第七十六話 ギラスの消失
自罰的な硬い表情はほんのわずかしか保てなかった。難解な言葉を発してすぐ、エトワーレに顔を抓られたのだ。一人前に渋面を形作ってみせるも、ランディはまだ若いゆえ頬も柔らかく、引っ張ってやればよく伸びた。
苦々しい空気はぶち壊しだ。二人はそのまま子犬じみたじゃれ合いにもつれ込む。
「何しやがんだ! おいこら、やめろよエトワーレ!!」
「うるせえよランディ、こんな辛気臭え顔しやがって! やめろやめろ、勝ったあとにそういうことされちゃ酒がまずくて仕方ねえ」
「べそかいてたおまえに言われたかねえよ! このガキが!」
「なっ……バカ言え! 俺はべつに、泣いてなんか……」
「くくく、ははははっ! もういい! もうわかったからやめろ、俺を笑い死にさせる気か! こっちに言わせれば、おまえら二人とも等しくガキだ」
腹を抱えて笑う俺へ、同時に否定の声が来るさまも青臭い証拠だ。幼い意地の張った言動を目にするたびに、心のどこかがくすぐったくなる。
「ランディ。おまえには"多くを救う"という使命があったな。まさにそれを実現しようと、勇敢に戦ってきた。だが、そのきっかけが"罪"とは何とも後ろ暗い理由じゃねえか。いったいどういうことなんだ? ……いや、細かく話そうとしなくていい。なにしろ、エトワーレが納得しねえようだからな」
「で? おっさんは俺のことが心配になったってか、おせっかいめ……言ったろ? この使命は俺だけのものだ。誰に止められても続ける。どんなに笑われたっていい! 俺はそう生きるって決めたんだ」
「知っている。おまえは頑固で、やると決めたら必ず貫き通す男だ。けどよ、なんでもかんでもひとりで解決できるとほざく、無謀なガキじゃねえだろう? 俺だっておまえが悩み苦しむ面なんか見たかねえんだよ。それとも……まだ俺たちを仲間だって認めねえのか?」
「そんなこと思っていない! ギラスのおっさんには世話になったし、あんたがいたから今の俺がある。"柊の枝"の奴らも……かけがえのない仲間だよ」
むきになって言った思いに、エトワーレの動きが止まる。白金の髪を掴む手は退いた。ランディはその隙に相方を押しのけて居住まいを正す。
仲間だと断じる声に偽りの響きはない。ともに戦った時間も俺たちとの交流も、この若者の心の糧となっている。
観念した、あるいは自身を委ねるように……彼は過去の断片を語り出す。
「……俺がまだ小さい頃、故郷の国は滅びかけた」
俺たちは黙って続きを待つ。不幸な出来事があったことは予想できていた。悲しいかな、侵略を受けた経歴を持つ者は珍しくない。傭兵団"柊の枝"の構成員のほとんども戦乱の餌食となった連中だ。
「最初の侵攻だけで大勢が死んだ。国土ごとひっぺがされて荒らされた。俺はその時に大怪我してよく覚えちゃいねえが、敵は故郷で採れる鉱物を狙ってたんだ。生き残りは強制労働を言い渡される予定だった、らしい」
「でもランディ。"滅びかけた"ってことは滅んではねえんだろ? 大怪我したみてえだけど、ちゃんとおまえ今も生きてるし」
「……ああ。俺たちを守ってくれた人がいたんだ。流れの騎士団……みたいなものだ。俺の傷も治してもらった。それだけじゃねえ、敵も追い払ってくれた。町も、国も……それこそ、失った命以外のすべてを与えてくれるかっていうほどの勢いで施してくれた」
「へえ……この時世にしちゃ珍しい。善人たちの一団か」
「わかったぞ! だからおまえ、そいつらに倣って戦士を目指したんだな。俺といっしょじゃねえか。してもらったことへの"恩返し"のために……え? あれ? じゃあ、おまえの罪ってなんだ?」
死から救うという大恩を授けてくれた。しかも、敵を払っただけに留まらず、その後の復興まで手助けしてくれた。そんな者たちの姿も幼いランディにとって印象深く残ったろう。
彼らの正義感に感銘を受け、かくありたいと憧れるのは自然なこと。しかし、この時点の彼に咎などない。
ならば罪とはいったい? 問い含んだ眼差しにも追責の念を感じたのか、ランディは目を伏せる。
「俺たちは……その人を殺した」
怒りで握り込んだ拳を地に打ち付ける。恩人だったのに、救ってもらったのに……言い表しようのない後悔と、無力だった自分を罰したい気持ちが、若い体躯から滲む。
「助けてくれることに味を占めたんだ。国の連中も、王家も……あの騎士団が優しいのをいいことに、寄ってたかって搾取して、しまいには死に追いやった。俺には何もできなかった。おかしいって声を上げても……誰も、俺に耳を貸さなかった」
月の下、静かに震える白金の髪。さっきまでそれに触れていたエトワーレだったが、今は手を出すどころか、声もかけられない。
「だから俺は国を出た!! こうやって戦いに生きるって決めた……俺にあの人の代わりが務まるなんておこがましいこと思ってねえけど、多くを救えば……俺たちは許される。あの人が救うはずだった命を、少しでも多く……」
同情を示すように、黄赤の頭は伏せられた。エトワーレにも母親に慈しまれた記憶がある。陵辱を経て望まれず誕生した子であっても、彼には自身を愛し、守ってくれた存在がいた。そして、かの者に一切の恩や感謝を示せなかった悲しみも、ランディと共通していた。
この若者たちは同じ感情から出発し、それぞれ違う目的を果たそうと進む。一方は戦いに傷ついた者たちの保護。もう一方は戦場を駆け、憂いの原因を断つために。
どちらも壮大な理想だ。明確な答えも何もない、実現できないと一笑され、捨て置かれるはずの夢。
だが、俺にとって……彼らの生き様は何よりも眩い。
「ランディ……その生き方を貫いた挙句、おまえはどうなるかわかるか?」
「はぁ? そんなこと知るかよ……意味わかんねえ。俺なんて戦場でくたばって、死体になって終わる。それ以外の結末なんかあるか」
「違う。将来、おまえがなるもの……それは"英雄"だ。使命を捨てずに生きていけば、おまえは確実にそう呼ばれる。ランディ…………いいや、"ラムダディーン"」
これは決して誇張や妄言なんかじゃない。俺の心が確信している。目に見える根拠はないが、彼らを信じる気持ちは寸分も揺らがない。
言の葉に乗せるのはすべて真実だ。この気持ちが伝わるよう……祈りを込めて話す。こいつの名も短縮せずに、ちゃんと本名で呼びかけてやる。
「なんだよ、急に……まともに俺の名前言いやがって……」
「よく聞け、これは冗談なんかじゃねえ。からかって言ってるわけでもねえ……ラムダディーンもエトワーレも、思いのまま生きた果てに必ず"英雄"となるだろう。俺にはわかる。この命を賭けても言える。そのまま立派に成長して……いつか世界を変えてみせろ」
期待を込めるように。彼らの肩を叩くように、励ましの言葉を贈る。
嬉しそうに顔を上げたエトワーレは、あることに気づいて、勢いよく天を指す。その方向には"ひとつ"と言わず幾千、幾万の星たちが……
今宵は曇天ではなかったか。否、薄闇などで彼らの意志は阻めまい。厚かれど過ぎ去らぬ雲はない。星たちは永遠に輝きを変えず、いつだって天蓋にある。
「がんばれよ、おまえら」
「……ああ」
「あたぼうよ! そんなこと、言われるまでもねえぜ!!」
ぽっと思いついたわりに我ながら最適な例えだ。まさしくこいつらは"星"。
迷い、泣く者らに"こっちに来いよ"と導く橙の大星と、希望振り撒き勇ましく夜を駆ける……白金の流星。
こいつらがいれば、世に光が溢れていく。
もう二度と見れない景色。再演、回想することも許されない。時が経過するとともに自己は崩壊していく。必死に積み上げ、保ってきたとしても所詮は砂の城。最後の支えとなる記憶を捧げたことで、ギラスの消失は確定となった。
しかし、それを喜ぶ声はない。心象世界には二つの涙が流れている。
「……いい人たちだね」
「ああ! ああ、そうだろうとも……! 俺が手掛けた自慢の戦士たちだ。俺はあいつらと出会えた運命に感謝している。一人前に育て上げたことを誇りに思っている……」
最後のあがきで見せつけたのは、とある誓いの夜の記憶。若者の光ある未来を確信した瞬間である。聖衣の少年にとって、その光景には自身の知らない感情が詰まっていた。ギラスもまた、初見でなくとも新たに気づいた思いに涙する。
若者たちとの会話を心地よく感じていた理由……今ならわかる。魂の深層にて、少年もまた同じことを求めていた。
「おれは、二人みたいな人たちに助けてもらいたかった。何も知らずに育ったおれに、現実を教えてほしかった……酷い目に遭う前に救ってほしかったんだ」
少年は泣きじゃくって本心を認める。自身の目的は復讐ではなかった。あの魔法はただの当てつけだ。
誰も助けてくれなかったことを恨み、守ってくれる存在がいないのを嘆いた。自分の不幸を見せつけていただけだったのだ。
「なんで、もっと早く会えなかったんだろう。あの二人なら絶対におれを助けてくれた。神域に向かう神輿を止めてくれたのに……」
「仕方ねぇだろ。俺たちは、あいつらよりも先に生まれてきちまったんだから」
山岳燃えたつ地獄の日、救い手は現れなかった。けれど、まったく存在しないわけではなかった。少し、会うのが遅れただけ……彼らは未来にいた。
生き残った自分が送り出す者たちであったのだ。
怒りの真実を知ってしまえば、憎しみを保つことはできない。自分は救って欲しいのだ。"彼ら"の敵たる災害に成り果てることは、自らの本意でない。
ギラスの提示した記憶は少年にとって毒薬だった。生存の糧である憎悪を消されれば、こちらも崩壊は免れない。
してやられた、と少年は負けを認める。けれど……どのみちギラスの心も同じだ。彼は"対消滅"の道を選んだ。これから迎えるのは二度目の、精神上の死だ。
「ねえ……おれ、本当に行かなくちゃダメなの?」
「まだ未練があんのか? 名残惜しくたって、今世で好き勝手暴れられたじゃねえか。あれができるだけ奇跡ってもんだ。あとのことはライナス殿に任せよう。あの人は俺たちの苦しみを知っている。残したものについても悪いようにはしない」
「うん、わかってるよ……あんたも急いだほうがいい。もうすぐ"この場"は崩壊する。自我が存在できる時間はあとわずかだ」
「わかっている。おまえは先に行ってろ。俺は最後に……ワイツに、言ってやりたいことがある」
道はすでに示されていた。暗幕の隙間から差し込んだ光は"場"を溶かしていく。
自分の姿が輝きに包まれるのも待ちきれず、少年は光源に向け走った。そこまで行けば炎も、灼熱の記憶も追ってこない。
ただ、光に溢れた未来だけがある。