。

 既に季節は夏を過ぎ秋に入る。時期に葉も枯れ、寒い冬が来るだろう。八織にはそれほど関係ないことだが、肌を撫でる風も随分と冷たくなってきた。

 その間に訪れた客人と言えば、捨てられた老人が数人と、命知らずの盗賊の類。

 前者は放っておいても死ぬ。骨と皮の身体を喰う気も起きず、さりとて助ける理由もないので無視していたら、案の定死んで山の一部となった。

 後者で遊んだときはなかなか楽しかった。酒に酔っていたのか鈍らの刀を振り回し、逃げている女を追いまわしていたものだから混ぜてもらった。

 男は全て手足を斬り落とし、動けないようにしてから女の前に投げ捨てた。そうして鈍らを与え、殺して喰らえば山から生かして出そうと提案した。

 女は震えながら人を喰うなどできんと言ったから女も殺して食った。ちょうど、大量の侍の死体を消費し終わった頃のことだったので、空いた腹にはいい食事だった。

 そんな、少しばかり楽しかった思い出に浸っても、心の虚無は満たされぬ。やはりあれは楽しかったのだ。陰陽師との戦いもそうだが、前座の侍の相手もそれなりに愉快ではあった。

 八織は唐突に、座っていた大きな岩から立ち上がる。

 女の身体が宙に投げ出されて、その姿勢のまま草の上に足が降りた。

「都にでも行ってみましょう」

 別に清鳴に会うわけではない。

 ただ、そう。

 清鳴と出会ったことで人に対する関心が増えているのもまた事実。

 妖は自由なものだ。思い立ったら行動するのもいいだろう。

 もし都に、清鳴と同等かそれを超える陰陽師がいたとして、それに討たれるのならばそれもまた楽しかろう。

 愚かにも人里に出でて人の手によって討たれる。

 その末路こそが、妖の理にも相応しいではないか。


 ▽


 そうなれば行動は早かった。

 まずは山を降りて、適当な集落を目指す。

 衣服は先日の女から調達したものでいいだろう。幸いにして背格好が似ていたため違和感なく着物を纏うことに成功した。

 集落にて人に道を聞き、特に急ぎもせず、しかして人のそれを遥かに超える健脚を持ってすれば数日は掛かる道程は一日足らずに短縮される。

 斯くして八織は今、田畑を抜けて都の入り口、その門の前に立っていた。

「来てしまえば意外と、あっさりとしたものね」

 都というだけあって、入り口の門から既に多くの人が出入りを繰り返している。

 荷物を載せた荷車を引く男達。優雅な仕草で娘の手を引いて、買い物にでも行くのだろう、歩を進める妙齢の女性。

 刀を差した侍に、簡素な衣服の労働者。

 そこには多くの人の生活の気配と、生命の営みの息吹があった。

 そして八織の横を通り過ぎる者は、男も女も、その美貌に見惚れるかのように一度は顔を覗き込んでいくのだった。

「思えば、こんな場所に憧れたこともあったわね」

 呟きは人の喧騒に掻き消され、誰の耳にも入らなかった。

 門を潜れば中央大通りが目の前に広がり、そこでは商売人達が稼ぎを出そうと必死に声を上げている。

「お嬢さん。都は初めてか? よかったら案内するぜ?」

「お気持ちだけいただいておきましょう。待ち合わせの約束で、その場所はもう判っておりますので」

 やんわりと断られて、そう横合いから声を掛けてきた男は肩を落として八織の前から去っていった。

 この時、八織は彼が二度声を掛けて来たら暗がりで殺してしまおうと、そんな物騒なことを思っていたなどとは想像もできないことだろう。

 清鳴に会えるとしたらそれが一番だが、こうして秋風を受けながら街を歩くのもいいものだ。久方ぶりの人との話題は、八織の中に忘れかけていたものを想起させていた。

 ――こうして、人の中にいたころもあったものだ。

 人波の中を器用に、するすると間を縫うように移動する。宛などはない。人間を見ているだけでも存外、面白い。

 ここ数年は単なる食事だとばかり思っていた人間だが、こうして穏やかな場所で見ればまぁ、随分と色々な表情を見せるものだ。

 親に物をねだる子が、拒否されて不貞腐れている。

 仲睦まじい男女が、見ている方が恥ずかしくなるような仕草でお互いの距離を測りながら隣り合って歩いている。

 年老いた母の手を引く、精悍な顔立ちの青年がいる。

 どれも山の中で八織に喰われる人間が浮かべる表情ではない。

 彼等の自然な表情は、不思議と八織にとっても好ましかった。

「あら」

 そう、思わず声を上げていた。

 荷車の上に乗って、下に荷物を降ろしていた男がぐらりと態勢を崩した。

 男自体はすぐに踏ん張って事なきを得たものの、彼の手にあった大人が両手で抱えるほどの重そうな木箱がするりと手を滑り落ちて地面へと落下していく。

 そこに母親におねだりを拒否されて、ぷいと一人駆けだした少女が偶然通りかかる。

 八織の次に、誰かが声を発した。

「危ない」と、その一言は少女を気付かせることには成功したものの、当然荷物を押し留めるほどの力はない。

 哀れ、少女は荷物の下敷きに。まぁ、運がよければ命は助かるだろう。精々、重傷を負うだけだ。

 だというのに何故か、不思議なことだ。

 実際のところ、単なる気まぐれに過ぎないのだが。

 八織は少女を助けていた。

 荷物が空中で制止する。目には見えないほど細い、しかし剛性を持った糸がそれを受け止めた。

 その間に八織は、少女の身体を抱き上げる。

 人間には追いつけぬ速度だが、それを見ている誰もが少女の安否ばかりを気に掛けて八織には気付かない。

 ずんと、荷物が重々しい音を立てて地面に落ちた。

 これを身体で受ければ、まだ十にも満たないこの子は骨を砕かれ死んでいたことだろう。

 砂埃が上がり、少女の母が悲鳴を上げるなか、当の本人は呆然と口を開けて、すぐ傍にある八織の顔を見つめていた。

「怪我はない?」

 こくりと頷く。

 その様子を見ていた観衆達は、少女が無事ならばそれ以上何も言うこともないと、各々の仕事に戻って行く。

 荷物を落とした男だけが、少し遅れてバツが悪そうに謝罪を申し入れてきた。

「わたしもこの子も無事ですし、お気になさらずに。でも、次からはもう少し周りに気を配ってお仕事をしていただければ、わたし達も安心できますわ」

 そう微笑まれて、男は夢見心地で過剰なまでに慎重に仕事に戻って行った。

 ぱたぱたと草履で地面を駆ける音が聞こえ、目の前に妙齢の女性が息を切らせて立っている。

 質の良い着物を纏った彼女は今抱えている少女によく似た整った目鼻立ちをして、顔には小さな皺を刻みながらも品の良い雰囲気が滲み出ている。

「ご、ご迷惑をおかけしました! わたしがこの子から目を離したばっかりに」

「いいえ。お互い無事だったのですから、良しとしましょう」

 少女の身体を地面に下ろす。

 ここにきてようやく少女は、自分が助けられた自覚を得たようだった。

「貴女も、あまりお母様の傍を離れてはいけませんよ?」

「……はい。ありがとう、ございます」

 肩口まで伸ばした黒髪の、大きな眼をした少女は小さくぺこりと頭を下げる。

 その何処か怯えたような仕草は、どうやら先のことを引きずっているわけではないようだ。

「ちゃんとお礼を言えるなんて偉いわ。お母様、これにてこの件はお終い。できれば叱らないでやってあげてくださいな」

「娘の命の恩人に言われては、拒否もできません。……何かお礼でも」

「いいえ、結構ですわ。でももしよければ、この子をもう一度だけ抱かせてもらえませんでしょうか?」

「ええ、結構ですが……? 蓮?」

 八織の提案に疑問を覚えた母親だったが、恩人の言葉とあれば断るのも申し訳ない。その程度のことならばと了承する。

 娘の蓮も特に抵抗した様子もなく、八織が両手を広げて屈むと、正面からそこに抱きついてくれた。

 小さな身体を抱き上げて肩に顎を乗せるように持ちあげながら、八織は母に語り掛ける。

「妹が、いたもので」

 察しの良い貴婦人は、その一言で理解したようだった。

 哀しげな表情は、きっと演技ではない。育ちの良いであろう彼女は、人の悲しみを受けるだけの器を育ててある。きっとその娘の蓮も同じように優しい人に育つことだろう。

「懐かしい香り。忙しい両親に変わって、こうしてよく抱いてあげたんですよ」

「ご出身は、何処の?」

「ここから遠く、山を越えた先の小さな村です。……今はもう、ありませんが」

「……そう、ですか」

「そんな顔なさらないでください。ここに来て仕事を貰って、裕福ではないけれど、それなりに幸せな毎日を過ごしていますから」

 そう八織に微笑まれて、母親の胸のつかえも多少は取れたようだ。

「ごめんなさい。つまらない話を聞かせて。ねえ、蓮。もう降ろすわね」

「……土の匂いがします。それから木と虫と、山の匂い」

 そう、蓮は耳元で囁いた。

 やはり思った通りだ。優れた才覚を持つ少女は、八織が纏う妖気を、山の香りという形で感じ取った。

「そうよ。わたしは人間でないけれど、それはお母様には内緒にしてね」

 彼女にだけ聞こえる声で囁くと、こくりと頷きが帰ってきた。

 蓮を降ろして、改めて二人に頭を下げる。

 それから膝を折って蓮に目線を合わせたところで、少し離れたところから低い声が聞こえてきた。

「蓮! 須美!」

 二人が振り返り、八織もその方向を見ると、その名を呼びながら駆け寄ってくる男が一人。

 恐らくは母親、須美の夫で蓮の父だろう。その人物を見て、八織は誰にも気付かれないように唇を歪めた。

 やはり、来てみるものだ。

 束帯を纏った男は三人の前まで歩み寄ると――あの山では見せることのなかった笑顔を浮かべて喋りかけている。

 どうやら待ち合わせをしていたようで、蓮が八織に助けられたことを聞いて、初めてこちらを見た。

「どうやら、蓮が世話に……なったようだな」

 その声色も、態度も全く変えなかったのは流石とでも言ったところだろうか。

 明智清鳴は目だけを細めて八織を牽制しながら、表向きは素直に礼を言って頭を下げた。

「いいえ、通りすがりが偶然助けただけですから」

 ぺこりと、小さく八織も頭を下げる。

「……あまり見ない顔だが、都の住まいか?」

「いいえ。普段は近くの集落に居を構え、仕事の時だけはこうして都に上ってきています」

「そうか。都の人の多さにはなれたかな?」

「正直、まだ慣れませんわ。普段は静かなところにいるものですから」

「父上」

 下の方から、蓮の声がする。

 途端、清鳴は目尻を下げて蓮の身体を両手で持ち上げた。

「おぉ、すまんな、蓮! もう待ちたくはないよな」

「これからどちらに?」

「久方ぶりに家族と食事をな。まったく、お上の連中は余計な仕事ばかりをこちらに押し付けて」

「清鳴様。お嬢さんに言うことではないでしょう」

「それもそうだ」

 蓮を降ろして、さりげなく彼女を庇うように前に立つ。

「恩人にろくな礼もできず申し訳ないが、これにて失礼する」

「ええ、ごゆっくり」

 清鳴の後ろから顔を覗かせる蓮に向かって、八織は膝を折って目線を合わせる。

 そうして清鳴が警戒して何かを仕掛けるよりも早く、その頭の上に手を乗せて数回、優しく撫でた。

「また、会いましょう」

 こくりと、蓮は強く頷いた。


 ▽


 それから数ヶ月間、清鳴は何度も山を訪れて、山に住み付いた怪異を滅するべく奮闘した。

 その間にその噂を聞きつけ、我こそがその化け物を始末するなど、他国の腕自慢、百戦錬磨の僧侶なども現れたがそのどれもが八織に取って問題になることはなかった。

 それでも、清鳴が来るまでの退屈しのぎにはなったものだ。やはり彼はその中の誰よりも強い。会うたびに八織の知らぬ術を覚え、健闘した。

 そうして、何度目の戦いだろうか。

 すっかり時は冬になり、木々は枯れて山からは生き物の声もしなくなったころ。

 いつも通り、息を荒げた清鳴が地面に膝をついたところで八織も戦いをやめた。

「今日こそ、俺を殺すか?」

「いいえ。貴方は久しぶりに見つけた玩具だもの。殺しはしないわ」

 見下すような言葉に、清鳴は怒ることもない。

 事実、彼我にはそれだけの差があると知っているからだ。

 それに彼とて無策ではない。本気で八織が殺しに来たとしても、この山から逃げおおせるぐらいの術は残している。

 もっともそれも、八織が山を降りて追いかけてこないことを前提とした話ではあるが。

 しばし無言で息を整えてから、やがて清鳴は口を開いた。

「言っておくことがある」

 寒々しい山の景色を眺めていた八織は、その声を聞いて清鳴の方に首を向けた。

「死にたくなくば、俺を殺しておけ」

「随分と、面白いことを言うのね。人風情が」

 言葉ほどに気分を害しはしていない。清鳴の首を弾くのは、もう少し話を聞いてからでも遅くはなかった。

「新しい術が、もうじき完成する。これまで誰も触れたことのないものだ」

「へぇ」と、興味なさげに返事だけをする。

 清鳴は誇るわけでもなく、淡々とその続きを語った。

「この地上に、人の身に神を降ろす」

 形のよい眉がぴくりと動くが、清鳴がそれに気付いた様子はない。

「つまらぬことをするのね」

 人が地に増え、神は姿を消した。

 後にはその力の残滓、または天にも地にも戻れぬ堕神がいるばかり。

 それをまた呼び覚まそうというのか。人の身勝手で。何処まで傲慢であるというのだろうか。

「神を降ろすのは、その身?」

「……いいや、違う。俺にその資格はない。妖であろうと命を奪ってきた俺には」

「――ああ、そう。ということは」

「蓮だ」

 木枯らしのような風が吹いたのは、きっと八織の気のせいではない。

 神を降ろされた人がどうなるのかなど、当然誰も理解してはいない。

 その身を操られ、ただの傀儡と化すのか。それとも神を受け入れることでその力を借りる、現人神のようなものとして生きるのか。

 後者であればまだ救いもあろう。ただ、全社であった場合。

「罰を受けるわ」

「判っているとも。だがな、お前もはじめとして、妖は人を殺めすぎたのだ。西の山に住む鬼共の棟梁は日夜、気の向くままに人を殺す。この山でお前は百を超える人を喰った。他にも上げればキリもない」

「それが妖よ」

「その妖に怒りを覚え、奪われた同胞や家族の仇を討つために全てを投げ打つのが、人だ。それこそが人の理だ」

「ふふっ。愚かね。そうして数を増やして、虫のようにこの地上に溢れかえり、貴方達はその果てに何を見るのかしら? 人で溢れてしまった世界、神秘を奪われたこの大地はさぞ醜いものでしょう」

「家族が妖怪に喰われるよりはマシだ。それにな、俺は正直言えば怖い。容易く山を越え、都に立ち入れる大妖怪である貴様が、何よりも恐ろしい。俺の身一つでよければ持って行け。こうして定期的に戦って満足しきれるのならば、それに一生を費やすのも吝かではない」

 人が費やせる一生は、余りにも短い。

「俺が死に、貴様が蓮を狙わない保証は何処にある? あの娘は優れた資質を持つ、才能の塊だ。そうなるように、そう生まれるように俺と妻は縁を結んだ」

 そうか。

 なるほど。

 ずっと、それは考えられていたことなのだろう。人の間で。

 人がこの大地を完全に支配するために、今なおあちこちに残る、神秘の残骸を消し去るために、本物の神の力を使おうというのは。

 余りにも愚かで、つまらぬ。

「あの時に」

 小さな声で言葉が紡がれる。

 風に掻き消えそうなほどにか細いその声は、辛うじて清鳴の耳に届いた。

「父の顔をした貴方は、娘を神に売るというの?」

「……ああ。この世界に、人とした生まれた以上は誰もが役目を持ち、それを果たさねばならぬ。そうして人は栄えるのだ」

「……そう。それが、人の理と言うわけね」

 また、風が吹いた。

 長い黒髪がそれに玩ばれ、寂しげに揺れる。

「どうしてわたしにそれを教えたの? 命を惜しんだわたしが、貴方と貴方の娘を殺めないと思って?」

「殺めぬだろう、お前なら。俺を、俺如きを生かしたのだ。それにな、何度か戦って思ったことがある。お前、本当は……」

 ざぁと、三度目の風が吹く。

 それはこれまでよりも強く、地面に落ちていた枯葉が巻き上げられて、清鳴の視界を奪った。

 目を開いたとき、女の姿はもうそこにはない。

 最後の葉が散らされた木々と、土を剥き出しにした地面があるだけだった。

「八織。人を喰らう、山に住まう蜘蛛の大妖怪。しかして単なる悪鬼ならば、何故八の名を継いだ。お前が見ているのは一つではなく、『全て』であろう。だとすればそれは妖などではなく……」


 ▽


 それから一月ほど、山の大妖怪は枯葉の下で昏々と眠っていた。

 お気に入りの玩具がもう来ないことが少しばかり物悲しい。

 人が神を呼ぼうというその傲慢さが苛立たしい。

 あの少女が、人として生きるべきだった日向の香りが奪われることが口惜しい。

 果たしてどれが本当の理由か、八織本人にすら判ってはいない。

 そんな彼女の目を覚まさせたのは、随分と乱暴な、天と地がひっくり返るほどの衝撃だった。

 何の対策もなく上空に投げ出された八織は、そのままされるがままに山の斜面を無様に転がり落ちていく。

 一本の木にぶつかって止まったところで、ようやく八織は不機嫌そうにそこに手をついて、身体を起こした。

「よぉ、起きたな寝坊助蜘蛛!」

 溌剌とした、少女の高い声が聞こえてくる。

 目線を上げれば斜面の上には、引っこ抜いたままの大木を抱えた少女が一人。身長は八織よりも遥かに低く、まるで童女のようだが、額から突き出た二本の角が彼女が何者であるかを現していた。

 そして、返事をする代わりにその童女――鬼の右腕が切れ飛び、抱えていた木が轟音を上げて地面に落ちた。

「うわっと! 何すんだよ!」

「寝起きに機嫌のいい生き物はあまりいないわ。覚えておくことね、小鬼」

「小鬼って……。小さいのは背丈だけだぞ。やりあったらお前にだって負けはしない。――試してみるか?」

 ニッと、鬼が笑うが、そんな挑発に乗るほど八織は酔狂ではない。鬼と殴り合っても何一つ楽しくはないし、お互いに体力を無限に消耗するのだから。

「何の用?」

「なにって、あれ見ろよ?」

 山の頂から、鬼が視線を這わす。

 それに合わせるように、八織も彼女の見ている方向、都を見た。

「すっごい神気が集まってる。人間が馬鹿なことをしようって言うんじゃないか? あれをぶち壊したらきっと楽しいだろう!」

「そんなことをしに西からここに?」

「ああそうさ! あんなことができる奴は、きっと向こう百年は現れない。楽しめる時に楽しんでおかなきゃ」

「それで、どうして貴方はわたしを起こしたの? 一人で行けばいいでしょう? まさか鬼は徒党を組まなければ神に挑めないほどに臆病だったのかしら?」

「それは違うさ。でもアタシにも義理がある。あの地を襲うなら、この辺りを管理してるあんたに声を掛けるのが筋だろう?」

「わたしはそんなことはしていないわ」

「そりゃそうかも知れないけどさ。まあ細かいことはいいんだよ。で、行くのかい?」

「……そうね」

 びりびりと、震えのような力が伝わってくる。

 これは確かに、祭り好きの鬼が遥々百里以上を駆けて来るのも無理はない話だ。

 だが、八織は鬼とは事情が違う。

 神を降ろし、現人神となった蓮は近い将来命令されることだろう。

 あの山に生き、そこに住まう妖怪を殺せと。

 彼女と戦うのはそれからでいい。討たれるも喰ってしまうも、全てはその時に賭けた方が美しいではないか。

「興味ないわ。わたしは眠るから」

「あ、そう。じゃあアタシ一人で」

 踵を返して、山を駆け下りようとした鬼の動きがぴたりと止まる。

 全身に絡み付く見えない糸を感じ取って、鬼は怒りとも、喜びともつかぬ表情で八織を睨みつけた。

「なんだい? やっぱりやりあおうってんじゃないか?」

「今生まれようとしているのはわたしの獲物。わたしを殺すために生まれるものよ。貴方が手を出していいものではないわ」

「つまみ食いぐらいいいだろ? それにさ、アタシもそれなりの距離を走ってきたんだ。何もなしってのは、あんまりじゃないかい? いや、まぁ折衷案としては」

 ぶちぶちと、糸が断ち切れる。

 拳を握った鬼が、こちらを見ていた。それはもう、心底嬉しそうな、子供のような笑顔で。

「アンタが相手をしてくれるってことでいいかな? 山に住まう蜘蛛の大妖怪、八織。相手にとっては不足はないってね」

 ぐっと足を踏ん張り、鬼が一気に駆けだそうとしたその時。

 都の方から発せられていた強大な力、霊気が霧散するように消え失せた。

 二人ともそれを感じ取ったから、臨戦態勢にあった構えを解いて、その方向へと訝しげに顔を向ける。

「なんだぁ?」

「失敗したのではないの?」

「……なんだ、つまらん」

 同時に鬼の気まぐれさは、八織と戦おうという気すらも消失させてしまったのだろう。

 拗ねるように残った片手を頭の後ろにやり、鬼は手近にあった小石に八つ当たりをして蹴り上げる。

「なんかやる気もなくなったし。帰るか。や、見送りは結構」

 最初からするつもりもないと八織が言うよりも早く、鬼は土を撒き上げながら山を駆け降りていってしまった。

 時刻は夕暮れ。空は血のように真っ赤に染まっている。

 その中で、胸騒ぎというほどのものでもないだろうが。

 奇妙なざわめきが八織の胸の中に去来していた。

 清鳴に、蓮に何かがあったとて、心配するほどの間柄ではない。むしろ人と妖、互いに敵同士だった。

 それでも何故か、八織は山を降りていた。

 その、何かに突き動かされるような嫌な衝動を最後に感じたのは、果たして何年前のことだった。

 大凡、三百年ほどだろうか。


 ▽


 夜の帳に包まれた都は、その大通りに人っ子一人の姿がなく、物哀しさすら覚える。

 なまじ昼間の喧騒があるからこそそう感じてしまうのだろうと、八織はそんなどうでもいいことを思いながら、舗装された路を歩き続けた。

 目指す場所は一つ。力を探るまでもない。

 しっかりと区画整理をされた街並の先、朱塗りの鳥居を幾つもくぐると、目の前に現れたのは、霊的な儀式を行うために設けられた広々とした庭園だった。

 その入り口に当たる門の前に、二人の守衛が立っている。

 彼等は最初、暗闇の中から現れ、急に篝火に照らされた女にぎょっとしたものの、それが線の細い娘であることに油断したのか、険しい表情を崩して話しかけてきた。

「すまないが、この奥では今陰陽師達が重大な儀式を執り行っている。もし迷い込んできたのなら外まで送らせるが」

 それが男の、今生の最後の言葉となった。

 気付けばその心の臓は八織の手に握られている。

 何のことはない。妖術でも何でもなく、ただその胸に手を突き入れて掴み取っただけのことだ。

「て、敵襲だ! 妖怪が攻めてきた! ぶっ!」

 心臓を顔面に投げつけられ、それを振り払おうとしてもう一人の男は、それをする前に首を刎ねられて死んでいた。

 届いた声が、騒めきと鎧の擦れる音を生み出す。

 幾つもの敵意が迷路のような街並みを抜けて、八織を目指して掛けてくるのが張っておいた糸越しに感じられた。

 八織はそんなことは無視して、悠々とその庭へと足を踏み入れていく。


 ▽


 篝火に照らされた庭。

 砂利を敷き詰めた地面で囲われてたその中央では、敷かれた布の上に正座をする人影が三つ。

 その顔は暗闇に紛れてよく見ることができない。

 そしてその周囲に立つ侍が二人。刀から血の匂いをさせて、武装した姿でそこに立ち尽くしていた。

 それを見つめるのは少し離れたところに作られた、簡素な庵の中で座る三名の陰陽師。いずれも格の高さを強調するような、豪華に彩られた着物を着込んでいた。

 そこに、八織が堂々と現れる。

 自分は全く禁など犯していないと言わんばかりに悠々と立ち入る女郎蜘蛛に、刀を手に持つ侍達は陰陽師達の方を見る。

 妖の相手をするならば、陰陽師達の指示を仰ぐほかない。人を斬るならば侍の専売だが、妖の相手は彼等の方が得意だと。

「――人の理、ね」

 正座をしている三名。

 死に装束を着させられたその人型の、うち二つは首もとから膝まで血で紅く染まっている。

 その傍に転がる首二つ、双方に見覚えがある。

 片や一度だけ縁があった貴婦人。

 もう一人は。

「愚かなものね、清鳴」

 明智清鳴。そう名乗った陰陽師のものだった。

「斬れ!」

 三人の陰陽師の、中央に立つ者が叫んだ。

 それに反応し、刀を持った侍が八織を取り囲むように距離を測る。

「化物とは、戦い慣れていないみたいね」

 もし、妖怪を刀で仕留めたいのならば。

 じりじりと距離を詰めて、相手の出方を伺うなど愚の骨頂。こちらは脆弱な人を殺す術など、千通りは持っているのだから。

 片方の侍が、電光石火にて首を刎ねられる。

 凶器は八織の両肘より伸びる、不気味な鉤爪。

 その蜘蛛の足は刀よりも鋭く鋼よりも固い。

「うわああぁぁぁぁぁぁぁ!」

 恐怖に駆られ八織に向けて振り下ろされた、もう一本の刀は、左手の鉤爪に当たり根元から砕け散る。

 返す刃で心の臓を貫かれて、残る一人の侍も骸と化した。

「妖が。神気を纏う娘を餌にでもしに来たか!」

「もしそうだとしたら?」

「渡すわけにはいかぬ!」

 両脇の二人が取り出した符から放たれた波動が八織の身体を討つ。

 岩をも砕く波のようなそれを受けて、八織の身体が揺らぐ。

「であえであえ! 飛んで火にいる夏の虫とは貴様のこと! 山の怪異を仕留める絶好の機会ぞ!」

 増援隊が到着する。

 神木を削りだした矢が八織の身体を射抜き、その隙に無数の刀と槍が柔らかな女の肉を突き刺し切り刻む。

 中央の陰陽師が呼び出した巨大な式鬼が、その真っ赤な顔を八織に近付けて、野太い両腕で手足を引き千切らんと引っ張りはじめた。

 ぎちぎちと身体が壊れる音を立てながら、それでも八織の表情に苦悶の色はない。

「なぁんだ。この辺りで一番の術者だと思っていたのだけれど、そんなこともないのね。清鳴。この三人の方が貴方よりも優れた術を持っている」

「去れ、妖よ! ここは人の都ぞ!」

「でもね」

 ばちんと、何かが弾ける音がした。

 それはまず最初に、二人の術が八織の身体を抑えつけられなくなって消える音だった。

 そうして、蜘蛛は自由を取り戻す。

「これが人の理の果てというのなら、愚かにもほどがある」

 鎧が砕け、肉が裂ける音が同時に響く。

 八織の両腕には鉤爪が一つずつ。

 そして、蜘蛛の足は八本。

 背中から左右三本ずつ飛び出した、蒼と黒が交じりあったような、篝火に照らされて美しい光を放つ蜘蛛の足が、同時に六人を貫いている。

 そのまま身体を捻れば、まるで刃が竜巻でも作ったかのように、近くにいる者達を巻き込み血の華が咲く。

 鉤爪が八人を同時に殺し、八織の両腕が二人の人間を握り潰す。

 真っ赤な鮮血を全身に浴びて、その身体はより美しさを増しているようにすら見えた。

 もっとも、この場にいる者の大半がそれを堪能することなく、命を奪われてはいるのだが。

「喝!」

「破ぁ!」

 両脇の陰陽師から再び波動が飛ぶ。

 だが、それはもう八織を捉えることはできない。

 侍達を鏖殺し終えた八織はひょいと地面を蹴って、彼等の座る庵へと移動する。

 そのついでに、両脇の陰陽師二人は哀れにも顔面を潰された死体と化した。

 残った一人、恐らくはこの中で最も位が高いであろうその男は、恐怖と怒りで表情を醜く歪めながら、すぐ目の前に立つ女を睨みつけている。

「聞かせてほしいことがあるの。どうして、清鳴を殺したの? あの術を持って、人は地を制するのではなかったの?」

「神を降ろす術など、罰当たりにはほどがあるわ! 馬鹿げた妄想の産物をこの手で始末してやったまでよ!」

 男の言葉には嘘がある。

 その目は泳ぎ、口元は震えていた。

 そして、八織は全てを察した。所詮はつまらぬ話だろうと、結論が出てしまった。

「神を降ろす術に、多大な素質を持つ娘。行く行くは清鳴が貴方の立場を脅かすことになると、それを恐れたのね」

「くっ……。だからどうしたというのだ! 妖に何の関係がある! 私のしたことは正しかったのだ! 貴様がこうしてここに来たということは、やはり清鳴は妖に通じて……」

 その言葉を言い終える前に、首を掴まれた陰陽師は発言を遮られた。

 そして片腕で彼を持ち上げた八織は、陰陽師を庭の、布の上にある二つの死体の前に放り投げる。

 正座した最後の一人。未だ首が繋がったまま呆然としている蓮は、そこでようやく身体をびくりと反応させた。

「な、なにを……!」

「ねえ、蓮。清鳴の娘」

 恐る恐る蓮が顔を上げる。

 長い黒髪にの、全身を紅に染め上げられてなお美貌が薄れることのない麗人は、愉快そうに笑った。

「その男をどうしたい? 貴方の父に嫉妬し、つまらぬ理由で貴方の父と母を殺したその屑を。もし、貴方が望むのならば」

 女の指先から糸が伸びて、陰陽師の首に絡み付く。

 息を止めさせ、言葉を奪い、それでも首の骨は折らぬ絶妙な力加減で締め上げた。

「ぐ、が……」

 糸を払おうとした両腕も同じように白い糸に巻きつかれ、動かない。

 彼にできるのは、両足をバタつかせながら、見開いた両目と口から涙涎を垂らして、無様に蓮を見上げることだけ。

「その男を生かしてあげてもいいわ。そうすればそうね、きっと貴方はここで暮らし続けられる。その後の人生も保証してくれるわ。だって、命の恩人だもの」

「ねぇ?」と、陰陽師の顔を覗けばそれはもう必死になって首を縦に振っていた。

「どうしたい? 彼の命をあげるわ。首を縦に振るなら生かし、横に振るならば殺す」

 ずりずりと、仰向けに倒れたまま陰陽師は蓮のひざ元に縋りつく。

 権力ために父と母を殺しておきながら、更に手を駆けようとしてその娘に命乞いをしているのだ。

 こんなの楽しい見世物があるだろうか。

 それが人の理の行く末。組織を造り、自らを機構と化した人間が辿り付く場所。

 少女は逡巡する。

 暗闇の中、篝火の薪が爆ぜる音が響くこの庭で、冬の風に晒された肌は最早死人の色をしている。

 それでも、少女は迷い続ける。父と母の仇、その命を選択することに。

 そうして、長い時間が過ぎたが、やがて決断の時が来る。

 しかし、それは少女の意志によって選び取られたものではなかった。

 何処からか飛んできた矢が、八織の心臓を打ち抜く。

 人間達の切り札。

 神木を削り、長い時間を掛けて妖を滅するための術を染み込ませた必殺の矢が今、ようやくこの場所に訪れた。

 それを射たのは都で一番の弓の使い手。彼は今の今まで、同胞が殺されるのを見つめながら、化け物が隙を晒すのを待ち続けていたのだ。

 だが、彼とて無事では済まなかった。

 すぐさま返しに放たれた硬質の糸が、屋根の上で立つ彼の片腕を吹き飛ばす。

 本当なら頭を潰していたのだ。それができなかったのは、矢によって確実に、八織は深い傷を負ったという証拠。

 八織の身体はぐらりと揺れて、庵の中に倒れた。

 そうしてまるで糸が解けるように、その身体が解けては消えていく。ものの数秒で、八織の姿はそこから消失していた。

「く、ははっ! やはり力はあろうと、頭は足りぬようだな、化物如きが!」

 弱まった糸の拘束を抜けて、陰陽師が笑い声と共に自由を取り戻す。

「私の勝ちだ! これで私は全てを手に入れる! 何が神を降ろす術だ、山の妖怪の討伐だ! そんなもの、貴様に侍百人が殺された時点で何の意味もない! もともとはそれも全て山を越えて隣の国に攻め入るためのもの、別にそこに住む畑を耕すだけが脳の賤民共が何匹貴様の餌になろうと知ったことではないわ!

 侍を派遣し、直属の部下であった清鳴を向かわせ、貴様を殺せなかったときは腸が煮えくり返る思いだったぞ! 妖怪如きがこの私の出世を邪魔してくれたのだから! だが、だがな、貴様が阿呆で助かった! わざわざ自らこの地に死にに来てくれるとはな。払った犠牲など小さきもの、私は全てを手に入れた、目障りな明智は死に、貴様も死んでくれるのだからな!」

「幸運なことね」

 涼やかな女の声がする。

 その姿は何処にもなく、陰陽師はきょろきょろと辺りを見渡すばかり。

「なぁ……!」

 気付けば一瞬にして、目の前にそれは立っていた。

 人間を遥かに超える大きさの、巨大な蜘蛛が一匹、蒼と黒が交じりあった宝石のような八本の鉤爪で地面に立っている。

 蜘蛛の頭から伸びるのは、腹から上の女の身体。月明かりすらも単なる裏方と変えてしまうほどの美貌を持つ彼女は、紛れもなく先程神聖なる矢によって撃ち抜かれた八織だった。

 蜘蛛の口から伸びてきたのは、先程まで彼の身体を拘束していたものと同じ、真っ白な糸。

 月明かりを受けて光を放つそれは、自らの命を奪うものであると思えぬほどに艶やかで眩い。

「死の間際にそれだけ喋れたのだから、もう思い残すこともないでしょう?」

 声だけが響き、糸が陰陽師の身体を捉える。

 足掻こうと、もがこうとそれが外れることはない。

「最後の矢は見事なものね。おかげで人化を解かなければ、脆弱な身体が神の毒で冒され尽くすとこだったもの」

 八織の言葉とは裏腹に、糸で全身を巻き取られた陰陽師は蜘蛛の口へと運ばれていく。

「サヨナラ、哀れな人間」

 下半身の大蜘蛛が口を開き、その首から肩までを一気に噛み砕く。

 その後はただひたすらに粘着質な咀嚼音に交じって、骨が砕ける音が闇の中に響き続けるばかりだった。


 ▽


もう、三百年も前の話になる。

今よりももっと怪異が恐れられ、人が対抗できなかった時代のこと。ある小さな村に二人の姉妹が生まれた。何不自由ない、とは言えないが、それでも彼女等はその村の暮らしを気に入っていた。

 しかし、それも子供のころまでの話。

 村にはあるしきたりがあった。すぐ傍にある山に住まう怪異を鎮めるために、数十年に一度生贄を捧げねばならないと。

 選ばれるのは村の少女。男を知らぬ生娘でなければならぬ。

 姉には既に婚約者がいた。村から少しばかり離れたところにある街に住む、豪族の一人息子だった。

だから妹が選ばれた。それでも妹は悲しまず、最後の夜まで姉の幸せを祈ってくれた。

 そうして彼女は生贄に捧げられ、小さな悲しみこそ残るが村は当面は安泰だろう。

 妹の犠牲は確かに大きなものだが、姉は豪族と結ばれることで村と有力者の間に強い繋がりはできるのだ。

 村の方針を定める老人達は、そう思っていた。

しかし、そこには大きな誤算があった

 前に生贄を捧げたのは、五十年以上も前のこと。

 老人達はそれを知っているが、若者達からすれば自分の結婚相手となるかも知れない、綺麗な年頃の娘をどうして怪異なんぞに喰わせてやらねばならぬのかと。

 生贄が捧げられる夜。

 若者達は生贄が入った籠を持ち、山へと入っていった

愚かな姉は、妹に作ってあげた御守りを渡し損ねたことに気が付いた。愚かにも、生贄に捧げられて死ぬ運命の妹に、そんな心ばかりの土産を持たせて、最期の最期まで一緒にいてやりたいと願ったのだ。

 或いは、姉はそれを見た妖怪が心を改めて、妹を助けてくれるかも知れないと、最後の望みを託したのかも知れない。

 何にせよ、もう三百年も前のことだ。その時の気持ちなど覚えていない。

 山の中腹ごろに差し掛かった頃に、それは起こった。

 男達は決起した。見たことのない山の怪異など恐れぬ彼等は、籠をひっくり返し、驚く妹に対して次々と襲い掛かったのだ。

 結局のところ、妹を心から護りたいものなどは誰もいなかった。彼等の心にあったのは、どうせ死ぬならば女として存分に扱ってやろうという下卑た思考。

 男数人に囲まれては抵抗などできぬ。成すがまま、されるがままに嬲られた妹は、最後に怪異の仕業に見えるようにと、証拠を隠滅するために男達の一人が持っていた凶器でその頭をかち割られて、呆気なく死んでしまった。

 姉がそこに辿り付いたのは、ちょうど妹の頭から真っ赤な血が噴き出して、二度三度と身体が痙攣した後に動かなくなるその瞬間のことだった。

 目の前で起きていることが、最早姉には理解できなかった。

 妹が男達に乱暴されたこともそうだが、何よりも。

 その中心にいたのは、つい先程まで一緒に妹を見送ってから街へと帰っていった、婚約者だったのだから。

 彼等が何かを話している。焦った様子で、相談している。

 結論が出るのはすぐだった。それを提案したのは、婚約者のようだった。

「見られたのだ。妹と同じようにしてしまえ」

 妹を追って、山の怪異に喰われた馬鹿な姉と、そう処理されるだろう。

 肉欲に駆られた男達は姉に向かって襲い掛かる。

 姉もまた、ただではやられなかった。

 その辺りにあった木の棒を掴み、彼等に向けて雄叫びを上げる。

「よくも妹を殺してくれたな」と、「愛する妹を、死の間際に在りながらわたしの幸せを願ってくれた、優しい心の妹を」

 爪を立て暴れる姉だが、男数名が相手では分が悪い。

 それでも必死にもがき、やがてうんざりした男の一人が言い放った。

「適当に斬りつけてやれ。大人しくなるだろう」

 妹の頭を割った薪割り用の斧が、身体に食い込む。

 姉が暴れた所為で当たり所が悪く、腕を傷つけるつもりが肩と、そのまま胸の辺りまでをざっくりと抉っていた。

 仰向けに倒れる姉。

 焦ったような男達の声。

 婚約者は言った。好青年の皮を被った外道は、最早姉に対して関心の一つも持っていないようだった。

「どうせ殺すつもりだったんだ。それより、まだ温かいうちに楽しんだらどうだ?」

 姉に一目惚れをしたと何度も家に訪れ、両親や妹にも礼儀を尽くして接した優しい青年の声は、同じ人物のものとは思えないほどに冷たく響いた。

「それもどうだ」と、姉の服を脱がしにかかる男達。

 半身ほど裸にされたところで、もう意識も朦朧としていた姉の視界に、何かが見えた。

 暗闇の中でも鮮明に見える、白い糸。

 無意識に、それに手を伸ばしていた。

 気付けばそこに何かがいた。

 巨大な黒い影と、地面を這う八本の足。

 男のうちの誰かが気付いて叫んだ時にはもう遅い。

 糸と、鉤爪と、牙と。

 無造作に振るわれた凶器は血の嵐を巻き起こし、瞬く間に男達は単なる肉片へと姿を変えていた。

 抑えつけていた男が消えたことで姉はふらふらと立ち上がり、蜘蛛のことなど目にもくれずに妹の元へと向かう。

 その身体を抱き上げてどれだけ名前を呼んでも、悲劇に涙しても、恨み言を唱え続けようとも。

 妹が還って来ることはなかった。

『贄はその娘か?』

 蜘蛛が喋りかける。

「違います」

『では、おぬしか?』

 首を横に振る。

「村を護るための贄というのならば、どちらでもありません。このようなけだものを育んだ穢れた村のために、わたしも妹も犠牲になりたくはありません。どうぞ気の向くまま、思うがままに蹂躙すればいいでしょう」

『村には罪なき者もあるだろう。それを見捨てるのであれば、人の理に適っておらぬ』

「最早人で在りたくなどはありません。欲に負け、欺き、無辜のものに――美しきものに暴力を振るうのが人なのだったら、未練はありません」

『……ふむ』

 蜘蛛は、それからしばらく黙り込んだ。

 何かを考えているようにも見えたが、姉には妖のことなど理解できない。

 ずるりと、大きな身体が動いて山の奥を向く。

「わたしを殺して、妹と共に喰らってください。最早村には戻りたくはない、人の世で生きていく理由もない。この小さな命を奪いなさい」

 蜘蛛はそれを無視して、緩慢な動きでその場を離れようとする。

 姉は妹の死体を抱きかかえたまま、蜘蛛の足の間を通ってその正面に立ち塞がった。

「喰らってください。そうして貴方の中で妹と一つになることができれば、わたしの心も救われましょう。惨めな死を迎えた妹の魂も癒されましょう!」

『おかしな娘だ』

「ええ、おかしいのです。もうおかしくなってしまったのです。人で在りたくない。あんなものであるぐらいならば死んだ方がいいと、わたしは思っているのですから!」

 蜘蛛は、また沈黙する。

 風で雲が流れ、隠れていた月が姿を現すと、同時に一つの提案をした。


 ▽


 月明かりが二人を照らし、さくさくと落ち葉を踏みしめる足音が一つ。

 返り血でその身体を真紅に染め、それでもなお翳ることのない美貌を持つ女。

 それにおぶさる形で背負われるのは、今しがた両親を失った少女。決して泣くまいと唇を噛みしめているが、零れる涙を止めることはできない。

 だから女は、暇潰し代わりに話を始めていた。

 蓮が吐く息は白いが、八織のはそうではない。

八織の身体は父や母とは比べ物にならないほどに冷たく、どれだけ触れ続けても全く熱を持つことはない。

 八織は長い長い語りを終えた。

 それを聞いた蓮は、所々意味の判らない部分もあったのだろう。無反応で八織の背に頬を押し付けている。

 歩き続け、辿り付いたのは八織が巣とする山の入り口。

 そこで八織は蓮を降ろすと、ある方向を指さした。

「あっちに歩けば村があるわ。小さいけれど立派な農場があって、貴方一人を食べさせるぐらいは問題ないでしょう」

 最初、何を言っているのかその意味が判らずに、蓮は呆然とする。

 しかしすぐに八織がそこに行くように勧めているのだと理解して、何かを言おうとする。

「死ぬのなら、手を貸してあげる。生きるのならばあっちへ行きなさい」

「一緒に来てはくれないんですか?」

「それは駄目。それだけは駄目よ。人と妖は共に生きることはないのだから」

「貴方は、妖怪じゃありません。だって」

 風を斬る音がする。

 伸びた鉤爪が、蓮の頬を掠め、その後ろの地面に深々と突き刺さった。

「妖よ。人に害をなす、神話の時代の残滓。天に還った神が大昔に地上で唄っていたその残響。きっと時代が過ぎれば、人の世が広がっていけば居場所を失い消え逝く者」

 時が流れれば、きっと人はもっと増える。

 地上からは神秘が消え、神が残した宝物もなくなって、やがては人の理が支配する時代が来るだろう。

 八織はそれに僅かばかりの抵抗をして見せた。妖怪としての行いは一人の人間を命を救ったが、この世の流れを変えることはできない。

 それはずっと、知っていたことだった。

「おいきなさい、人の子」

 ぐっと、蓮は唇を噛んで、八織を見上げる。

 目に涙を浮かべながら見つめるその笑顔の、なんと優しげなものか。

 これがあの鏖殺を行った妖怪と同一人物であろうと、それを目の前で見ていた蓮にすら疑わしい。

 蓮は答えなかった。

 その代わりに大きく頭を下げる。

 そして八織に背中を向けると、一歩一歩自分の足で歩き始めた。

 それからは、その姿が暗闇の中に消えるまで一度も振り返ることはなかった。

 そうして誰もいない暗闇の中で女の口から呟きが漏れた。

「貴方は類稀なる力を持っている。それを磨けばいずれは父が唱えた神降しにすら至ることでしょう。

 どう生きるかは貴方の自由。でも、もし貴方が父と母から受け継いだそれを磨き続け、神秘の時代を人の手で引き継ごうというのならば、いつかわたしを殺しに来てね」

 向かうは蜘蛛の大妖怪が住む山の中。かつて、姉と妹が引き裂かれた悲劇が残る、血生臭い場所へと帰っていく。


 ▽


 ある山に、一匹の蜘蛛が住んでいた。

 神話の時代より生きたそれは、長き時を経て神気を纏う。

 そうしてまた千年以上の時が流れ、神が消え、蜘蛛が戯れに人を喰らうようになる。神としての生き方に飽きた蜘蛛は、そうして少しずつ妖へと変貌していこうとしていた。

 根城にしていた山の中で、あるとき一人の女と出会う。

 人に妹を嬲り殺され、狂ってしまった女だ。

 人であることをやめたいと願った女に、蜘蛛は提案をする。

 どうせ、神が消えたこの地にいる理由などもうなくなっていたのだからと。

 その力を受け継いだ女は、蜘蛛となった。

 そして蜘蛛となった女は一人の少女を助けた。

 両親を失った少女はその逆境にめげず、山の近くにあった村で拾われすくすくと成長し、十五でその中に眠る才覚を認められた。

 朝廷に仕える陰陽師と結婚した彼女は子を産み、その傍らで術を鍛え続けて、それを後世に残し続けた。

 そうして、どれだけの世代を重ねただろうか。

 果たして彼女が何のためにそれを伝え続けたのか、もう誰も判らないぐらいの年月が過ぎていた。

 妖は消え、神秘は失われ、人が支配する世界が広がっていく。

 八織を名乗る蜘蛛と、少女の子孫が出会うことはなかった。

 あの夜、山の中に消えた美しき一匹の蜘蛛のその後を知る者は、誰もいない。


 了


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