第六十九話 ワイツの虚無
月の見えない深夜に雪明かりが浮かび上がる。見張りの目も避けて歩き、目的の場所に近づけば……ちょうど天幕の入り口が揺れたところだった。
現れた人影は普段と違い外套のみを羽織っていた。蒼銀の甲冑なしでは攻性の欠片もなくただ嫋やかだ。私の存在に気づいたとき、カイザは藤色の瞳を震わせた。
「やはり呼ばれていたのか」
「あ……ワイツ、団長。私は……」
「わかっている。弟のところに行くのだろう?」
率直に尋ねれば間髪置かずに肯定する。私に対して嘘を言うような彼女ではない。また、そのように教え聞かせてある。
日中、都からやってきた弟との面会が終わると、私は尋問のためあちらの軍に連行され、代わりにカイザが自隊の代表として現状報告の責務を負うことになった。急なことながらも粛々と語る彼女に対し、弟は顔を寄せ何事か耳打ちしていた。
私が目撃したのは一瞬であったが、予想の内容は正しかったようだ。
「報告せず、勝手な判断をしたことはお詫びします。申し訳ございません……しかし、あなたは拘束されていたはずでは……」
「あんなものは緊縛のうちに入らない」
気にするなと言っても、状況的に私が目の前にいるのはおかしいと思うもの。これから都に戻される身柄は、逃げぬようにと枷をかけられていた。尋問はもちろん暴力を伴うものであったが監視は甘く、気を飛ばしたふりをすればいくらでも抜け出せられる。
そうやって私はカイザのもとへ赴いた。都につく頃には半死半生の状態で王族の前に引きずり出されることだろう。しかし私には、まだ体力のあるうちにすべきことがあった。
「行くな、カイザ。彼にどのような条件を提示されたかは知らないが、この行為は"間違って"いる。おまえはこんなことをやるべきではない」
「ご教示、ありがとうございます。ですが、このままでよろしいのでしょうか? お望みがあれば喜んで従いますわ……教えてください、ワイツ団長。これで、私たちの旅は終わりなのですか?」
「そうだ。もとよりこの任務は王家から命じられたもの。彼らがやめろと言えば服従するは当然。朝にはここを発つ」
「よろしいのですか? 向こうに戻れば……あなたは殺されます」
だろうな、と無感動に答える。あの軍において私のこだわりを唯一知っていたカイザだからこそ、今の本心を問うことができる。
「信者の怒りを鎮めるにはそうするしかないらしい。どうせ死ぬのなら、塵も残さず逝きたいと考えてはいたが、それは私の勝手な思いだ。命令の抜け穴を都合よく解釈したに過ぎない。"曹灰の貴石"が私に相応しい果て方を決めているなら……そちらに殉じよう」
ずっと側に付き従ったのだ。私の思いを一番に理解しているはずなのだが、カイザは弱々しく首を振った。
この憂いの面持ちも迷いがあってのことだ。彼女は私に"死に方"への未練をちらつかせてまで、判断の再考を祈っている。
出会った頃のまっさらな心は、こちらの教えを貪欲に飲み込んだ。カイザは花も手折れぬ令嬢から、豪勇な戦姫にまで成長してみせたが、私がいなくなった後の生き方について智慧を持たない。
ゆえに彼女は私の背に腕を回し、決して離れまいと縋りついた。
「残った兵らはおまえがまとめろ。彼らにはまだ退却のことを告げていない。弟は私を連れ帰れば満足するはずだ。あとのことはおまえたちだけで判断すればいい」
「ワイツ団長……いいえ、そんな……」
「もう私はおまえの"団長"ではない。戦い方ならすべて教えた。これ以上私から得るものはない。賢いおまえなら理解しているだろう? ……ここから去れ、カイザ。私亡きあとは、また新しい導き手を探せばいい」
「私は……嫌でございます。あなたがお一人で儚くなってしまわれるのは嫌……!」
「だめだ。その思いは"間違い"だ。おまえはそのようなことを疎まずともいい、カイザ。私に気をやる必要はきっと……最初からなかったのだ」
確固とした正答をカイザはすでに持っている。私は王家に従い、死ぬ。彼女にとって好まざる事項だろうと真実は覆せない。
私は白い頬に触れ、ゆっくりと体を離した。悲哀で弛緩した細身は、袖を引いただけで障りなく外套を落とす。
「上官として最後に、おまえを懲罰せねばならない。命令に口答えし、私に許可なく触れた罰として……この上着を没収する。これがなくては弟のもとまで行けまい。凍えたくなければ早く寝台に戻り、あたたかい毛布にくるまりなさい」
これが最後の指導、最後の教えだ。告げれば彼女は静々と実行した。このまま明日から兵を指揮し、逃避行を始めるなり、聖地に魔女を送るなりすればいい。
私が死に、命令の効力が尽きたのちも、彼らなら……メイガンなら、カイザを決して見捨てやしない。
麗しき藤色が天幕に消え、中から衣擦れの音が収まったのを確認してから……私は、今入手した彼女の外套を着こみ、目深に頭巾を下ろした。
興味深げな視線が漆黒から這う。人目を忍んで向かうので、枯れ木の密集した道を進んでいたが……その、黒靄の果てに蠢くものがある、少女だ。もちろんそれは不死者"魔女"。
いつもは現れてからやっと反応できていたが、今回は前兆を感じたので、登場場所にあらかじめ視線を置いておける。
「魔女。見てないで出てきたらどうだ? 私に何か言いたいことがあるんだろう?」
「……ええ。そりゃ言いたくもなるわよ。ワイツ、あなたいったい何してるの? 話し声がしたから見てたけど、行動の意味がわからないわ。なんでカイザの服着てるのよ?」
塞ぎ込んでいるとライナスは言っていたが、時間をおいて怒りが落ち着いたのと、私が肝を据えたのもあって、通常よりも砕けた会話をする。
「どうしても知りたいというのなら、こちらの疑問にも答えてもらいたい……あの宝玉は何なのだ? 司祭の男が杖として使っていた、赤く透き通る玉の名前は?」
「言いたくない……言いたくないわ! なんて生意気なのかしら! そんな問いを対等とするなんて、不敬にもほどがある……!!」
答えてもらえないのは薄々わかっていた。魔女の烈火がぶり返し、私を焼こうとする。
謎の憤怒をぶつけられ、殺されるのは理不尽極まりないが、あの宝玉に入れ込む気持ちはよく理解できる。
「君の激怒する理由は知らないが、大事なものだというのは納得できる。あれは人の手が持つべきでない。使役できるような存在にも思えない……もっと横暴で、傲慢な光を感じた。見た瞬間、強く心惹かれたのだ。畏怖をおぼえるも欲しくてたまらない……」
これが私の嘘偽りない真実だ。幼き日より、あのように美しい、尊奉すべき者たちのために生きてきた。
この主張を経て魔女は、はっとしたように短く息を漏らす。
「あの光に当てられてから自制も叶わない。私にも、ずっと"美しい"と崇めていた者たちがいる。その一片が今、同じ陣中にあるのだ。なんとしてでも確かめたい……取り出したそれは何色の輝きを放つのか。目にすればどのような感情が胸に沸くのだろう? かの赤き宝玉と同じく、不可思議な効能を顕現するのか……?」
「でも、ワイツ! ねえ……ちょっと、それはおかしいわ。あなた、さっきから何言ってるの?」
「私は……!」
見たくなったのだ。大事大事と謳われ、崇められ……言葉一つで国を動かし、他者の生き死にを決定できる超常の輝き……"曹灰の貴石"を。
長い間、ずっと命を懸けて守ってきた。どのような命令にも従い、要望に応えてきた。功を盾に施しを強請るわけではないが、垣間見るだけ許してほしい。
あの赤玉を見せられ、例示されては確かめずにいられない。
私は王家の番犬。宝箱の前に繋がれた狗だ。これまで守っているものの中身を知らずに生きてきた。
だが、最後に一目でいい。内部に眠る美しい光が見たい。
心情をぶちまけてからは、振り返りもせず不死者と別れ、待望の地に近づく。弟がカイザを舌舐めずりするように見、接触した時から今夜しかないと思った。
明日からはこのような行為をしなくなる。私も厳重な監視下に置かれるだろう。抵抗しないとは知っているだろうが、念のため手か脚の腱を切るくらいはする。
だから、弟のそばに行くにはこうするのが都合いい。今頃彼が用意しているだろう……夜伽相手の来訪と、そのために人払いした状況も、私の目的を果たしやすい。
「ああ、やっと来たか! 卑しい女の分際で、僕を待たせるとは度し難いぞ。さあ寄れ、朝までに抱き壊してやろう……」
しなを作って歩けば見咎める者はなく、兵らは自然と道を開けた。当人も私をカイザだと信じて疑わず、腰に手を回して引き寄せる。
ただ、好きに触らせてやるのは、外部の者が散るまでの間だけだ。
「放せ。私だ」
「うわわわっ! ワ、ワイツ!! ふざけるな、なんでここに……ええ?」
「ゆえあって来た。罰ならあとで如何様にも受ける。だから静かにしてほしい……すぐに済ませる」
熱意を込めて懇願すれば、弟は許容したように大人しくなった。着衣を捲って腹を晒せば、僕にそういう趣味はない! と反抗し始めるも微々たる力だ。
別段、私と変わり映えのない肌に触れる。見かけの美麗さなど取るに足りない。重要なのはその内部の違いなのだ。
王家と同じく、特有の灰髪を受け継ごうと似通った姿形であろうと……私は"彼ら"とは違う。決定的な何かが私にはない。
「……頼む。その身で答えを教えてくれ」
"違い"とは何なのだろう?
……。
…………。
………………見つかったのは、虚無。
「どうしたんだ、ワイツ。こんなところで……」
「……今の、あなたは……"ギラス"、か」
逃げ出してどれだけ経ったのか。今が、朝か昼か夕暮れなのかもわからない。私の心には永遠の闇が巣食う。
「皆、あんたを探して、あちこち駆けずり回っている……何があったんだ? おい……なんだ、その血は」
「……なかっ、た」
「ああ?」
「弟の、身体のどこにも……"曹灰の貴石"は入っていなかった!!」