第六十七話 ワイツの放心
男のための光は潰えた。あとになって祈り出し、女神に力を乞おうと無駄だ。告死の少女が目の前で微笑みかけている。
不死者"魔女"は、先に言い渡したとおり死を贈ろうと訪れた。少年の次は叔父の順番が来たのだ。私たちの身体を横取りしようとした罪は重い。
なおも甥の死が信じられないのか、年長の男は近場の肉片に駆け寄る。半ば雪に埋もれた、少年の生首……その顔が深い絶望を刻んでいようと家族の顔を間違えまい。
「ローア! ローアっ!! ちくしょうっ、ありえねぇ!! 俺の、甥っ子が……誰がやったんだよ!? こいつは聖地で一番の信徒だぞ。聖女に首ったけの馬鹿だが、実力は本物だった! なのにこんな……ありえねえよ!!」
「文句があるんなら"聖女"に言いなさい。好き合った相手がありながら他人に色目使うあの子が元凶よ。勝手に横恋慕して自滅した坊やも、馬鹿だったのは否定しないわ」
「ふざけやがって……やめろ! く、来るなっ!! 来るんじゃねぇ!!」
ようやく死の運命を思い知った男は、這いずって漆黒の笑みから距離を取ろうとする。ローアの首を強く抱えているが、彼はもう護衛の役目を成さない。膨大な魔力の残り香も、命すらないのだ。
男はこのままおとなしく殺されてくれそうなので、私たちは魔女の邪魔にならぬよう、後方から遠巻きに見つめる。
そんななか、あいつ誰? とメイガンが尋ねたので、簡単に男たちの目的を説明してやったところ、なぜか彼も魔女と同じように憤った。
手強かったローアの時と違い、年長者は死因を自由に決められる。魔女が楽しい嬲り方を決めている間……男は急いで馬車に戻った。この状況で逃げられるとでも、と見苦しさを感じたがそうではない。
「ええい……"これ"を使うしかねえってことか!」
男は馬車内部から棒状のものを取り出した。包装の布が落ち、中から現れたのは"杖"。ライナスが持つのと同じ、魔法を遠距離に発現させる武具だ。
彼は魔術師だったのか?
しかし、あの……真紅の、玉は…………?
「……え?」
耳に届いた一音の声。ただそれだけで身の毛がよだつ。
こちらから見えるのは少女の後ろ姿のみ。だが、私たちは皆等しく凍りついた。華奢な肢体から発された感情のゆらぎ……動揺は大地を割るかと思わせた。彼女の乱れた情調は伝播し、私たちの魂を震撼させる。
「え、え!? 嫌、それ……なんで?」
「なっ……魔女? 何をそんなに怯えて、どうし……っ!?」
「いけません、ワイツ団長!! 皆も、死にたくなければ目と耳を塞ぎなさい! 伏せて!!」
近づきかけた歩みを止めさせ、カイザは全員に警告した。場にいるのはそれなりに死線を潜った戦士たちだ。危機なのはわかる、凄まじい攻撃の予感はする……しかし、防ぐ術が思い至らない。
雪面に伏せ、体を丸めて原始的な防御の姿勢を取るしかない。耐えがたい重圧は以前にも感じたもの、不死者による魔力の放出だ。
対応が間に合わなかった者は失神し、抵抗及ばなかった者も伏したまま意識を飛ばす。悲鳴と呻き声を出すのは少数。だがそれも狂騒に飲まれていく。
衝撃に蝕まれながらも、私は発生源を見続けていた。あの杖を見た瞬間、憤怒と悲哀と憐憫の叫びをあげる……魔女の姿を。
「あああああ!! ああああああああ……っ、なんで!? なんでっ、こんな……酷いわ!! 嫌っ! こんなのは嫌!!」
彼女から迸る一音一音が呪いを孕んでいた。小柄な体躯の、しなる手足。男……いや、杖に伸ばした腕は強化され、魔撃を付加して殺意に弾む。金の瞳から覗く景色は焼かれ、凍てつき、雷に穿たれた。
「……ちいっ! なんだよ意味わかんねえ! なんであいつ発狂してんだ!?」
「私にもわかりませんわ。団長、これはいったい……?」
「魔女。急に、どうしたことだ……しかし、あの玉は……」
「ワイツ、あんま顔上げるな! そっち見ねえ方がいい、目が焼けるぞ!」
けれど見ないわけにいかない。否、私も魔女と同じく目が離せないのだ。杖に嵌め込まれた真紅の宝玉に気を奪われている。混乱と苦痛に喘ぎ、それでも状況理解に努めるカイザとメイガンだったが、私の零した一言には息を呑んだ。
「美しい……」
怒り狂う少女を通過して彼方、無様に失禁し震える男がいる。この不死者の反応はまったくの想定外なのだろう。歯の根が合わず悲鳴も漏らせていない。けれど、彼は"いまだ殺されていない"。
「わああああ!! っあああ!! 殺してやる……!! あ、ああ……本当に許せないわ!」
「ひっ、ひぃぃ!! う、ぁあ……たすけ、て……"聖女"っ……ぎゃああああ!!」
もはや自分でも何の魔法を使っているかすらわからないだろう。魔女はただ強く、目の間にいる不快な事実の撃滅を望んだ。自前の武器である高威力の魔法も、呪詛も惜しみなく浴びせる。
だが、死なない。
攻撃はすべて杖から発現した光に阻まれていた。あの美しく、赫い……宝玉より溢れる輝きによって。
例えるとしたら赤薔薇の蕾に秘された深窓の紅。酒瓶に閉じ込められた熟れ過ぎの果実。あるいは肺を患った者が吐く、内腑に濾過され澄んだ血の色……何にせよ美しい。
あれはなんなのだ? どういう仕組みで勝手に魔法を生み出している?
男を守る絶対防御の光膜、さらに精神干渉の耐性も与えられている。彼は無傷であり、正気を失った様子もない。もともとの信仰心はローアの爪の垢ほどもないはずだ。しかし、甥以上の魔法を発現し、魔女の狂乱から生存を続けている。
術式を唱える動作も見られない。ならば、あれは不可視の力と同じ理屈か。意志が物理を伴って現れる魔法。あちらが許可なく触れるな、という拒絶の表れなら、今のはさしずめ"助けてほしい"との思いに応えていると言ったところか。
「殺してやる!! 絶対に殺してやるわ……"王様"!!」
あらゆる呪いが通じぬと実感し、少女は手を止め、ままならぬ現実と悲痛を吐き出す。
それはとても……心が軋むような叫びであった。
「王、だと……? 何言ってやがる」
「それは、"不死の王"のことでしょうか……? しかし、なぜ今そんなことを……」
真実は何一つ解き明かせていない。私たちにできることは這いつくばって嵐の通過を待つ程度だ。
怯え、恐怖するばかりの男だったが、いつまで経っても死が訪れないことを悟り、じわじわと後退する。
硬直のためか、杖とローアの首をしっかと握り馬車を引いてきた馬に寄る。倒れた騎獣に赤き宝玉をかざせば、たちまちのうちに蘇生した。握る手綱はそのまま命綱の役目を持つ。鞍もないまま跨って、譫妄の場から離脱を図った。
「なんで! どうして、王様っ!!」
どう足掻こうと通じないのだ。魔女は追うのを諦めて座り込む。大人しくなったように見えるが暴走は止まらない。呪詛と魔力の暴風は吹き荒れ、私たちの体力を極限まで削る。
最後に姿が消えゆく刹那、少女は切なげに呟いた。
「ねえ、どうしてよ…………どうして、あなたはそんなに"優しい"の?」
彼女と表現は異なるが、私も同様の思いを抱いている。あの宝玉が離れていくのを狂おしく感じる。一目見ただけで心が囚われた。
欲しくなったのだ。持ち主の願いを叶えるわりに、豪胆不遜な光を放つ……あの赤い石が。
あれは、おそらく"曹灰の貴石"と同じ輝きなのだろう……
「ワイツ王子! ああ、おいたわしい……すぐに治癒を」
どれほど時が経ったか見当もつかない。体をあたためる感覚と老爺の声で意識が浮上した。
けれど私は瞼を上げる気力もなく、放心したまま体を探る手に身を任せている。意志なき人形と思われても仕方ない。私の心はあの赤い玉に持っていかれた。
「お待ちください。ライナス様、なぜそんなに急いておられるのです? それと、あちらの戦闘はとうに終わっていたのに、どうして参集に時がかかったのですか?」
「そうだ、じじい……遅せぇぞ。そんなに"ギラス"を宥めんのに手間取ったのか?」
動こうとすれば激痛。あの混乱の折、最後まで執着したせいか攻撃の一端をまともに食らい、観覧を打ち切ることとなった。結末まで見届けたカイザとメイガンが状況を語っているのだろう。近場から、息を吹き返した兵たちのどよめきが聞こえる。
「い、いや……こんなときに面目ないが、厄介な輩に見つかってのう。この計画で囮とした騎士軍、あれは前哨だったのじゃ。接触直後に早馬を出され、より離れた後方より本隊が到来した……今まで吹雪で足止めされていたようじゃが、そやつらが連れてきたのはなんと……」
また都より新手の来訪か。そんなことはもういい、早くあの男を追わなければ。聖地に行けばあれが見られる。私を灼く消滅の魔法がそこにある。どちらも美しく、愛おしい破滅の光だ。
「……ワイツ王子の弟君。ニブ・ヒムルダ王家の第五王子が参られたのじゃ……」
ライナスの告げた言葉は、意識を現実に引き戻した。拘泥の矢印はすべてそちらを向く。
この空虚な胸を駆け巡る衝動の名を、私はまだ知らない。