第八十六話 ワイツの眩暈
魔女様! と、喜びを隠さず呼びかける聖女。満面の笑みに応じて、黒の少女も勢いよく駆け寄った。ただし手を広げているのは親愛の抱擁をするからではなく、あくまで相手の内臓を掴み取るためだ。
意外なことに聖女は防がなかった。一切守るそぶりを見せないまま、魔女の腕が細腰を貫通するに任せる。
最初の負傷はご愛嬌と言わんばかりの笑み。痛がる様子もない。聖女は際限なく再生する不死者、痛みが死へ近づく警報であるなら、この程度の攻撃では反応すら生じないというところか。
私たちが髪や爪を切っても何も感じないのと同様に、腰骨を壊され、腹を掻き回されたとしても彼女に痛みはない。行動不能となるまで遥かに遠い。
抜く手に傷穴を拡張されても慈愛の笑みは揺らがなかった。瞬時に再生することはわかっていたが、その方法は初めて見る。
溢れた血と腸、小粒の白いものは砕けた骨だろうか。傷を負う姿は私たちと変わりない。しかし、噴出した体液は床に落ちる前に光の粒子と転化し、もとの肉体に還っていく。
後方に控えるカイザの驚嘆が気配で伝わる。私も気づいた。この様子には見覚えがある。
最強の信者、ローアが使った術。生物を光塵に散らす魔法は、聖女の特性を模倣したものだったか。
彼は本当に彼女を慕い、動作の悉くを目に焼き付けた。不死者や女神としてではなく、一人の女として愛したからこそ、思いは魔法に昇華したのだ。
ならば聖女こそが、あの美しい光の大元。私の理想の終着点。
ローアと同じく記憶に刻みつけよう。ニブ・ヒムルダ王家"曹灰の貴石"も、正しく搾ればあのような輝きを垂れ流すはずだ。
「どう? 約束通り来てあげたわ。大丈夫、今度は前みたいにすぐ帰ったりしないから。うるさい連中もいないものね」
「私もずっとお待ちしておりました、魔女様。会えて嬉しいですわ。しかも、たくさんのお友達といっしょに来てくださるなんて、珍しいですわね」
「これはあの時、あたしの邪魔をしたお礼よ。まずは原型を留めない程度に砕いてあげる」
破壊を宣告する"聲"、誘う仕草も魔を孕んでいた。死の響きが聖堂と私たちを震わす。譫妄と狂気のままに振り散らす呪い。今は聖女への憤激として爆ぜる。
魔女の攻撃は純情、無垢ゆえに残忍。彼女の報復の念はいかなる武器にも載せられず、やわい手としなやかな脚で握り殺し、踏み殺す。
これ以上被弾する慈悲はないとばかりに、白の少女は絶対防御の魔法を纏い、襲いくる四肢を受け止めた。本気を出して対すべき相手だと両人ともわかっている。
「では、こちらも心を込めたおもてなしをさせていただきますね」
聖女は肉を毟ろうとする掌を聖衣でいなし、片手だけで捕えてみせた。空いている方の手を頬に沿えるように伸ばす。そして……突風と共に出現した何かを握って、振るう。魔女はそれを蹴りで沈めて手をほどき、束縛から逃れた。
二人の少女は最初と同じ距離で向かい合う。魔女の佇まいは不変だが、聖女は長柄を手にしていた。接近時に顕現させた"何か"。武器、いや神具と言うべきか……純白の鎌だ。
「聖女の得物は大鎌か。少し意外だったが……よく似合っている」
「っ……おい! 刃も柄も伸縮したぞ!! なんだあの武器は、どっから出した!?」
構えの姿勢へ動く最中にもしなって回り、柄の長さ、刃先の形状もろとも変化する。月が満ち欠けで形を変えるように、聖女の白鎌も半月、三日月型へと流れ移る。
メイガンが怒鳴った疑問は畏怖より発生したもの。聖堂前で接触した折、疾風と共にライナスを攫ったのも、おそらくこの神具だ。
「わからない? ほら、聖女は"無限に再生できる不死者"だって前に教えてあげたじゃない。肉体だったらいくらでも再構築できるの。治癒術が得意なのも当然よ。いつも自分の身に起こってることを再現すればいいんだから。足りない部位も自前の細胞を分け与えて治してるの。だからね……」
動揺する私たちが可笑しかったか、魔女は進んで説明をする。
疑問が解決されたとしても、伸縮自在の凶器を視認できぬ速度で扱う相手と、どう立ち迎えというのか。
「あの鎌、聖女の"骨"でできてるの。ちょっと再生しすぎちゃった分ってわけね。服だってそうよ。破れても元に戻るのは、素材があの子の皮膚や髪だからなの」
「その通りですわ、皆様。でも他にも何か気づきません? 以前、魔女様が訪れた際に、ご案内できなかったのですが……この聖堂、いいえ……」
鈴の転がる声で歌うように猟奇的な実力を認める。含みを持たせて話し、正答への足掛かりにと、柄の先端で床部を小突いてみせる。
打ち合い、硬質な音を立てるそれらは"同色"。まさか……
「おい! ……おい!! てめえ……」
「そんな……! それでしたら、ここは……この地はあなたの……!!」
「そうです。この町自体が"女神"でできているんです」
白の大鎌、大聖堂、聖地を成す材質……そのすべてが聖女。存在が破格過ぎて眩暈がしそうだ。
目に映り、足に踏むのは肉体の再生余剰分。私たちは彼女の世界に蠢く雑菌でしかない。
「聖女よ。ついに自然神まで侵食せしめたか……!!」
悍ましさに総毛立つライナス。感情表し流動する呪具は、今まで見たこともないほどに荒れ狂った。すべてはあるべき姿のままに。自然の意思を尊重するこの国において、聖女は史上例のない規模での冒涜、悪徳を敷いた。
「ええ、知ってたわよ。別に興味ないから言わなかっただけ」
困惑。不快感。強い畏れ。赦されざる所業への殺意。私たちの心へ様々な嫌厭の気持ちが巡りくる中、魔女だけは冷淡に事実を受け止めた。
やはり不死者は忌避すべき厄災だ。至高の七人には奇異な者たちしかいない。
気だるげにぽんぽんと手を叩く魔女。死闘の余韻が抜けない私たちに、拍手の音が虚しく通り抜ける。
私は皆に目配せし、一ヶ所に集まって戦法を話し合う。唖然としていてもしようがない。常人は常人らしく不格好に足掻くとしよう。
「それじゃ、"挨拶"と"自己紹介"が済んだところで本題といきましょう。あたしの"王様"はどこなの? 聖堂中探し回ったけど、どこにもいなかったわ。残る部屋はここだけ……ねえ、怒らないからさっさと出して。今なら塵芥になるくらいで許してあげるから」
「うふふ……わかっておりますわ、魔女様。でも慌てることはありませんのに。あのお方が逃げられないことはご存知でしょう?」
魔女はまだ"不死の王"を殺せていない。あれだけ時間をかけても見つからなかったらしい。比較的穏やかな口調で交渉するも、返事の内容で再び激した。金の魔眼は仇から逸れない。
視線だけで呪詛をかけるよう、一心に見つめ……絶対防御の穴を探している。
聖女はしばらく魔女を見つめ、その熱意を堪能した後、大鎌を退いて女神の祭壇から離れた場所に立つ。翠の瞳を向けた先……白壁が欠け始めた。
「王様はこちらにおられます」
やけに素直だった。罠かと思うほど、あっさり秘匿の人物を露わにする。女神教の印章、祭壇の装飾が溶け落ちた内部に……魔女の追い求めた人影がある。
最高位の不死者、"王"の御開帳だ。
微笑み止まない聖女はもちろん。私たちも、魔女すらも声を発さず彼の姿を迎えた。
最初に思ったのは……意外と若いな、という印象。不死者"魔女"が、千年をかけて我がものとしたかった魂がそこに在る。
今は聖女に囚われ、"魔力の塊体"の材料として扱われるに墜ちた……
"不死の王"は少年の姿をしていた。
男と既知でなければ判断できない中性的な相貌。髪は照り盛る日輪の如きの黄金、蒼穹の色を瞳に戴く容姿は幼くも威風靡かせ、支配者としての大器を感じさせる。
未成熟な肉体は二人の少女と揃えたほどの年恰好だが、風格は只人と一線を画す。
……ただ空虚だ。決定的に足りない。今の"王"はどこかが欠けていた。
魔力の供給源として、根元から断たれた右腕のことを言っているわけではない。瑕疵の理由は知っている。私たちはみんな……わかっている。
心を壊した者と会うのは二度目だ。