第六十八話 ワイツの歓待
暗黒の胸中に声が鳴動する……弟が来た。
彼は私と違って生粋の王族、ニブ・ヒムルダの"曹灰の貴石"である。
言葉が発せられるようになったのは更に数分経過したあと。すでに来訪者は合流しているのか、天幕を立てる音と聞き慣れぬ声がこちらに差し込む。
騒音が私の身体に障ると思ったか、カイザは鎮静のため離れた。メイガンも彼女についていく。あとには黙々と治療を続ける老魔術師が居残った。
彼には聞きたいことが山ほどある。気を裂くことが多すぎて、魂が散り散りになりそうだ。行かなければいけない場所。会うべき人物。やるべきことも尽きない。
信者の持っていた杖、あの赤い玉とローアが手繰った抹消の光。そして、守るべき王族の存在……全く別な事象であるのに、なぜか私はこの二者が同質に感じる。
どれも眩い。目に焼き付いて離れない。そして、どちらの"美しさ"も、私が生きている限り、記憶から剥がれることはないだろう。
「……ライナス殿、私は」
「目覚めたか王子! ああ、どうか落ち着いて聞いておくれ。実はの……」
私の意識があるのを知ると、老爺は現状の報告を始めた。大まかな内容はカイザらに語った際、聞き耳を立てていたので把握している。
再度、都からの来訪者があった理由も、国王が大貴族ふぜいの派遣では不十分だと気づいたから。私の説得に書簡程度の小細工は通用しない。この様子だと貴族の男が話したとおり、陛下は本気で私を止めたいようだ。わざわざ本物の血族を遣わすほどとは。
過酷な戦闘と魔女の変貌、指揮官である私の負傷といった事態に手一杯で、進行してきた新手に気づけず合流を余儀なくされた。ライナスは最後にそう締めくくって不手際を詫びる。
そのような苦労話はどうでもいい。訪ねてきた弟との会合は重要だがともかく……私の関心は正体不明の赤珠にある。
あれにも名前があるはずだ。私の知るもう一方……"曹灰の貴石"と同様に。
「事情はわかったが、気になることがある。私は……林での戦闘にて、赤い宝玉を見た。杖に嵌め込まれていたものだ……少年信者の連れの、男が持っていた……」
「ああ聞いておるぞ。カイザ嬢らが言っておられた、使徒側が使う呪具……目にした瞬間、魔女殿が豹変したとか。今も大木の上で塞ぎ込んでおるぞ」
「教えてほしい……あの宝玉は何なのだ? 何という名の結晶……どこから析出するものなのか?」
「……王子や。いくらわしでもわからないことくらいある。その場にいなかった以上、わしは情報を持たぬのじゃ。残念ではあるが、その玉の正体までは……っ」
期待外れの返答に苛立ち、老人の暗布を引く。焦りが身体を廻ってどうにも止められない。
凄んで触れてみてもどうせ力の入らない手だ。けれども彼は目を見開いて硬直、恐れるように老体は震えた。
「必ず何か知っているはずだ。これまでもそうだった……答えてくれ! あなたほどの賢人ならわかるはずだ……!」
「違う! ……違う。わしは、決してそのような……」
「申し訳ございません、ワイツ王子。殿下が迅速なる面会をお望みです。何度も猶予を求めたのですが、これは命令だと言って聞かず……」
間が悪く割り込んだ声は私の部下のもの。暗布から手を離し、兵の方を向く。焦燥は波の退いたように静まり、心は一つの目的に染まる。この場における優先順位が書き換えられた。
"命令"……もちろんそれは弟の口が発したもの。この国において最も強い輝きを放つ、国王からの玉音も私を呼んでいる。
「わかった。すぐに行く」
「なっ! いけませぬ、王子!! まだ回復しきっておらぬ、安静にしておるのじゃ……ええい、殿下には明朝参られるよう伝えよ!」
「必要ない、充分に休んだ。それに命じられては向かわねばならない。私は……"彼ら"の為に生きているのだから」
軋む身を起こして立ち上がる。貧血で目眩がした、まだ治癒が足りない。
ふらついて歩く私の姿は、すれ違う者すべてに痛々しげな目で見られた。
一つにまとめ、背中に流した髪は私と同じ灰色。あまり背丈の変わらぬ青年が苦々しい顔で立っている。弟といえど数日の差だった。最も年の近い親族であるが、育った環境も思想も王家として受け継いだものも……何もかもが私と違う。
出立の折に会った以来だ。再会は人目を忍ぶものでなく、雪原に建てた陣営にて両軍相対した状態で行われた。
「待たせて悪かった。が、それ以前にこの地で会うとは思いもしなかった。まずは足労をかけたこと陳謝する。あいにく、侘しい陣中ゆえ期待されるような歓待は……」
「黙れ! お、おまえのせいで僕がどれだけ恥辱を被ったと思っている……!! 国も僕たちもめちゃくちゃだ! 全部おまえのせいなんだよ、おらっ!!」
王族の一員、同じ血の通った兄弟でなく、主君と下僕として礼を取る。負傷のため遅延な動作となるが、跪いて挨拶を述べれば……すぐに雪靴が飛んできた。
容赦なく蹴られ、横倒しに転がる。驚愕して駆け寄りかけるライナスやカイザ、その他部下たちには片手を上げて制し、視線だけで鋭く"来るな"と伝達した。
予測できたが避けることはしない。それどころか懐かしいほどだ。都にてこのような折檻は日常だった。
「……用事とは、私を足蹴にすることだったのか? ならば、これでもう気は済んだろう。都に戻り、陛下に伝えてくれ。命令には怠りなく従っている。"女神の使徒"討伐の任は順調だ」
「やめろ! そんなの無しだ、無効だ!! これは陛下からの"命令"だぞ、ワイツ! 王家は彼らと同盟を結んだ。だから戦う理由なんてない! 僕の口から言えば満足かよ、ええ? 忠実とはいえ頑固な狗め……その習性のせいで、僕はこんな辺境にまで派遣されたんだぞ! 馬鹿らしい!!」
言葉を受けて周囲にどよめきが生じる、無理もない。この任務に命を賭けていたのは私だけでない。皆、信者の脅威を知っている。国のため討つべき敵との認識している。それをいきなり捨てろというのだ。そんなことを容認すればニブ・ヒムルダは焼かれて終わる。
疑問を叫びたい思いはあるだろうが、誰しも発言を自粛した。弟が私を蹴り続ける光景に口を挟めないでいる。
「おい、どうした? 早く返事しろよ、このっ!」
「……確かに、承った」
「ははっ、最初からそうやって素直に従ってたらいいんだよ卑しい狗が! くっそ。こんな一言を届けるために、この僕がどれだけ苦労したと思ってる!!」
腹を中心に蹴られ、踏まれ……弟の暴力は止まない。直前まで治療を受けていたので武装はなく、着の身のまま嬲られる。与えられる衝撃に吐息を乱せば、彼は興が乗ったか、より激しく足を動かした。
しかし、苦痛は無きに等しい。ただでさえ締まらぬ身体つきに、慣れない足運び。繰り出される攻撃は非力すぎて痣も残るまい。急所といえば仮縫いの傷口くらいだが、この調子では開くとしても数時間を要する。
「……おい、痛くて言葉もないか? ひゃははは、もっと苦しめよ!! まだまだこんなもんじゃ気が収まらないね! まったく、生かして連れて来いなんて言われなかったら、すぐにでも殺してやるのに」
「ワイツ様!」
「んだよ、あいつ……!」
「ああ、ああ……やめておくれ! 傷口が開いてしまう!」
躍動する足で顔の角度を変えられた。細目で見る先には、不安気な私の部下たちとライナス。ちらりと見えたメイガンも不愉快な表情をしていた。
私はいたって平常だが、この様子は他者にとってよほど凄惨に見えるらしい。弟の連れてきた兵でさえも、居た堪れないといった風情で佇む。
「畏れながら、殿下! お止めください、これ以上は生死に関わります!!」
「ワイツ王子は敵と交戦したばかりなのです。どうか、どうかご容赦を賜りたく……!!」
「おっと、ワイツ。汚い豚どもから随分慕われてるなぁ……ああ、そうか。その身を使ってこいつらのご機嫌をとっていたんだな。さすがは畜生の子、やることが母親とまったく同じだ」
「お願いです、殿下……もう、これ以上は……」
「うるさいなあ。獣どもの言うことなんか理解できないね!」
勝手に危機と判断し、私の命乞いをはじめる者も現れた。不要だと言って切り捨てる前に、弟自らがその行為を罵倒する。
「それに、ワイツはこうしてやるのが正しい飼い方なのさ。こいつは僕たちニブ・ヒムルダ王家……崇高なる"曹灰の貴石"の命令には何でも従う狗なんだから! 知らないなら見せてやるよ。じゃあワイツ、這いつくばって僕の尻でも舐めたらどうだい! 早くしろよ。ほらほら"命令"だぞ?」
「そうか」
令を与えられたので揺らめき立つ。さして痛がらないのを不思議がったか、弟は目を見開いた。
「では……その場で下穿きを取り、四肢を地につけて尻をこちらへ向けろ。命令には従うが、私は負傷の身ゆえ、できるだけ高めに突き出してもらいたい……どうした、しないのか? ならば助力を求めよう。誰か、彼に手を貸してやってくれないか」
呼びかければ即、協力の手が上がった。私の陣から傭兵たちが歩み寄る。頭領のメイガンは先ほどと変わってにやにや笑み、仲間に迅速な指示を飛ばしている。
彼らは王族の召し替えを手伝った経験はなさそうだが、意欲的なのは好ましい。しかし、弟は自分が言ったことにも関わらず、嫌がって喚き出す。
「な、何を言い出すんだ! このような大勢の前で……! やめろっ、近寄るなおまえら!!」
「君が先に命令したことだろう? もちろん従おう、すでに知っての通り……私は本気だ」
当然心得ているはずだ。以前にも彼の命ずるまま靴を舐め、寵姫二人を手ごろな凶器で殺害したこともある。毎回の事ながら、"彼ら"の命令の意図は不明だが、私は知らなくていい。知る必要もない。
「う、わああ……無しっ! これは"命令"だっ! "命令"だぞワイツ、今の無し!! 無しだあっ!!」
集団の輪から弟の泣き言が漏れた気もしたが、傭兵たちのだみ声でよく聞こえない。