第八十四話 ワイツの激昂
華奢な背に広がる髪は黄金の野を思わせた。女神に信心なき異教の民の目から見て、その緑の瞳も神聖な色彩だと十分に認められる。
少女は世界の多くから愛と信仰を一身に集める存在。女神教の創立者かつ、"聖女"と呼ばれる不死者である。宗教画で描かれ、神像に象られるそのままの姿で降臨する。
この地が平和かつ、清貧な信者集う教会などであれば、彼女が慈母の如き微笑みと愛念抱くのはわかる。しかし、どのような状況においても祈りを絶やさない姿勢は異常だ。
私たちは敵で、愛すべきはずの信徒は生と死の狭間で迷っている。今も、少女の聖衣を揺らす風は、夥しい信者からの断末魔を運んでいた。
邂逅から数秒経るが驚愕のあまり誰も声を発さない。本来、神殿奥に座すはずの聖女が、自ら潜入の戸口を開けているのだ。おまけに対抗策たる不死者"魔女"はあいにくの不在……
それでも……私とメイガンは足を踏み出した。強大な敵に屈せず、戦闘の体勢に移行する動作は、言の葉を介さずとも兵らを鼓舞し、殺意を漲らす切欠となる。
だが、聖女は私たちの闘志に一切応じなかった。
「あら、そちらの御方……」
聖緑が私から逸れた。少女は優しげな眼差しを他所に向ける。私の大柄な部下へ……いや、その背にある人物へと移る。
「おじいさん。あなた、怪我をしていますね」
何気ない発言の終わりに突風が走った。咄嗟に手で目を覆い視覚を守る。
頬に感じたのは芳しくあたたかな風であったが……私は戦慄して背後を見やる。隣のメイガンも顔を蒼白にして振り返り、必死で目を凝らした。
これがただの風魔法……或いはいつもの魔力の放出、不可視の力ならまだいい。しかし、私たちは確実に"形あるもの"の通過を感じ取った。
たおやかな外見ではあるが、やはり彼女は"不死者"。身体能力は常軌を逸している。視認できぬ速度で救いの手を繰り出せるのなら、一瞬で私たちの首を刈ることなど造作もない。
「ライナス様!!」
カイザが正面を指して叫んだ。階を挟んで聖少女の造形を見上げれば、その間近に暗褐色の布塊が置いてある。へたり込むそれは老魔術師ライナス。何らかの術によって、後方から掻っ攫われたのだ。
困惑醒めぬ目線で現状を探る。どういうわけか聖女は見抜いた。この軍の中で彼が一番の手負いであると。
先に老爺から見せしめに潰すつもりか。高齢とはいえライナスは重要な戦力の一強。この場で真っ先に引き裂けば、圧倒的な実力差を示す効果はある。それとも彼を人質に取る気なのか……
己が身に起きたことも信じられず、愕然とするライナスに……少女は花の咲くような笑みで云う。
「左腕を見せてくださいな、おじいさん。その傷、私が癒して差し上げましょう」
「!! ……っ!」
萎えた老身は拒絶の意志と殺気で満ちた。言葉で表すよりも早く、ライナスは呪具に抗戦を命じた。しかし、暗布は動かない。握り締めていた杖すら指をすり抜けていく。
落ちた薄墨の玉が段差を跳ねる頃に気づく、これは武装解除の魔法。以前にかけられたものより強力だ。自身が武器と思うもの、あるいは聖女の治療の妨げと認識した装備が、根こそぎ剥がれていく。
「は……? やめっ……止めよ!! そんな……!」
「……ライナス殿」
「なっ……あ、ああ……!! い、嫌じゃ! みるな……わしを見るな……!!」
暗布は魔力を通さず、すべての結び目は解けた。体の一部のように流動し、老体を支えてきた呪具はただの布切れと化し、石段の上を滑り落ちていく。隻腕で掻き集めても姿を隠すことはできない。
この帯には、衰えた自身を介助する意味も大きかったが……愛用した一番の理由は、体の秘密を隠匿するためだろう。布のどこかに書かれた擬装の術式も効果を失った。
頭の巻き布が取り去られ……初めて目にした老魔術師の髪色は白。経年の影響で色抜けたというより、最初から何にも染まっていないほどの無彩。露わになる肌も壊死した左腕以外は他と同様に、光の抜ける無色である。
白無垢。それこそ、人形と見紛うほどの極端さ。少なくとも同じ人間だと思えぬような……
兵らはどよめいた。聖女すら不思議に思ったのか……あら? と訝しみ、小首を傾げつつ治癒を施していく。
一方、私だけは信頼と忠誠の証として、すでに本人から打ち明けられていたので驚きはない。
彼は"聖種子"。
今は絶えたニブ・ヒムルダの伝統において、"世界の鉢"に囲われる御神体として祭られた存在……一族から幸運を呼ぶ道具とみなされ、軟禁の憂き目に遭った人物である。
「何だ? あの、肌は……異形な」
「そんな! ライナス殿は我らと同じニブ・ヒムルダの民ではなかったのか!?」
「ならば……例の血清はどうなる? 本当に効果があるのか? 我々はもう何度もメイガンの水に触れている! 信者たちのように被害を受けるのでは!?」
兵らの、武器に伸ばした手が震えた。各自切り札として配備した"メイガンの水"は、老魔術師の開発した血清があったからこそ活用できる。
ライナスが自分を被験体にし、呪われた水の対処法を解明した。兵らは同族が作成したものと信じて投与を受けたのだ。だが、彼の誰とも異なる容姿を見、呪いの耐性についての不安が噴出する。
疑念の言葉は礫となって老爺を打った。恐怖を想起したからか……彼は竦み、身動きすらままならない。
「静まれ!! 皆、ライナス殿への恩義を忘れ果てたのか!?」
私は激昂したように大声を発し、動揺にさざめく部下らを怒号で黙らせる。こんなことで戦意挫くなど許さない。最後の敵が目の前にいるのだ。今更怯んでなどいられるものか。
声を大にして主張し、部下の心の舵を取る。不都合な方角から目を背けさせる。あと"協力者"の出現を待つ時間稼ぎも必要だった。
「外面の相違が何だというのだ? そんなことでライナス殿の信頼が消えるわけもない。この御仁の働きがなければ私たちはとうに死していた! 高邁なる魔術を用いて、守り、癒し、敵を討ち払ってきたライナス殿こそ、ニブ・ヒムルダ救国随一の功労者なるぞ! その彼に疑心を抱くことは私への反逆に等しい。これ以上猜疑を喚くというなら、即刻私の軍から去れ!!」
単身でも老爺を助けに進もうという不屈を見せれば、つられてほぼ全員が私に倣った。
いつでも戦える状況にはしておいた。ただ、私たちだけで闇雲に斬りかかっても大願は果たせない。より強力な攻撃を発現しなければ、この乙女に傷ひとつ刻めまい。
魔女はいまだ目的を達成できていないのか。反撃の手段が到来せぬまま……先に聖女の治療が完了した。
「ほら、これでもう大丈夫ですよ。また動くようになりました」
治癒魔法の光が収まった。触れていた手を退けば、その下の腐食が残らず祓われているのを目にする。彼女は初対面の私たちに、絶望的な力の差ではなく、底抜けの寛容さと奇跡の御業を見せつけた。
不治の傷を癒してみせるのは改宗を呼びかける常套手段。普通の人間であれば驚き、感謝し……彼女を女神と信じて、崇め奉るだろう。
「う、あ……ああ……お、のれ! 何ということを……!」
しかし、私たちに信仰は芽生えない。
「許さぬ……許さぬぞ、不死者"聖女"!! なぜ、わしの腕を治した!?」
「……え?」
「あの負傷は、わしが命を懸けて追究を成し遂げた証左。そして…………かの者がわしを心から案じ、叱ってくれた思い出がある。今は亡き"彼"の心を唯一感じられる箇所だったというのに……!」
呪具を奪われ、薄い法衣のみを纏った姿のライナス。不死者に対抗する術は持たないが、彼女の所業に怒り狂い、復活した腕に爪を立てる。
想定外の反応に対し、初めて聖女の笑みが翳った。
「どうしてそのようにおっしゃるの? あなた方は女神の救いを求めにいらしたのではないのですか? 私に信仰を捧げれば叶わぬ願いなどありません。使徒の皆様の力はご覧になったはずでしょう?」
「世迷言をほざくでない、この……傲慢な小娘が! わしがいつ腕を癒せと懇願した!? 傷がなければよいという……おぬしの身勝手な酌量で、わしの人生を弄ぶな!」
「傷つきたくないのは誰にとっても同じではありませんか? 私は世界中の人々を幸福にしたいのです。皆様のために祈り、導き……洗礼を施すのも理想を叶えるため。この治癒も、あなたのお体に良かれと思って……」
「なら自身の行いがすべて正しいと断じるのか!? それで、そんな心根でおぬしは女神を称するか……なんとも救い難い諸悪! 唾棄すべき妄言じゃ!」
暗布の散らばる場所まで這い、触れて魔力が流せることを確認すれば、一気に身へ巻き付ける。
白磁の肌と石畳に暗褐色が流れ、蠢く。業を背負うようにして……老魔術師ライナスは立ち上がった。
「聖女よ……その優しさ、情を持つ限りおぬしは決して神にはなれぬ。その生命の果てに至るとも神位に就くことは永劫ない!! "世界"と接続し、無限の力あれど、おぬしが世の救済を成すことはできぬ」
「なぜですか? 皆様が女神のために祈り、一つの信義が世界の規範となれば、争いは二度と生まれません。洗礼を受ければ魔力も得られます。あとは、皆様の信仰次第でいくらでも幸福となれますのに」
「否!! 神に意思などいらぬ。ただ四季を巡らす秩序であればいい。どんなに強き力持っていても、意志疎通できれば人は畏れぬ。交渉を持ち掛け、篭絡を図り、意のままに動かそうとする。今のおぬしと信者どもがまさにそうじゃ! ゆえに……手段としての供物は減らぬ。生贄の風習は無くならぬ……!!」
女神の理想が自然神の道義とかち合った。"緑の王"の雄大な在り方と比べれば、聖女の目的は与しやすい。
自身の行いに対して少しでも反応があれば、人は"もっと"と期待をしてしまう。うまく彼女に取り入れば、より力を得られる、占有できる……かのムルナ村出身者のように、野心は尽きることを知らない。
神への献上物が気休めでなく実益をもたらすなら、捧げる手は止まない。世に犠牲は無くならない。
その心理にずっと苦しんでいたのが、ライナスと……"彼"だ。
「"怨讐の柊"を代理して、わしがおぬしを否定しよう! 不死者"聖女"よ、おぬしが理想を叶えた先……洗礼を受け、欲望満ち足りた信者が次に願うのは"他者の不幸"じゃ!!」
色彩なき体に影を纏い、闇と混ざり育った種子。老成するまで生き抜いたライナスは、宣戦布告とばかりに魔撃を喚ぶ。
芽吹いたのは蔓草……幾人もの信者を切断し、血を啜った"黒茨"。得意の幻木を発現したか。以前から、研究の成果を女神に浴びせたいとは言っていた。有言実行とがてら、茨は束となって枝葉を伸ばし、聖女に棘を剥く。
巻き付き、振るって四肢を薙ぐつもりか……見慣れた戦闘に参加するべく、私たちは加勢の機会を待つ。だが、黒の蔓が聖女に触れかけた刹那、その先端に紅が舞った。
あれは……花か? しかし、あの色は……
「ああ、ギラス殿。ともに女神を焼き焦がそうぞ――――」
花弁の散華にも似たそれは、炎。
かつて"彼"が欲したように、神を囲って燃え盛る。
その魔法に関して、ライナスは一切の詠唱、術式の記述を行わなかった。腐蝕した腕が癒され、目に見える形での証が消えた今、ギラスを感じられるものは記憶の中にしかない。
忘れ得ぬ怨嗟の光景。強い激情を、ライナスは友の形見とばかりに受け取った。この世界において、魂を揺さぶる思いは魔法として発現する。
在りし日の憎悪をそのままに……"大熱雲"は再度の炎上を遂げた。
身に染みて脅威を知っているからか、自軍にいち早く避難を呼びかけたのはメイガンだった。ライナスの身柄を抱えて退き、狭い路地裏で再現された炎獄を恨めしく、けれどどこか懐かしげに見送る。
"柊の"……と独自の呼称を呟き、結局最後まで越えられなかった戦士の面影を焚き上げる。
私は咳き込む老爺の背を擦りつつ、彼の数奇な運命と歪な魂に思いを馳せる。
聖女に放った豪炎は自身の安全をまるで考慮していなかった。先に"黒茨"を発現し、火焔を誘引する手法も……胸に秘めた願望を表すようでもある。
「ライナス殿。あなたは……そうまでして、ギラスを……」
「……生涯、忘れぬ」
その絶望も、狂気も……虚無も。
「確かに、皆様には女神を信じる理由がありませんね。それに、この国には別の神様もいらっしゃるとか」
炎塵の向こうから声がする。予想はしていたが、思ったよりも涼やかな音色に、皆は死闘の覚悟を固めていく。
渾身の炎であったにもかかわらず、金糸の一本も焦げず、灰は清輝に阻まれた。
"聖女"……無限再生の特性を持つ不死者を火刑に処すには、私たちの魔力はあまりにも乏しい。
「おじいさんの思いはよくわかりました。どうぞ奥に参られませ。私の祈りの間へ。どちらの教義が多くの幸福を招くのか……裁断を致しましょう」
皆様、どうぞ大聖堂へ……そう言って誘い、少女は微笑む。私たちも……"あの二人"も幸福にしてみせると、心から祈りを込めて語る。