プロローグ
形ばかりのプロローグ
~どうぞ面倒ならば読み飛ばして~
わたしが彼と出会ったのは、いったいいつ頃の、何処での話だっただろう。
わたしは気が付いたらそこにいた。
思い返せる出来事と言えば、淡い光。
光の渦の中を、落ちるよう、泳ぐように、昇るように進み続けていた。
そうしてやがて、両手と両足が疲れから痺れてきた頃。
音のない、光だけの世界は急激に輪郭を生み出していった。
まるで熱が冷めるのを視覚するようにゆっくりと、世界が構築されていく。
溶けだした液体が個体に戻るのを逆回しで見ているようだった。
音もなく。
気配もなく。
やがて、それは構築されていった。
現れた世界は一言で言えば、図書館だった。
高い高い数々の書架に納められた分厚い本の数々。
気付けばわたしの周りにも同じように本棚が聳え立っていて、あれだけ広かった――と言っても光しか見えなかったのだが――視界は狭苦しいものに変化していた。
コツと一歩を踏み出せば固い気の床。
土足で大丈夫なのかなぁ? などと余計なことを気にしていた。
コツ。
コツ。
コツ。
三歩程足音を楽しむ。
他に何の音もしない空間が心地よい。
右に手を伸ばせば、すぐに本に届く。
左に手を伸ばしても同じ。
しかし、何処にも踏み台がない。これでは高いところにある本に手が届かないだろう。
納められた本の背表紙には見たこともない文字でタイトルが振られている。
一冊手に取って開けば、これまた見たことのない文字でびっしりと敷き詰められた文字の数々。
「……日本語でおk?」
そんなくだらないことを呟いていたが、悪いことばかりではない。
なんとなくだが、わたしはこの書架の群像の中から、わたしでも読める本を探してやろうという気になったのだ。
日本語、もしくはせめて英語。
英語の本は完璧に読めるわけではないが、どうにか内容を把握するだけの学力はあるつもりだ。
そうして見上げた本の海。
目的ができたのは良いが、やはりがっくりくる量だ。
目線の先には、書架で作られた道の先に、やはりこれまた書架で作られたT字路があって、その先を作るのもまた書架の道。
天上を見上げると、本の合間に見える天井は嫌に高い。
うん、まぁ。
取り敢えず踏み台を探そう。半ば現実逃避の気持ちで歩き出す。
本の迷路を曲がりくねり。
響く足音、後ろに流れる書籍の群れ。
歩きながら、わたしはだんだんとこれが夢であるのだと思い始めていた。
むしろ、夢以外でこんなところに連れてこられるわけもない。最初からその判断に辿り付かなかったことの方がおかしく思える。
それから五分ぐらい歩いただろうか。
踏み台は見つからず、高所にある本を手に取りたいときはどうすればいいのかと、ここの管理人に怒りを抱き始めたころ。
不意に、本の波が引いた。
開けた空間はこれまた壁こそは書架で作られているが、これまで歩いてきた道に比べれば遥かに視界が広い。
中央には背の低い、読書用のテーブルが幾つかと、客人に出すためのお茶でも入れるのか、ボタン一つで豆を挽いてくれる珈琲マシンと紅茶用のティーポットが一つ。
珈琲マシンの電源は入っていないようだったが、ティーポットからは暖かそうな湯気が上がり、ここまで紅茶のいい香りが漂ってきた。
一歩を踏み出す。
先ずはこの空間で初めて見つけた、本ではないオブジェクト二種のところへ。
三歩目のコツ、が響いたところで、わたしの息遣いとは違う声がした。
「やあ」
声は上から響いていた。
わたしは間抜けな顔でそこを見る。
本棚の高所に腰かけ、手には大きなハードカバーの背を置いて開いく少年がいた。
灰色の髪と、何処か時代錯誤な、アンティークな格好。
顔立ちは整っていて、まるでアイドルみたいだ。
だが、それよりも。
もっとどうでもよく。
もっとも重要なことが聞きたかった。
「高いところの本はどうやって取ればいいの? 君みたいに」
少年の足元に踏み台のようなものはない。
彼はわたしの言葉に一瞬きょとんとした、面白い顔をして、それから堪えきれないとばかりに喉の奥から笑い声を響かせた。
「他に聞くべきことがあるんじゃないかな?」
「ええ、沢山あるわ。でもそれを全部聞いていたら、きっと夜が来て、また朝が来るぐらいに時間が掛かってしまうの。だから取り敢えず、わたしは今一番自分がやりたいことをやるって決めたの」
「高いところに、読みたい本でもあった?」
そのやり取りは不思議と、まるで何年も付き合いがある友人同士のように気安い。
少年もわたしも、柔らかい声音で、お互いにからかいあうように言葉を投げかけあっている。
「読める本が少ないの。それで、わたしの読めるものがないかどうかを探していて」
「ああ、そういう。どんな本でも読めるはずだよ。ここに書いてある文字は、全てに通ずる言葉だから」
「いや、だって。読めないわ。わたし日本語しか判らないもの。自慢じゃないけど、英語だって全部は判らない」
「えいご? まあいいや」
少年が目の前にゆっくりと降りてくる。
そして許可も取らずにわたしの手を取って、慇懃な仕草で読書用のテーブルへと案内する。
されるがままに足を動かして、椅子を引いてもらったその場所に腰かける。
「どんな本がお好みかな?」
「馬鹿な質問をするわ。どんな本があるの、ここには?」
「どんな本でも……と、言ってあげたいところだけど、ジャンルは結構狭いんだ。大半が物語だね」
「ふぅん」
興味なさげに頷きながらも、わたしの心は踊っていた。
目の前に広がる本の群れ、紙の海。
それら一つ一つが物語なのだ。高揚しないわけがない。一つを手に取って開けば、そこにはわたしが触れたことのない世界が広がり、会ったことのない人がいる。
嗚呼、なんと素晴らしいことかと、心が躍る。自然と行儀悪く、足をパタパタと動かしていた。
「嬉しそうな顔をしているね。まぁ、ここに呼ばれたのだからそういう資質があるってことだろうから」
「資質? わたしは、ただ物語が好きなだけよ」
「質問が一つ。どんな物語が読みたい? 好きなジャンルは? 悲劇? 喜劇? 恋物語? それとも勇ましい戦記?」
「何でもいいわ、何でも。そこにわたしの知らないものがあれば」
「ほら、君は変わってる。普通は読者が本を選ぶんだよ、ところが」
目の前に湯気の立つ紅茶が置かれた。
嗅いだことのないが、いい香りが鼻を抜ける。そして次にはお茶菓子のスコーンと、それにつけるためのジャム。
「お代わりは幾らでもあるから、言ってくれれば用意するよ」
「ところが、なに?」
「ああ、そう。ところが君はね、本に選ばれる読者だ」
少年の姿が消える。わたしはああいう風に飛ぶことはできないのだろうか? もしできたとしたらこの書架の間を自由に飛び回ってみたい。まるで泳ぐようにそこを進んでいけたら、きっと素敵だと思う。
「多分、君は飛べないよ。僕は特別だからね。後で踏み台を持って来てあげるから、それで我慢してね」
残念さと悔しさを誤魔化すために、スコーンを食べて紅茶を飲む。思った通りとっても美味しい!
お腹が空いていたのか、一気にスコーンを食べ終えて、紅茶を飲み干していた。
はしたないかも、などと考えていたら、いつの間にかまた近くに来ていた少年がティーポットからお代わりを注いで、スコーンもお皿の上にまた置いてくれる。
今度は先程とは違って、目の前に置かれた一冊の本。
「この本は?」
「君を選んだ一冊目の本」
とは言うが、やっぱり表紙に書かれている文字を読むことはできない。
「心配ないよ。この本が君を選んだ。だから君はこれを手に取って開けば、物語を読むことができる。そういうものだ」
いや、もう本当に。
全くもって意味不明だが、不思議と疑う気も起きない。そういうものだと、実はわたしは知っていたのかも知れない。
「これは物語?」
「そうだね。数多の世界を巡り、記された物語。何処かで誰かが生きた証の断片。君が旅するのはそうして広がっていく無限の世界」
「無限の世界……」
その言葉を反芻する。
「色々な世界がある。多くの人がいる。喜劇もある、悲劇もある、希望に満ちた日々が描かれたものもあれば、絶望に沈むものもある」
少年の声は、いつの間にかわたしの耳に遠く届いている。
わたしの手はその本の一ページ目に掛けられて、それを開く時を今か今かと待ち望んでいた。
得意げに語る少年は、そんなわたしの様子を見て、にやりと笑った。ちょっと子馬鹿にするような、でも少年らしい笑顔。
「うん、そうだね。君はここに来たんだもの。これ以上僕の話に興味はないよね」
「いいえ、興味がないわけではないの。でも君の話も、この本の中にあるのも一緒でしょう? わたしの知らない、誰かの物語なのだから」
「その通りだ。だから、うん。僕はもう黙るよ。お茶のお代わりが欲しい時は声を掛けて」
それきり、少年は目の前から姿を消した。
本が開かれる。
書かれていた文字は、相変わらず見たことのない言葉だ。
わたしはその意味を理解していた。知らない言葉で書かれた人の名が頭の中に入ってくる。
彼等の喜びが伝わる。
悲しみが理解できる。
痛みが身体を蝕む。
ありとあらゆる感情や感覚が指先から全身に伝わり、わたしは震えていた。
そうして。
いつの間にか。
わたしは無心でその本を捲り続けていた。
了