ナガテ:前篇
「おはようございまーす」
製麺屋の配達が来た。
今配達してんのはテツヤっていったっけな。三年くらい前から配達に来るようになった。
「お世話になります」
「お疲れさまです」
仕込みの仕上げをしていた親父さんと奥さんが対応をする。
麺の種類と数を確認して、伝票にサイン。あとはちょっとした世間話。
たまに、奥さんじゃなく娘さん――ヤスコさんが仕込みを手伝うこともある。
でもそれはここ数年のことで、その前は親父さんが「うろちょろすんじゃねえ。火傷でもしたらどーすんだ」と、厨房に入れなかった。
今日も大勢お客が来るといいなぁ。
親父さんのラーメンは最高だから。
* * *
「ちぃーっす」
開店早々十一時半に、軽い挨拶と共に入って来たのはタイラだ。
髪の毛が雲丹のように四方八方にトゲを張っている。トゲはオレンジ色なのに根元は黒い。
色褪せ掛けた青いツナギのポケットに両手を突っ込んで、ズッタラズッタラとスニーカーの踵を擦りながらガニマタ気味に歩くのが癖だった。
そんなんだからタイラのスニーカーは、踵の外側が消しゴムみたいにどんどん減って行くらしい。
「やったぁ。俺今日一番乗りすかね」
その外見とは裏腹に、笑顔は屈託ない。
「そうねぇ、先週は三回もヤマちゃんに取られてたわね。ちょっと待っててね」
暖簾を掛けて来たおかみさんが笑う。
「ヤマの野郎、作業ほっぽってでも飛んできやがるからよぅ……」
そんな会話を交わしている間に、二人連れが入って来た。
「ふえぇ? タイラ先輩、オレに後片付け押しつけといて、先に来てたんすかぁ? ずるいっすよぉ」
情けない声をあげながら入って来たひょろっとした短髪が、ヤマちゃんことヤマギシだ。動きはナヨナヨしてるが、脱いだらバッキバキの細マッチョだ。
天気のいい日の休憩時間には、職場の屋上で日焼けにいそしんでいるらしい。
「なぁにがずるいだ。ヤマお前、トンさんがぼやいてたぜ? 『最近の若者は道具を大事にしやがんねえな』ってよぉ」
先輩面をするタイラは、強面を作る。
だが、後輩のヤマギシは「タイラ先輩の表情が本気かどうか、俺ぁ一目で見分けがつく」――などという自慢話を時々しているだけあって、へらへらっと笑いながら言い訳を始めた。
「大事にしてねえわけじゃねっすよぉ。メシ終わってから片してんすよぉ」
「俺に言うな。トンさんの前で同じ台詞言えんのかよ。なあ? テラ。お前もそう思うだろ?」
「えー、あー……そうっすね」
テラはタイラに憧れて、短い髪を小さいウニ頭にしているがイマイチ似合っていない。
「おい、テラぁ。いやタイラ先輩カンベンしてくださいよぉ……」
そうして、青いツナギの三人組は、仲良くカウンターに並びながら親父さんのラーメンをすするのだ。
ちなみにタイラたちの仕事はノルマ制で、親父さんの店に一番乗りをするため、彼らは午前中の仕事をえらい速さでこなしているらしいという話だ。そこはまぁ、ありがたいんだけどな。
親父さんの店には、タイラたちのような常連客が何人もいる。
お客同士も顔見知りが多い。
俺は麺茹でを担当している。だから一日中――待機時間も常に、麺茹で用の鍋の側にいるわけだ。
もっとも、俺は茹でるところまでの担当で、湯切りするのは親父さんだが。
でも、俺が茹でた麺を切る時の音が一番いい、という自負がある。
俺はこの店が開店した十五年前からここで働いている。
当時親父さんはラーメン店を開くというんで、コツコツと資金を溜めながら、ラーメン修行をしながら、そりゃもう大変な努力をして来たらしい。
四十近い年齢で脱サラするってんで、奥さんは話を聞いた当初は相当――それこそ、ヤスコさんを連れて離婚しようかというくらい悩んだらしいが、親父さんの覚悟が理解できたらしく、ようやく出店の運びとなったわけだ。
開店当時俺の他にもいた同僚は、数年のうちに櫛の歯が欠けるように減って行った。もちろんその代わりに新人も時々入って来るんだが、俺の同期はもういない。
仕事を辞めるきっかけは、大体怪我や火傷だった。
たまーに、お弟子さんが暖簾分けされる時について行くやつもいたが、そいつらは元気でやってるだろうか。
暖簾分けといってもまだ二軒しかないし、そのうちの一軒は早々にフランチャイズのラーメン店に鞍替えしてしまったらしいが。
「ナガテ!」
親父さんが俺を呼ぶ――おっといけない。仕事に集中しないと。
ヤスコさんは俺に懐いてくれている。
その昔は、「ねえお父さん、ナガテと遊んでいい?」などと、店の休憩時間にはおままごとに付き合わされたりもした。
今でも時々、昔からの常連さんの間でその頃の話が出るが、ヤスコさんももう成人済みだ。
「もぅ……やめてよう、そんな小さい頃の話は」と、頬を赤らめる。
小さい頃のヤスコさんも、はきはきと店の手伝いをしている今のヤスコさんも、俺にとっては心のオアシスだった。
いずれ、この店はヤスコさんの結婚相手に譲られるのか……そうでなきゃ、お弟子さんが引き継ぐのか。
どっちにしろ、俺は親父さんが決めた道について行くだけだ。できればその時まで現役で働いていたいものだと思う。
「あぁっ! す、すみません……」
先月から入ったバイトがまたやらかしたらしい。俺はひっそり舌打ちする。
新人は道具の扱いに不慣れだから、思わぬ怪我をすることも多い。だが自分が怪我をするだけならまだしも、時には俺らにまで迷惑が及ぶこともあるので、なかなか油断ならない。
こいつは先週、チャーシューを切ってて自分の指まで切っちまった。幸い傷は浅かったが、バイトの血が飛んだチャーシューはもうお客には出せねえ。
バイトに買い取らせりゃいいのにと思ったが、親父さんはそうしなかった。
まだほぼ丸々ひとつ分のチャーシューを、そのバイトに黙って渡した。責任持って食え、ということらしい。
こいつが調子に乗って、チャーシュー欲しさにわざと手を切りでもしたらどうするんだ……と俺は考えたが、取り越し苦労だったらしい。
傷が塞がってからのバイトは、包丁の扱いには慎重になった。
……だが今日は、丼を落としてごわんごわんと騒音を立てやがった。
食品だけじゃなく、道具の扱いにも慎重になってもらいたいもんだ。道具がなきゃあ、ラーメンは作れないんだぜ?
* * *
夜の時間帯には、ヤスコさんが久しぶりに手伝いに入った。
そういや、奥さんは寄り合いがあるとか言ってたっけな。夕方の仕込みが終わると、いそいそと出掛ける準備をしていた。
ヤスコさんが店に入ると、売り上げがいつもより上がる。
いや、奥さんが駄目ってんじゃない。奥さんも気配り上手で愛想がよく、親父さん共々お客からの信頼は篤いが、やはりこれは年齢による華やかさの違いだろうな。
ヤスコさんが現在フリーだということも、若い常連客を長っ尻にさせる要因のひとつだろう。
「お前ら、こんなとこで油売ってねえで、さっさとラーメン食って帰りやがれ」と、こういう日の親父さんは、時々憎まれ口を叩く。
だが若い連中はビールやつまみを先に頼み〆に麺を食べるので、なかなか俺の出番が来ないわけだ――もっとも、普通にラーメンを食べに来るお客も半数はあるので、それなりに麺茹でしているのだが。
「ナガテが暇だって言ってるわよ」と、絶妙なタイミングでヤスコさんが笑うと、ようやく若い連中はそれぞれに麺を注文し始めるのだった。