第七十三話 ワイツの尊厳
ライナスの来訪以降、私の寝所に近づく者はいなかった。おそらくは警戒されてしまったのだろう。私が見舞い客から死を乞うことを恐れたのだ。部下たちは忠実ゆえに、頼めば願いを叶える可能性があった。
さすがは知恵者と言ったところか。会話しつつも呪具は周囲を探索し、自死に役立ちそうな物品を残らず片付けていた。治療と称して、何か術も施されてある。おかげで四肢が弛緩してやまない。
それほど心配せずとも自ら命を絶つつもりはない。罰とは他者から受けるものだ。量刑の独断などあってはならない。
来ないからこちらから行こうと思い、気怠い体を叱咤して、寝台から這い出る。近くに人の立つ気配はないが、必ず見張りはいるはずだ。適当に手招きすれば簡単に望みは叶う……
この考えが浅はかだったと悔いたのは、傾いだ陽に照らされる陰気な緑髪を見たためだ。
「テティスてめえ……これはどういうつもりだ!? さっきから何がしたいんだよ!!」
「だからぁ! 今、行かないとダメですってメイガンさん!」
少年が兄貴分に対し泣き言を喚くのはよく見かけるが、同じなのは会話程度。夕暮れを迎える雪原にて、殴られ昏倒する見張り兵と……丸腰のメイガンに槍を突きつけるテティスの姿がある。異様としか形容できない光景だ。
武器持たずとも、異郷の狩人が少年を殺めるのはたやすい。しかし、テティスの妙な気迫に圧され、言動の続行を許してしまう。あまりの意味不明さに惑う私たちへ、なんでわからないんですか! と、彼は怒鳴った。
「このままでいいんですか? もうすぐ聖地だっていうのに、あの人と何の進展もないし、据え膳も見過ごすなんて……あなたそれでも男ですか!? 出発できない今がいい機会なんじゃないですか!」
「おい、てめえ……まさか、知ってんのか?」
「そりゃあわかりますよ! 僕は、村を出た時からずっとあなたを見てきたんですから。暴力に訴えて、黙らせようたって無駄です。こればっかりは譲れません!!」
顔をくしゃくしゃにして恐喝を試みるテティス。言うこともやることも支離滅裂だ。だが、それでもメイガンは意味を見出したらしい。怒気と気恥ずかしさが混じった表情を、少年から逸らす。
彼が反応を見せた単語は"あの人"、"進展"……あと"据え膳"とは、いったい何のことだ?
「俺が誰をどう思おうとおまえには関係ねえ! それに……今、行けだと!? あいつが動けねえ状態でこんな……抜け駆けみてえな情けねえ真似できっかよ!」
「でもメイガンさん……僕の好きだった子を、あなたは奪ったんです」
沈みゆく日輪の鮮血じみた赤が幼い顔を輝かす。その頬を伝う涙も、悲嘆に揺蕩う瞳も。
何かを思い出したように……メイガンは息を飲んで、それから唇を噛み締めた。ずっと蓋をしてきた思いがあることを、彼は肯定しつつある。ただ、それを言い当てた相手が気に食わないといった風情だが。
「メイガンさんは僕の憧れなんです。ずっと、強くてかっこいいあなたでいてほしい。僕やローア君みたいに、好きな子を手に入れられなくて、泣いたり後悔したりするのは嫌なんです!! ほっといたら他の人に盗られちゃう……それでもいい、いらないって言うんなら僕が貰います! あの人を刺し殺して、僕のものにしますからね!!」
「本当に何言ってんだ! というか、やっぱりてめえ……あの村でのこと根に持ってんじゃねえか! ふざけやがって……」
そこまで見たのち、私は寝台に戻ることにした。これはメイガン個人の事情だ。部外者が視認すべきではない。
話し声が絶えても足音は止まなかった。残ったのは一人の気配。しかもこちらに近づいてくる。先の状況からして危機感がちらついた。
人手がほしいとは思っていたがテティスだけは却下だ。狗との呼称を受け入れてはいるが、私にも最低限の尊厳はある。
「おい……居るか? ちょっと話があっ…………ワイツ!? えっ? ……は? テティスの野郎……好き勝手言っておいて場所間違えてんじゃねえか!」
夕焼けを背に受け、濃紺の髪は紫とも表せる……宵闇の色だ。同じ彩りの瞳を安堵しつつ見上げる。入室したのはメイガンの方だった。もっともこの訪問は、本人にとって意図するところでないようだが。
邪魔したなと言い捨て、立ち去ろうとするのを止めにかかる。
「待ってくれ。ちょうどよかった……君に、頼みたいことがある」
「なんだよ。具合はいいみてえだな……ったく、おまえが熱出してぶっ倒れるから、今まで無為に時間を使った。動けるんなら明日には出発しようぜ。で、なんだ? 飯か?」
「私を殺してくれ」
「わかった。今作って来……ん?」
彼は気楽に返事をしてから、入り口に手をかけた体勢で止まった。短髪の尖った先端を傾け、今の依頼を咀嚼する。殺害方法を吟味してくれているのだろうか。メイガンは丸腰であり、天幕内も道具に乏しい。
それでも彼は最高の武器を持っている。魂から湧き立つ清流がある。
「話が早くて助かる……では、やれ。君の誇る、聖なる支流でもって私を滅してくれ。血清は打ってあるが、水に染めた剣で斬られれば効果を得られよう。信者と違い、ニブ・ヒムルダの者は黒く浸食を受けるのだったか……」
「馬鹿言ってんじゃねえ! 今の"わかった"も違えよ! ワイツ、おい……ここまで来といて萎えてる場合か! 兵率いて、進んできたのはてめえだろ!? 任務だってまだ終わってねえ……"聖女"を殺すまで終わってたまるかよ!!」
「任務は無効だ。私は"曹灰の貴石"である弟を殺した……命令に従う理由を失ったのだ。これ以上は、一歩たりと進めない。醜く、穢れた私は……罪人らしく泥を曝け出して死ぬべきなのだ」
「ふざけんな! あんだけ信者殺しといて罪の意識だとか笑わせる……てめえが弟殺ったのだって、先に行きてえからじゃなかったのかよ……もういい! 無理矢理にでも来てもらうぜ。前に言ったよな? てめえが泣いて嫌がっても、引き摺って行くって……」
主張をさっそく実行するように……メイガンは私の胸ぐらをつかみ、自身の方向へ近づけた。その深い紫瞳に、熱に浮かされた私が映っている。
こんな脅しが効かないくらい知っているだろう。けれども認められない、そうせずにはいられない焦燥が、彼の中にはある。
"メイガン"……猛々しいはずの、戦士の名を囁く。
「……一つ聞くが、なぜそうも私の同行にこだわる? 君には信者と渡り合う力がある。魔女はじめ強力な同行者がいる。なぜ、君の行軍に私が必要なのだ? ライナスら私の手勢が欲しいのなら連れていけ。すぐにそう命令して……」
「違えよ! おまえじゃないと意味ねえんだ!」
聞き分けのない彼に反論しかけるも、視線に穿たれて言葉は止まった。
その目を覚えている。森における戦闘途中で渓流に落ち、意識が戻ってはじめて私と向かい合った、あの日の夜と同じだ。
「……どうしても行かないのか? いっしょに……来て、くれねえのか……?」
迷い、震えつつも目は逸らさない。陽が地平に埋没するまで重い沈黙が流れるも、自白しなければ先に進めないことを、私たちは察していた。
最終的に彼は、メイガンの水魔法は……と切り出した。過去に故郷の伝説を語ったのと比べて暗く、苦しい口調であった。
「あれはな……聖泉に触れることで習得する。俺たちは小さい時から泉に親しみ、恩恵を浴びて育ってきた。いつか得物を狩って奉じるために必須の力だからな……けど、俺にはできなかったんだ。空から降る"普通の雨"を覚えちまったから」
「君の……あの魔法は、最初からできたわけではなかったのか」
「ああ。その時の俺に"水"の違いなんかわからなかった。魔法も未完成のまま外へ出て、郷にはねえ珍しいもんばっか見て、そのたびに心は動じて……もう、わけがわからなくなってて……そういう状態で、おまえに会った。おまえがいたから思い出せたんだ」
ライナスに罵倒され、実績もギラスに及ばなかった当初の彼。猛攻に転じることができたのは、かの激闘を経たからだ。契機となったのは私の……
「最初はわからなかったが、濡れた時のおまえの目……聖泉と同じ色をしてんだよ。故郷の、聖なる青……この旅を完遂すれば本当に俺のものとなる。二度と無くしたりしねえ」
だから、最後まで見届けてくれ……そう言って胸から手を離す。まだ彼は完全ではない。まだ本物の"メイガン"と言えない。私たちと終局を迎え、忘れ難い思い出を聖泉に持ち帰るまでは。
「行こうぜ……ワイツ。聖地に行かねえと俺たち、きっと……"何者"にもなれねえままだ」
「私が、同じだと……どういうことだ? 待て! 君たちが讃える……聖泉の青とは?」
いつか見てみたいと呟いた隠れ里の秘泉。それほど彼らが崇めるなら、きっと美しい輝きであると思ってのことだ。かの青は私の瞳と同じだという……現に、この戦士は私を聖泉と重ねていた。
問いかけてもメイガンは振り返らない。
「鏡でも見るんだな」
ただそれだけを言い残し泉の勇士は前を向く。私にもそうしてほしいと、その背は切に願っていた。