第七十二話 ワイツの懇願
「ええ、そうよ。あたしは最後まで見てたの。血塗れのワイツが天幕から飛び出すところまで、ばっちりとね」
仄暗い意識に声が降る。目覚めた体は鉛に変わったように重く、渇ききった喉は熱を持ち、炎の燻る思いがした。
不快感と苦痛は生きるために肉体が出す警報。その喧しさは相当だったが、応じてやる気はさらさらない。私の願いは苦悶の果て……"死"に行き着くことなのだ。
感覚は身の不調と同時に近くの会話を拾う。相手は不死者"魔女"と老魔術師ライナス……幕一枚隔てた距離だ。気鬱に染まった心にも容易に届く。
「なんで止めなかったのかって? だって面白そうだったもの。ほら、あたし死体を使った服作りも趣味でしょ? ほかの人が同じことやってたら気になるじゃない。邪魔が入らないように、"人避け"と"防音"の魔法もかけてあげたわ」
「あの行為に、そんなにも助力を……では、殿下を今のお姿に"加工"したのも、ワイツ王子を慮ってのことか?」
「そうじゃないわ。ワイツが綺麗に解体するものだから、私もやってみたくなっただけよ。でも、よくできてたでしょ……あの肉人形」
不穏な単語のあとに、少女のくすくす笑いが鳴る。魔女にとって人体は弄りがいのある玩具に過ぎない。丁度良い気晴らしにはなったのだろう。彼女の口調からして、すこぶる機嫌がいいのはわかる。しかし、その内容が問題だ。
「血や腸も一滴残らず詰め直して縫合したわ。触れば温かいし、鼓動も感じる。まるで眠ってるようにしか見えないでしょ? あれね、とっても元気で活発な蛆虫をたくさん入れておいたの! 中の肉を食べ尽くしたあとも共食いをはじめるからしばらくはもつわ」
青白い顔をして、ライナスが入り口の幕を潜ってきた。薄暗い天幕内では白色の面が強調される。呪具の暗布にほとんど覆われた老体にて、唯一露出した顔色が映える。乳白色の瞳を細めて、軍医を兼ねる魔術師は私のありさまを見咎めた。
「身を起こされるな、ワイツ王子。酷い熱だったのじゃ」
「ライ、ナス殿……」
「頼むから休んでおくれ。殿下のことについては……今は問わぬ。どうかご自愛されよ。まだ旅の途中であるからして……」
老魔術師は優しげな声音で近づく。弟の腹を裂くという凶行に走った私を警戒せず、熱病の完治を図るべく、床に治療の道具やら私の着替えやらを並べ出す。
氷嚢を手にしたのち、彼は急に動きを止めた。私が不意に声かけしたのが原因だ。
"殺してくれ"という懇願の言葉は、思慮深い知恵者を一瞬で白痴へと貶めた。
「私は王家の仇敵、偉大なる彼らに牙を向けた逆賊……叛逆の罪で今すぐ裁かれてもいい。都に仕える魔術師なら、大罪人を見逃すわけにいくまい。それに……こんな私など処分されて当然だ」
「何を、っ……何を言っておられる! わしが、あなたさまを罰するじゃと!? ありえぬ! 王子はわしの主君じゃ!! 庇いこそすれ、そのような……」
「私は……無理だ、もう生きていられない。こうして、息を続けることも耐え難いのだ……ライナス殿。あなたの魔法ならば、すぐに終わらせられる。魔の蔓草で絞め殺すなり、寸断するなり……好きにやってくれ。私を殺す正当な理由はいくらでもあるだろう?」
「ならぬ! そんなこと、断じて……あってはならぬ!! ワイツ王子、本当に死を望まれるのか……? 今なら何とでも弁解できる。どうか思いとどまっておくれ! あなたさまにも心残りはあるはずじゃ!」
老魔術師は必死になって私に縋る。胸に置いていた片手を断りなく握り、言い知れぬ思いを伝えるが如く、力を込める。動かせぬ左腕の代わりに数本の暗布が私を撫ぜた。
「よく考えてみろ……むしろ、私がここで死ななくてどうする? ……王家は女神に従属したいと言っている。使徒との和解には"私の死"が不可欠だ。亡骸を持ち帰れば、彼らも満足して矛を収める。陛下も喜ばれよう……あなたがたも生きて帰れるのだ。行動のすべてを私のせいにすれば……」
「駄目じゃ! 否、わしは嫌だ……!! 王子、ああ……っ!」
こうなれば老賢者も形無し。ライナスは駄々っ子のようにかぶりを振る。矢継ぎ早に私と今世との所縁を提示し始めた。ともに戦った仲間や知り合いの名、やり残した任務について追及し、私の生きるべき理由を論じてみせる。
たとえ理屈が正しく、整然と説かれても……そんな要因は私の原動力と成り得ない。失ってしまった"曹灰の貴石"の代わりにならない。どんな事由に対しても、私の心は変わらな……
「件の"紅の秘玉"!! その正体を知らずに死してもよいと言うのか!?」
突きつけられた"至宝"に関する情報……気の乱れは隠しようがなかった。ライナスの老顔に喜色がよぎる。
雪原にて垣間見た宝玉の、赤い輝きは私の魂に浸透し、この世界への明確な未練と化していた。
「……あなたは、答えられないと言った」
「王子や、あれから丸二日経っておるのじゃ。思案巡らせ、仮説を立てるには充分すぎる……今から、わしの知るところを余すことなく語ろう。だからどうか、あなたさまも今世に心を繋ぎとめておくれ」
これから話すのはあくまで仮説と前置く。ライナスは真剣に、かつ……何事か覚悟を決めたように俯いた。
寝台から仰いだ姿は魔術師というよりも聖職者に近い。今から始まるのは懺悔か、告解か……
「以前、わしは魔女殿と二人だけで出撃したのを覚えておられるか? 荒野の戦場への道中、魔力提供についての交渉を持ちかけた。今の協力関係を構築したのもあのときじゃ」
「……ああ」
言葉を受けて、ゆるゆると記憶を引き出す。魔女と老魔術師の二人が並んで歩く様子は仲睦まじく、まるで本当の祖父と孫かと思うほどだった。ライナスの出撃が信者との闘争の始まりだ。彼は皆の期待に応え、魔法の彩りで初戦を飾ってみせた。
「魔力の光幕を用いた連携……"魔光夜の銀詠"に接続する戦法を採ることとなったが、わしはその前に"もう一つの方策"を持ちかけていた。王子が目撃したのはそっちの提供方法じゃ。彼女にとっても最初はそちらを想定していたようじゃが……」
「確かに、あの玉は信者に魔力を供給しているように見えた。しかし……他者の力を用いるのに、銀詠へ接続する以外の方法があるというのか?」
「ああ、あるのじゃ。高魔力者から力を貰う術が。事実、魔女殿はわしが教えるまで銀詠を出すことすらできなかった……不死者たちにとってはあちらのやり方が普通なのじゃろ。王子が見た秘宝……さしずめ、"魔力の塊体"を創り出すというのが」
「それ、は……」
"魔力の塊体"……多く魔力を蓄えた者だけが産み出すことのできる物体。高密度ゆえに可視化した力そのものである、とライナスは補足した。私の見た赤い玉がそうらしい。
魔光夜の銀詠を使うのと違って、接続や認証などの予備動作を必要としない。ただ持っているだけで力を行使できるという。使用法、状況的に見ても間違いない。
更なる情報を求めて視線を向けるも……ライナスは口惜しく溜息をついた。彼の知識はここまでのようだった。
「正式な名称、作成法も"彼ら"にしかわからぬ……魔女殿は答えてくれなんだ。だが、気軽に精製できるものではない。何かしらの代償を捧げる必要があるのはわかる。わしには、とうに予想ができていた……」
「ならばそれも話してくれ。予想でも仮説でもいい、あなたは余さず話すと誓ったはずだ」
すべてを語れば私の未練が解消され、再び死を乞うと感じたか。ライナスは恐れ、ためらい……それでも話す意欲を見せた。
この会話が私の新たな光明になればと、不安を捻じ伏せて言葉を紡ぐ。
「王子……"聖種子"の伝統をご存知か?」
「言葉だけは聞いたことがある……意味は知らない」
私は簡潔に応えた。知っていたというより、最近聞いたというのが正しい。"聖種子"は先に来訪し、面会した大貴族がライナスに向けて罵倒していた単語だ。あの後、老爺は不審な行動を取るも、私はそれらすべてに興味が湧かなかったため、何も問わないでいた。
「そうじゃろうな。作法も逸話もすでに塗り変えてある。あれは、根絶すべき文化じゃ! なおも伝えようとする者には、わしがこの手で引導を渡してきた! わしが王家に近づいたのも、悪しき慣習を打ち消すため……」
「その古い伝統に、宝玉とどのような関係が?」
「あれはおそらく"魔力の塊体"精製の儀式を模したもの。わしらが祭日で使う"世界の鉢"は、霊木を育むためのものでない。中で育つのも"緑の王"ではない。元々のあれは、聖種子を囲うための檻であった……」
それは、一族の繁栄と久遠なる栄光を求める儀式だという。
不可欠なのは聖種子と呼ばれる存在、自然神に選ばれし"人間"の誕生を待たなければならない。絶対数は乏しいが、国中どこにでも現れる可能性はあった。識別方法も単純だ。彼らは"色を伴わずに産まれてくる"のだから……
その子は世界の祝福を携えているという。大いなる理が露出し、人々の前に遣わされてくる。聖種子という通称どおり、皆に豊かな実りを与えるのだ。
厳重に育てなければならない。栄耀の連鎖が絶えぬよう、長く生存させなければならない。ゆえに外界へ出されるのは、年に一度の式典のみ。
最も重要なる儀式のくだりに差し掛かったとき、語り手の声は震え出し、内容は詳らかとならなかった。
ただ、そこでの聖種子の役目は……肉を削がれることだと表現した。
「聖種子を誉めそやして祭るが……あんなもの生贄以外の何者でもない。古代ニブ・ヒムルダの悪習じゃ!」
そう、最後にライナスは吐き捨てた。顔以外を覆う暗布に半ば埋もれ、暗がりにて身を縮めて座る。ひそやかに瞬く眼光は乳色、この国にしては珍しい……ニブ・ヒムルダの民は寒色系を容姿に持つのがほとんどだ。
「関連性はわかった。前に説いてくれた、"神の力"を得る方法と同じなのだな。"特別と謳われる存在を削って力を賜る"……この要素を共通させた習わしも、手段を変え、対象を変えて世界中に伝わっているのだろう。ニブ・ヒムルダではそれが聖種子……"特異な色素の人間"だったと」
「左様、じゃ……このしきたりが"塊体"の精製法に沿うとなれば、不死者と言えど相当の負担を強いられるはず。詳しくは話してくれなんだが、魔女殿はこの方法を"手間がかかる"と言っておったな」
珍しく、稀有な存在を人々は特別視する。些細な違いは差別の元だが、時には神性を宿すと思われ、丁寧に扱われる……今の話は、語り手が語り手だけに説得力に溢れていた。
力を得るため削る対象を、私は二つ思い浮かべられる。"不死者"と、"曹灰の貴石"……後者に関して皆の否定を受けたとしても、まだ私は諦めきれない。
「王子が宝玉に見えたものは、不死者"聖女"が産み出した"魔力の塊体"なのじゃろ。信仰を失っても戦えるよう、自身を守る防人に貸し与えたのじゃ」
「しかし、ライナス殿。私は……」
「今でもあの玉に心惹かれるのなら、共に聖地へ確かめに行こうぞ。魔女殿に協力し続ければ、いつか教えを受けられるかもしれぬ。聖女を吊るせば解に至れるのやもしれぬ……」
暗布がさざめき、私から離れていった。ライナスは静かに立ち上がる。患者の心情はともかく、容態が安定したので出直すことにしたのだろう。
光ある外界に踏み出す刹那、彼は私に振り向いて微笑む。それは、やっと芽が出た種子の、世界の広さに喜ぶさまを見ているようだった。
「なんにせよ生きておくれ、王子や。あなたさまの……他者の外観問わず、実力のみを利用する生き様は、わしにとって心地良かった。最後に手折られ、豪炎に身をくべるその日まで……わしを、あなたさまの庭に置いてほしい」
そのように言ってライナスは去った。彼の残した言葉の意図はわからないが、こんな駄犬の私を慕っていたことは伝わった。
返事すべきだったようにも思う。その気持ちに至った理由、生き永らえたことへの感嘆、"今の話をギラスにも語るべきではないか?"との忠告……
けれど、追ってまで伝える気力も、関心も私にはない。そして……宝玉の正体に関する違和感も、最後まで口に出せなかった。