第七十四話 ワイツの真実
メイガンと同じく私も不完全だ。胸の虚にどのような存在を抱こうと合致せず、詰めた端から砕けていく。最初は母。次にニブ・ヒムルダ王家"曹灰の貴石"……いや、何を求めようと満たされないのかもしれない。
私は異端かつ醜悪。即刻死すべきと思っていたが、同意は皆無だった。それどころかライナスは私の領域を気に入り、メイガンは私を透かして自身の識る"美しいもの"を見ている。
彼らの話を聞くたびに自画像が塗り変わっていく。気になるなら鏡を見ろと言われていた。それも一理ある。私はどんな形をしていたのだったか……
思案を巡らせるうちに夜は更けていく。ふわり、天幕が夜風にはためいた。私は暗がりから視線を上げ、麗しき闖入者の姿を認める。
見張りの目、ライナスの警戒網を掻い潜って来たのか。はじめて出会った日のように、月光を纏って立つ彼女。静謐な憂いを瞳に燈してこちらを覗く。
「……カイザ」
相対すれば鏡を見ているようだと感じた。一目見たあの日から今まで、彼女の印象は変わらない。同質の存在であると心から主張できる。
私たちは共通点が多い。同じ煌びやかな都で生まれ、舞台は違えと互いの役割を全うし、真に己が行くべき道だと信じて疑わなかった。しかし、万事において永劫不変なものはない。先に私が経験したように、出会った頃のカイザは、信奉してきた世界を失ったばかりであった。
裏切りと恥辱は無垢な令嬢を破壊し尽くした。残骸たる彼女はそれまでの生を前世と思い込み、正しさを模索し歩いている。
「ライナス様からお聞きしました。メイガンさんも、大変気落ちしたご様子で語っておられました。ワイツ団長は……死を、求めていらっしゃると」
「ああ、そうだ。私は死ななくてはならない。過ちを、犯してしまったから」
「あなたが……弟君を殺めたことは"間違い"なのですか?」
「結果としてはそうだ。私は間違っていた。"曹灰の貴石"……一生の隷属を誓った相手を砕いてしまった。飼い主を殺した狗に未来はない。死に絶えるのは自明の理。けれど……カイザ、私は……」
この判断は罪悪感ゆえの結論ではない。痛む良心など持ち合わせていない。
彼女に対してだけは深い心の内を語れる。カイザは常に私の側にあり、こちらからの教えを吸収し、模倣してできた存在だ。もはや私自身と称していい。なので、どのような思いも受け入れてくれる。
「殺すつもりはなかった。ただ、心臓の中身を見たかっただけなんだ」
接近し、枕元にかかった藤の髪を掬う。そのまま彼女の頬に手を持っていき、白い美顔に滑らせる。下方へ流れる珠玉に指が触れれば溶けた。
見入る、触れる、潰す、割る……心動かす事象に対し、そのような行動に出るのも愛でたいと思う気持ちからだ。
「……なぜ泣く、カイザ」
「あの時、あなたは泣いておられたから……!」
許可を取ることなく、カイザは私の身に触れて啜り泣いた。彼女の泣くところは初めて見る。
私を模倣することで生きてきた女だ。あの時、信じていた"曹灰の貴石"が実在せず、絶望に狂う私を見たのだ。こぼれた失望の涙とその感情は、彼女にも追加されてしまった。
「ワイツ団長は私の秩序、唯一信じるに足る道標です。そのあなたは、出会ってからこれまで一度も笑顔を見せてくれませんでした。こうして得られた激情も、怒りと悲しみだけ……」
上体を起こせば堪らず抱きつかれた。ひとつになりたいと思うかのように、しなやかな腕は私を絡めとる。しかし、どんなに強く力を込めても願いは遂げられない。
「この世界に喜びはないのでしょうか? 幸福は存在しないのでしょうか……! それなら、あなたを思うたびに生まれる、胸の……あたたかな思いも間違いなのですか?」
「私には……わからない。おまえに教えることもない。導いていける立場でもない。だが、カイザ……おまえに、先に死ぬなと言ったのは本心だ。おまえは生きろ、いや……生きていてほしいと思っている」
「どうしてです……?」
「おまえは私だからだ」
驚愕に震えるカイザの、藤色の瞳が見開かれていく。言葉とならない喘ぎが幾つか漏れ、ようやく意味を拾ったそれは理由を尋ねていた。
「今なら言える。おまえは異なる分岐を選んだ私だ。"美しいもの"に囚われなかった場合の私……だからこそ引き返してくれ、カイザ。私のように進んではならない。二度も世界を失うという……同じ思いをさせたくない。ここで死んでこそ、おまえに正しい道を示せよう」
「そんな……私は、あなたになれた。この胸の感情すべてが一致したとしても……このような形は嫌です! あなたを捨て石にして得る正解なんて、認めたくない……!」
「ならば教えてくれ。私はどうすればいい? おまえならどうやって真理を説く?」
酷な問いだと知っていた。こうすればカイザは無防備になる。項垂れて従うしかなくなると。模倣犯である彼女に、私も知らない解答はできまい。案の定、黙りこくった彼女は目線を下げ……
「……カイザ? 何を……む」
視界いっぱいに彼女がある。魔女の魅了から私を守った時のように……否、それ以上に密着する。唇を重ねて、口内……舌までも触れ合わせる。
その境遇からして、互いにとって初の行為ではない。響く水音も生者の腹を裂くときに似て聞き慣れたものだが、ここまで純真で拙く、必死な交歓には覚えがない。
「おい……カイ、ザ……もう……っ」
息継ぎの合間などまるで考慮されていない。なりふり構わず死を求めている私は、窒息死も抵抗なく受け入れられる。けれど、彼女がそうなるのはいただけない。
弛緩したままの体をどうにか駆使して身を離させる。暴挙の理由を問うのは呼吸を取り戻してからでいい。
「以前……団長は私に教えてくださいました。個人の痛みが他者に伝わることはないと。心の苦痛は幻であると。あなたの痛みは私に伝わらない、ですが…………触れてみてわかる、この熱だけが私の"真実"です」
様々な感情がないまぜとなった藤の乙女は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。確かに私はそのように教えた。些細な刀剣の鍛錬でも、説いた理念は真理となってカイザに根付いていた。
否定などできない。彼女が提示した真実は私にも伝染してしまった。
私たちは同じ熱に浮かされている。それが正解、正しき道なら従って生きるべき……だが、
「カイザ……すまない。けれど……」
その熱情は混沌を溶かすには至らない。私は、再びしなだれかかろうとする彼女の腹に、拳を叩きこんだ。
意識を失って崩れる藤花を、丁寧に寝かせ……皆を欺く身代わりとする。
死の山が動く。自分の身体を燃やして、魂を削られながら……辺り一面に地獄を撒く。怨嗟は意思となって炎を手繰り、扇動者を好んで焼く。
「……貴様の方から来ることはわかっていた」
着の身着のまま冬の夜に立つ。天幕にいた時は知らされず、確認することもなかったが……最初に私を殺しかけた時、誰も"彼"を鎮めることはできなかったのだ。
怨讐の化身はその場から離脱を図っていた。邪魔が入る前に殺さなかったのは、深層に追いやられたギラスの抵抗だろうか。
真夜中でも、死に焦がれる者なら辿り着く。色濃く残った灰、燻って天行く濃黒を目指して歩けば出会えた……断罪と浄化を司る炎と。
座していた大岩から腰を上げて、復讐鬼は剣を担ぐ。
「くだらねえ巡礼の旅だった。生の末端まで愚かな殉教者だったな……ワイツ。貴様にくれてやる恨み節も燃え尽きた。では、そこへ立て。俺に心臓を差し出す用意はできているな?」
「……やはり、私を終わらせるのはあなただ。今度こそ……尽きぬ復讐の火煙で、この魂を滅ぼしてくれ」
彼は頷いて剣を振りかぶる。次はしくじるまい。時をおいたからか、彼のなかで詰責の言葉も嬲り殺す算段も灰燼と散っていた。怒りを圧縮して一刀に断ち燃やすつもりだ。
これが最終幕。ずっと待ち果てた結末だ。豪炎が私たちを囲い、髪の一筋も逃さず滅そうと構える。私は瞳を閉じた。今から降る終端をただただ期待する。
ここには住みよい土壌なく、懐かしい"青"もない。移された熱は憤怒の炎と比べて、弱い。思い残すことなど……ありはしない。
最期を迎える私が感じたもの。
ひたすら寒風のみ。いつまで経っても振り下ろされぬ刃。燃え立つ火炎とその断末魔。何かが落ちて、突き刺さる音。そして……
「あら、面白そうなことやってるじゃない」
艶やかなる、不死者"魔女"の嗤い声。