第九十二話 ワイツの希望
血か、炎か、夕焼けか……足元に踊るのはどの赤か、もはや判別できぬほど知覚は削がれている。意外なことに誰も倒れず、体力の劣るライナスでさえ、呪具を半分近く焼失させるも立ち続けていた。
まだ生きている。動けるのなら上々。剣握れる限り、私たちは愚かで無意味な死闘を、合理かつ最効率の手法で続けるまでだ。
この一幕を永遠などと嘯くつもりはない。私たちがどのような思いを乗せ、どのように感じていようと所詮は夢幻の刹那。傾いだ陽、橙光の一端が地平に呑まれる頃にはもう……すべてが終わっている。
だからこそ魂に焼き付かせよう。この一瞬、散乱する血と光の一粒も余さず、心に刻み込む。
聖女の血飛沫は美しい。削いだ肉片が光塵と転化し、本人に還っていく有様は、せっかく与えた負傷を無為にする行為だが……私は感嘆を禁じ得ない。
もっと見ていたい。だが、赦されないことなのだろう。聖女が私たちと戦ってくれていることがすでに奇跡だ。美しい光景を抉り出せるだけ贅沢というもの。
何もかもが朧げな戦闘風景の中、迷いから醒めた聖女が、大きく白鎌を振り上げるのを見た。彼女も感じているだろう。私たちが満ち足りていることを。この上なく幸福であることを。
せめて……至福の心境にて、命を断つことも女神の慈悲だ。
新たな術の展開か……白の少女を中心に魔力が渦を巻く。苦痛のないようにと、一瞬で私たちを消滅させるつもりなのだろう。
なぜだかひどく懐かしい。私の旅の大半は、そういうものを求めて歩いていた。過去の望みであれ叶おうというのに、物足りないと感じるとは……私も貪欲になったものだ。
「けれど……私は、願わくば……」
心から求めた……"星"を、手にしたかった。
真の"曹灰の貴石"を一目見たかった……!!
未練を自覚するが為す術もない。殲滅の光が聖堂を覆い尽くす前に、重い衝撃を脇腹に受けた。私は跳ね飛ばされて床に倒れ……気づく。
聖女の魔法は、このような極金の色をしていたか……?
「違う……っ、聖女!! あなたは……!」
夜空に冴える月光の慎ましさを忘れ、代わりに溢れたのは白昼の黄金。聖女を基点に描かれた光の陣は、幾重もの術式を現し、弔いの祭壇を形成する。
私と同様に皆も弾き飛ばされており、陣の外で這いつくばって呻いて、その発現を見届ける。
感覚でわかる。逃れられない……いつだって光は掴めず、嘲笑うかのよう瞬く間に透過する。しかし聖女はその前に、私たちを……
「"雷帝の紋章"」
はじめて聞く声だ。若く、瑞々しく……冷酷な少年の歌声が、世界に鳴動した。
大気を慄わす、それは詠唱。紋章が刻まれた地から天へ……光柱が顕現し、領域に存在する何もかもを無に帰す……不死者"聖女"とて例外ではない。
轟音とともに水晶が割れるような悲鳴を聴く。その調べは生命の危機を表していた。"絶対防御"なしで浴びる光芒は、彼女の細胞を悉く灼き滅ぼそうと降る。
全力の治癒をもってしても、欠けたる自身は取り戻せない。
言葉にならない驚愕で胸を焦がすも、私たちは発現者の姿を探し、聖堂の隅にその姿を見た。
真っ先に濃紺の短髪が震えて……メイガンは激情のまま叫ぶ。
「テティス!! てめえ……なんでついて来やがったんだ、この馬鹿が!!」
兄貴分から叱責を受ける前に、テティスの顔は涙で濡れていた。情けなくしゃっくりあげながらも、傍に立つ人物を支え、術の照準を取らせている。
介助は必須だったのだろう。なにせ"彼"は根元から右腕がない。無事な手で持つ杖だけでは、身体の均衡を保てなかった。
秘密裏に記した紋章は女神を分解して天に流す。それまで、ただ見つめるだけでいい。魔杖に"玉"は備えついておらず……乱れた金糸の下、爛々と輝く蒼穹色は魔眼。
"不死の王"は生来の身体そのものが宝璧である。
防壁の護りがないとはいえ、聖女の反応速度なら避けることも可能だった。けれど被弾したのは、回避の時を私たちのために費やしたからだ。
「……っ、ごめんなさい。私、最後まで……皆様を救う方法が、わかりませんでした……」
謝罪のために上半身のみを治癒し、発声器官を確保する聖女。光の御柱に磔られた彼女は、散華の未来を受け入れている。
敗因の私たちのことを憎まず、恨まず……ただ無事であることに安堵し微笑む。
「そんな、聖女様……もう逝ってしまわれますの?」
「ええ……少し離れていてくださいね、危ないですから……至上の幸福にある皆様を、ここで亡くすわけにいきませんもの」
「聖女!! てめえ……ふざけんな! なんだよ、こんな中途半端な決着はよ……!」
「なぜじゃ……どうして、わしらを庇うような真似を!?」
「……だって、私……神に、なりたいから…………たくさんの人を幸福にしたい私が……皆様の幸せを壊すことなんて、できませんもの……」
満足気に緑柱石の瞳を閉じる。完全なる飛散まで間もない……そう思い至った瞬間、激しい焦燥で心が煮え滾る。
「待ってくれ聖女! もっとだ……もっと、見せてくれ!!」
今でも私は王家の狗。卑しい雌犬から生まれた、醜く穢らわしい畜生である。けれど、聖女なら厭わず祝福をくれる、私を認めてくれる。
まさしく彼女は聖人だった。惨たらしく死に、飛び散った私の肉片にも、救いの接吻を落とすと確信できるほどの……
魔女から与えられたものと違う、別の救済を幻視した。その一端を掴み取ろうと彼女に縋りかける。
「私に光を……!!」
「いいえ……見るべきなのは、こちらではありませんでしょう? 羅針盤はもうお持ちのはず。あなたが……心に抱くという"星"、いえ……"希望"のことですわ…………無力な不死者でごめんなさい。今の私はこのくらいのことでしか、あなたの助けになれないの……」
花弁のように舞う聖女の欠片が、前にのめり出た私に注がれ、優しく押し留められる。頬に触れた光塵は消えるも……何か、熱いものが私に宿った。
「だから生きて。"星"を信じ続けていれば……必ず、願いは叶いますから……」
遥か大空に光が昇っていく。不死者"聖女"は核も残さず散り、黄昏は終わりを告げた。
昼とも夜ともとれぬ世界を、絢爛たる黄金の恒星が発現し、引き裂いた。比類なき高威力の魔法は、"彼"の既在証明……
久しく見せた感情は哀切。白皙の面差しを憂いで歪め、"会えなかった"と呟き……少年は蒼い魔眼から涙を零す。
"誰"のことを指しているか思うだけで胸が詰まる。同じ場にあったのに、触れ合う距離にまで至ったのに……悲運にも彼らの心はすれ違った。
「……あ、なたが……"不死の王"、か?」
欠けた剣を支えに立ち、皆の問いを代弁する。一応、この軍……ニブ・ヒムルダを代表する身として、"彼"との対話は許されるだろう。
尋ねに対し、なぜかテティスが激しく首を振って反応する。力を使い果たしたのか……二人はともに床に座り込み、私たちが歩み寄るのを待っていた。
高貴なる少年は、静かにこちらを見上げて云う。
「ワイツ……あたし、"王様"に会えなかったわ」