第七十八話 ワイツの前進
震える掌が頬に添う。慈しみと悲愴を込めたそれは、同じ箇所を幾度往復しても反発なく受け入れられた。何の感情も沸き立つ様子はない。
そうやって手を伸ばし求めるも、本当に触れ合いたいものはここになかった。広い世界を探したとて見当たるはずもない。永久に失われてしまったのだ。
「ギ、ラス……殿……」
「すまない。この始末は私のせいだ」
座り込んだ老年二人を見下ろす。感情豊かに嘆き叫ぶライナスと裏腹に、反応の兆しすら見せない男がいる。
何も映さぬ虚ろな目、紡ぐ言葉すら忘れた彼は……かつて"ギラス"と呼ばれていた傭兵の残骸だ。肉体の支配者は両人とも世界を去った。
ライナスは纏う暗布に魔力を流すのも忘れ、生身の力だけでギラスに縋る。そうできるのも、近くに居られるのも、数時間前の彼には考えられないことだった。
雪風と兵たちの喧騒から逃れてきてしばらく経つ。私がカイザを身代わりにし、天幕から失踪したことは大きな騒ぎになったらしい。ライナス指揮のもと捜索隊が行脚し見つけたのは、噴煙が天へと昇る光景。
皆は最悪の事態を危惧したという。しかし、発生元での様子は予想図とは違っていた。
私は殺されずに済んでおり、魔女はなぜか手首を欠いている。その彼女はギラスに寄り添って別れを告げていた。私を殺さぬため、心を無くした彼に……
彼が心を廃した要因はこちらにある。私は真心から陳謝を述べるも、老魔術師は涙を振り散らす勢いでかぶりを振った。
「王子……わしには予感があった。ギラス殿が怒りに染まったときから、いつかこうなるものだと理解していた……」
「ギラスが壊れるのは時間の問題だったと言うのか、ライナス殿?」
「……然り。外敵には容赦せぬが、かの者は優しい。無差別に死を撒く災害になることを、本当は誰よりも恐れていた。世界を滅する存在は見過ごさない。後世に憂いを残さぬよう、全力で戦って打ち破る……そのような勇気も彼は有していた。たとえ……自分自身が相手であっても」
彼は犠牲になったのではない。あなたさまを守る戦いに勝ったのだ、とライナスは言う。失意の私を励ますようでも、恩を胸に刻んだか念押すようでもあった。
「王子や、どうかわしに教えておくれ。あなたさまがギラス殿の最後を見送ったのじゃ。彼岸に行ってしまう前に彼は、何と言っていた……?」
「ギラスは、あるがままの私を認めてくれた。そして……"星"を見つけよと諭してくれた。それがあれば世界の長い夜を拓くことができる。二度と、夜道に迷うことはない」
私が死を求めたばかりに、"善き彼"は心を割るほど苦しんだ。それでも別の自分を制し、この魂を光の下まで導いた。私の命を認めてくれたのだ。
道を選ぶ権利があると教えてくれた。だからこそ……私は進まねばならない。
過去に私が信仰していた、母親の持つ"外面の美"はこの手で無効だと証明した。あの時と同じく弟の玉体にも失望しかけたが……まだ結論は出ていない。"ないという証拠はない"。
ギラスに教わったとおり、新たな光を見つけるのだ。今度こそ、ニブ・ヒムルダ王家の一族から"曹灰の貴石"を取り出してみせる。それが私の……
「"星"、とな……」
「ああ。私たちが守るべきもの。求めて進む道導だ。その対象として、ギラスは自身の仲間たちを選んでいた。皆にも同じく目指している輝きがあるのだろう? 私も選んだ。これからは自由に、信じる光を追い求めよう」
「では、ワイツ王子! あなたさまは……あなたさまの、心は……?」
「心は決まった、"私は生きよう"。この場で誓ってもいい……私はもう二度と死を望まない。自分の信じる光を胸に抱き、ただそれを目指して前進する」
ただ突き刺し、中身を掻き出すのではない。潰す、焼く、煮る、溶かす……各部位に術式を刻み込むよう念入りに処置する。その上で魔法を浴びせるのもいい。火炎、氷雪、疾風、雷光……しかるべき位置にしかるべき術を施せば、いつか玉璧が顕現する。
これは揺らがぬ事象なのだ。不死者が"魔力の塊体"を生み出すように。魔女が実演して見せてくれたように……"曹灰の貴石"は実在する。私は採掘に努力すればいい。
私が真に欲しかったのは従うべき命令でなく、"彼ら自身"が放つ光なのだ。
「無論、この任務は最後までやり遂げよう。私の光ある世界に女神の存在は不要だ。それは……ギラスが求めていたことでもある」
「しかし、ギラス殿の魔法は尽きておる。かの者はもう戦えまい」
「わかっている。部下にも伝達済みだ。敵が来ないのを見計らって、弟の死体や負傷兵たちとともに都まで送らせよう。傭兵団"柊の枝"はまだこの国にいる。かつての仲間に会わせてもいい。療養所に運ばせて保護するのもいい……」
「お待ちを!! どうか……もうしばらくだけ、わしにギラス殿の治療をさせておくれ! わしなら癒せる……! 自身の名すら思い出せぬまま放逐するのは……あまりに惨い」
去りかける私へライナスは喚声を浴びせる。国随一の知恵者であるはずなのに、ここまで聞き分けがないとは驚いた。"彼"のことに関してはどうしてこうも理解が悪いのだろう。
「……この期に及んで、そんな戯言を吐くとは救い難い。ライナス殿……悪いがこの際、はっきりと言わせてもらう」
出口に手をかけたまま、首だけで振り向き告げる。
酷なことだが、まだ私たちの戦いは続くのだ。背負うに重すぎる感情も、この地で断ち切らねば聖地に進めない。
「ギラスのことは諦めろ。あなたの魔法は確かに素晴らしいが、彼を害することにしか作用しなかった。あなたがしてやれることは何もない。いや、あなたは彼に触れるべきではないのだ…………茨も、柊も、擦れ合ったとて傷つくだけだろう?」
言い放ってからは反応もなく。ライナスは何も返さず、泣き声も絶えた。独特な色調の瞳を見開いて、友となるはずだった男の、変わり果てた姿を眺めるのみ。
出発時間だけは告げておいた。砕け散った絆の破片をそのままにして……天幕を後にする。
私も思う。私も願う。
せめて、残された彼の余生が穏やかであらんことを。
進むと決めてからは慌ただしく時が流れる。今一度装備を整え、戦闘可能な人員を確認する。
当初は五十いた精鋭も半数以下に減った。戦力の一角も去った。けれど、失ったもの以上に高まるものはあった。覚悟はとうに定まっている。
気持ちに揺らぎがあるとすれば、それは……
「なによワイツ。言いたいことがあるんなら、さっさと言いなさい」
漆黒の日傘を咲かせ、表情と姿のほとんどを隠す不死者"魔女"。振り返って視認せずとも私を言い当てる。
これまで、彼女の目的については単純な印象しか持ち得なかった。"不死の王"の殺害という、飽きもせず繰り返されてきた生と死の輪舞。ただ、紅玉の真実を聞いてからは、別の意図が見えてくる。
「まぁ、あなたが何を言うつもりなのかは、だいたいわかるわ。でもね……なんですぐにわかっちゃったのかしら。あの杖の宝玉は"聖女"が作ったものだって思うのが普通じゃない?」
「君が最初に教えてくれた不死者の特性。その事項に当てはめれば、精製者が聖女とは考えられない。その他の状況も、私の案と合致している」
本来の目的を隠していたのは私だけでなかった。こちらが伏せていた秘密と違い、彼女は知られることを恥と思ったか、あえて語らなかった。
「不死者の復活方法はそれぞれ異なる。君は他者の死体に魂を移すことで不死を叶えた。聖女は無限再生の特性を持つために死なない。君たちは肉体を削ぐことで"魔力の塊体"を生み出すが……聖女はそれもできないのではないか? 血肉を切り分け、四肢を落としたとしても……彼女は即時に再生する」
「……察しがいいわね、正解よ。聖女はみんなにあれこれと世話を焼くけど、魔力を分け与えることだけはできなかった。本当に……"神の力"を宿して、万象成就の『願い』を使わない限り無理だったの。聖地で"あの玉"を創れるのは王様だけ……もちろん、あの人は気前よく自分を差し出すような性格じゃないわ」
「では君の王は、やはり……」
彼は聖女と協力していたのではなかった。彼女を臣下に迎えたわけでもない。むしろ真逆。最高位の不死者といえど、無限の魔力を持つ聖女に敵わなかった。
王は聖地に囚われているのだ。生きたまま身体を切り裂かれ、魔力を奪い取られている。魔女は彼を殺すと声高に言っていたが、それは助けることと何が違おう。
どこまでも広がる白銀を背景に、闇の愛し子は私に正対し、思いの丈を叫ぶ。神々しく晴れ渡る空に日傘が翳った。まるで日食だ。
拭えぬ影がここにある。これから怒涛の浸食を開始しよう。使徒が祝い、使徒が祈った大地を穢すのだ。
私たちは世界で最も美しく、光輝く場所を暴く。
「会えばわかるわ。目が合った瞬間、みんなみんなあの人を欲しくなる。"欲しいなら奪ってみろ"って、人を焚き付けるのは大好きだったけど……あたしは許せない。王様の全部はあたしが貰うの! 聖女やただの人間にだって渡さない!! わざわざ他人に構ってやって、奪われることも許容する……"とっても優しい"あの人を、あたしは絶対に殺してみせるわ!!」
遥かなる者への殺意を想起し、感情は嵐の如く冬の朝を吹き荒れる。直視すれば魂が壊れる魔貌にも、今の私は影響を感じなかった。
目的は同じだ。この心は彼女と同調しつつある。これはきっと皆も同じ思いだろう。
「おい! なんだこの風は、ワイ……!?」
異変に飛び出して来たのはメイガン、後ろにテティスとカイザの姿がある。皆は殺気漲らす魔女にまず驚き、次になぜか私を見て声を絶つ。
カイザは藤色の瞳を丸く開いている。口を押えてへたり込み、言葉にならぬ激情を細身に宿す。
暗緑髪の少年などはいつもの下品な台詞も吐かず、吸い寄せられるように槍を構え突進してくる。本能のまま殺害に走る彼は、メイガンに横から殴り飛ばされ、かなりの距離を転がった。
「ああ……ああ! ワイツ、団長……!!」
「どうした、カイザ? ……その顔は何だ?」
「だって! あなたが、笑っているから……!!」
この世界に喜びはある。
幸福は実在する。
「行こうか、諸君」
慣れぬ表情のまま呼びかける。誰に教えられたわけでもない。心の底から嬉しいと思う事象に対して、人々はこのように感情を表す。
私たちの望む未来は、ただ一つの障壁を乗り越えれば迎えられる。それがわかっただけで胸が弾む。今から楽しみでたまらない。
「どうやら私は……本当に不死者"聖女"を殺さなければならないらしい」
向かい風に逆らって彼方の光景を仰ぐ。
潮の香りをかすかに感じた。