第七十話 ワイツの分岐
「は……? あんた……何を、言ってるんだ。落ち着けワイツ! ここまで来といていまさら正気を失ったってのか!?」
「黙れ! こんなこと……ありえない! なぜだ、なぜ弟の腹には何も入っていないのだ!? 彼は"曹灰の貴石"だぞ! 私のような汚れた狗ではなく、崇高な……愚者と隔絶せし皇であるはずだ!!」
善性が濃い今のギラスは、私に鎮静を呼びかけ、肩に手を置こうとする。いつからここにいると問われたが……私は知らない。時間の経過も、自分がどこに立っているかもわからない。生きる理由すら砕けつつある。
すべての発端はあの杖だ。嵌め込まれた宝玉は、長年幻想してきたとおりの姿で光を放っていた。まさしく至宝だ。美しい……きっと、私が守る彼らもあのような輝きを秘めている。そう感じたからこそ、弟に近づいた。予想を確かめたくなったのだ。
少しでもいい。髪の下、肌の裏側、喉奥を覗けば輝きに出会えると思っていた。天幕に持ち込んだ短剣など使うまでもない。あれほど声高に血統を誇ってきたのだから、証は一目でわかるはず。
だが、違った。
彼を至近で見ても私たちと変わりなく……やむなく裂いた皮膚の下、砕いた骨粒、眼球内部、臓物の表裏まで切り開いて確かめたが見つからない。
支配者と納得できる証拠はどこにもなかった。あるのは戦場によく落ちている、ただの切り零しの肉片だけだ。
「彼ら王家は輝かしく、侵されざる貴石であり、ニブ・ヒムルダを統治できる玉体を持つ……それは菓子の詰まった薬玉人形のように、中身は美しいもので満ちているに違いない。泥とおがくずしか入っていない私たちとは圧倒的に異なるのだ。けれど、弟は偽物なのか……? 私と同じ畜生だったとでもいうのか!?」
「違うんだワイツ……あんたは思い違いをしている! 王家も民も、俺たちも同じ存在だ! "曹灰の貴石"っていうのは高慢な連中がほざいた比喩にすぎねえ!」
「黙れ! 私は何も間違っていない!! そんな馬鹿なことがあるか……皆が平伏して敬い、人民を好きに蹂躙できる彼らが、私たちと同じ人であるわけがない!!」
「なんでわからねえんだよ……あんたは狗じゃねえし、向こうも神や日輪、きれいな宝石の類なんかじゃねえ……同じ"人間"だ!! ワイツ……どうしてそうなった。王家に何をされた? いつから、何を違えたっていうんだ……?」
知らず震える身体を掴み、目を合わせたギラスは混乱に喘いでいた。懐柔して得た信頼や同情は色あせ、恐怖に染まっていく。理解できない、共感できないと言った面持ち……私も同じだ。
しかし、なぜこの苦しみが伝わらないのだろう。私は今、世界の瓦解を体感しているのというのに……
「彼らは美しい上位種の生命。地表でのたうつ私たちが管理されるのは当然ではないか! だから私は服従した! 信じて、従ってきた……今だってそうだ。私は彼らの願いを叶えに来た! 不死者"聖女"を殺し、私も死ねという命令を完遂するために!!」
「……やめろ。それ以上、言うな」
老戦士の姿がぼやける。近くにいるのに見えない。視界を鮮明にするため、目元に手をやると熱が滲んだ。
朱に染まった指の、纏う雫が外気を受けて凍りつく。掬った粒は涙。ああ、私が壊れていく……
「俺に"星"を思い出させてくれたじゃないか……守るべきもの、叶える理想について標をくれた。死ぬとしたら自分も同じ時だと、励ましてくれた……ワイツ、おまえがいたから、俺は復讐に最後まで飲まれなかったのに……」
「そんなことは知らない。あなたがたは私の目印に過ぎない。女神の使徒らが狙いやすいよう、的を大きく見せるために連れてきただけのこと」
「……俺や、皆にとってもおまえは"星"だった。必死で守ろう。戦い遂げようと誓っていた……その思いを省みることはできないのか?」
「そんな感情は不必要だ。意味すらわからない……皆は私と同じく、卑しい獣だ。使い潰され朽ちていく消耗品。一人でも多くの使徒を滅ぼし、"聖女"も害し……そして全滅する。それが、私の目的だった」
今となってはその狙いも無意味。私は飼い主の一人を噛み殺してしまった。私の支配者たる弟は"曹灰の貴石"を持ってすらいなかった。
そして私は……何もわからなくなった。ギラスの言葉でいうなら"星"……進むべき道を喪った。従うべき者たちを信じることができなくなり、一歩も進めなくなったのだ。
こうなれば生きる理由もない。命令に従う意味も滅した。もはや私は死ぬしかない。
愚かな畜生らしく、この上なく無惨に果てるべきだ。
「……ワイ、ツ……っ、ああああああ!! あああ、ああ!!」
銀世界を撼わす咆哮。肩に乗った豪傑の手は、躊躇いを残しつつも私の首に沿われた。彼の意図を察してそっと上向く。動きに次いで新たな雫が溢れ、頬を流れた。
殺すならこの姿勢がやり易い。
「ワイツ!! おのれおのれ……貴様も俺を裏切ったか!! 清廉な将かと思えばとんだ根腐れだぜ。ニブ・ヒムルダ王家、自然神"緑の王"を祀る鎮守の一族も業が深い……!」
反転した彼は、予測した通りに私の絞殺を図る。この人格はこれまで、女神を殺すという利害が一致したために同行していた。だからこそ、私の真意は相当な裏切りに値しよう。
「兵ごと自らを捧げれば、清い身になれると盲信していたのか? 俺は貴様の自殺幇助のために戦ってきたってのか、ええ!? ふざけやがって、許せねえ……ただでは殺さんぞ灰騎士! 畜生と言った己の臓物を残さず喰らわせてやろうか!?」
「……ぁ、ぐ……っ」
抵抗はせず、唇も息を継がなかった。望んだ行為なのだ。死に近づく苦しさよりも安堵の方が多い。
これで、この狂った世から抜け出せる。"曹灰の貴石"が実在しないというまやかしに、心乱されず済む。
死へ臨むにあたり、やっと私は平穏を迎えた。あと数秒、数瞬を経れば願いは叶う。不都合な事実から逃れられる、からっぽの亡骸の記憶を魂の大海に流せられる。
そして澄みきった心境に訪れたのは……待たれよ! という老人の声。あとから女性の悲鳴と、若い男の罵声が届く。大勢の足音、私たちの名と、制止を求める叫びが響く。
外部の刺激に反応し、喉を握る手がぶれた。
……やめてくれ。殺すのをやめないでくれ!
最期のときだけ、私をどうか……
あらん限りの熱情で穿ち、壊して欲しい。
運命という大河は決まった道筋を流れ、遡及することなく未来に進む。変えられぬ、受け入れる他なき大いなる波は、どうしたわけか世界を最悪の展開に導いた。
"私の誕生"という分岐を許したのだ。
「なぜでしょう、母様」
全身に打撲を負い、傷の熱に浮かされながら、幼き日の私は母に問いかける。
「なぜ私は剣を学べばならぬのですか?」
「私を守るためよ! 強くなって、他の妃どもからの刺客を返り討ちにしてやるのよ! わかったらバカなこと言ってないで鍛錬を続けなさい。王位継承権も剥奪されたあんたは、それくらいのことにしか使えないんだから!」
「どうして母様を守らないといけないのですか?」
この答えを貰うまでしばらく時がかかった。化粧を中断した母は、気の済むまで私を打ちにかかったからだ。
彼女はとうに王からの寵愛を失い、後ろ盾についた貴族たちからも疎ましがられていた。それでも野心を諦めきれず、日夜有力者に媚を売ることで忙しい。
「そんなの私が"美しい"からに決まってるじゃない!! いいこと、ワイツ? 美しい私は再び愛妃に返り咲いて、権力の頂点に立つの。だから守られるのは当然なのよ! ガキの分際で生意気言わないで! おらっ、あっち行けったら!!」
命じられれば従うしかない。提示された選択肢はいつも限られ、どれを選んでも痛みを伴うものであったが、私という忌み子はそういうために生まれてきたのだから仕方ない。
この時も命令に従い、木刀を持って鍛錬の場に向かう。
師としていたのは、母に仕えるたった一人の護衛兵。彼は昔、強力な騎士だったそうだが、足を負傷してからは閑職に追い込まれた。私に剣を教えると言うよりは、鬱憤に任せて打ち据えるというのが正しい。
けれども、言いつけを守らないわけにいかない。私は暇を見ては彼に教えを乞い、叩きのめされながらも剣の技を学んだ。
勢い余って殺してからも、追加で雇われた四、五人に対して同様に教授を求め、足りなければ他の後宮の兵を襲った。
誰しも最初は無力な赤子で生まれてくる。唯一の武器は"叫び"だ。泣くことで他者の注意を引きつけ、要求を叶える。
ただし私の場合、この手は通用しなかった。母は、何の権力も与えられない私を養育する意味が見出せず、放置した。
泣けども、喚けども手は差し伸べられない。
そのうち赤子は声をなくす。涙を捨てる。意味を成さないものを削いで、自身の正確な立ち位置を悟り、生きる理由を定める。
そのようにして、私は育った。