第六十二話 ワイツの休息
術式を踏み越えた先も雪原だった。清く、穢れなき白色。こちらの雪は吹き荒れ、下界を塗り潰すという意思はなく、兵たちの営みを強調させる背景に甘んじている。
騎士軍の待機場所とは距離を隔てているが、私の野営も同じ条件の地平にある。ここまで天候が異なるものかと不思議に思うも、"彼女"なら吹雪を他所に押しやることも可能かもしれない。
老戦士には勝てないと懲りたのか……現在、不死者"魔女"はテティスと遊んでいた。彼らの手にあるのはまたしてもカードだが、今度のは互いのそれを引き合うのではなく、積み上げて塔を作る遊びをしている。
部下らが大荷物を持って現れた時には、紙の塔を振動で崩してしまい、魔女からの理不尽な叱責を受けることとなった。
「それにしても転移術なんて"あの騎士"みたいなこともするのね」
ライナスの取りなしで騒動は収束し、彼女は気分を改めて建築を再開する。投げかけた話題も全く別の事項となった。
「魔女殿。それはいったい誰のことじゃ?」
「えーおじいちゃん知らないの? あたしと同じ不死者の一人で"騎士"って呼ばれてるのがいるじゃない。そいつ転移の魔法が得意なのよ。まあ、それしかできないっていうのもあるけど」
「それは……此度使用した魔法は、不死者が伝承したものであるというのか? ……ははあ、これはなんとも。どおりで理論だけ伝わっているはずじゃわい。発現には途方もない魔力を必要とするが、あなたがたなら支障あるまい」
私は部下から収穫の内容報告を受けるも、魔女の刺激とならないよう小声で話させているため、彼らの会話がよく届く。
ライナスが騎士軍との接触方法として提案したのは、魔法による空間超越……いわゆる"転移の術"だった。
魔力はいつも通り魔女から借りたが、術式はライナスが編んだもの。老爺曰く、転移魔法の理論と公式だけはなぜか以前からあり、ずっと試してみたいと思っていたらしい。
魔女の視界から位置を割り出し、騎士軍の待機場所へ飛んだ。悪天候であったことも幸いし、彼らには私たちが忽然と現れたとしか認識できない。これで誰にも野営地が特定されず、多量の物資移動を可能にできた。
なお私は、その術を使って聖地へ行けないかと尋ねたが魔女から、うーん無理! と言われた。ライナスにとっても専門外の知識で、書ける術式も丘一つ越えるものでやっとだという。実に役立たずな魔法だ。
過去に訪れたという経験があれば当該座標に飛ぶことはできるらしい。しかし、それには魔女の"以前の肉体"が必要とのこと。
そんなものとうの昔に焼失している。
「ねえ魔女さん。その不死者"騎士"ってどんな人? 女の子? かわいいの!?」
「男。黒髪黒目。もちろん見た目は若いわ、テティスよりちょっとお兄さんくらい……ワイツやメイガンほどの年代ね」
「なんだ男かぁ」
名を出されたので無意識にそちらを見てしまう。勝手に比較されているのは不死者の一人、"騎士"と呼ばれる存在について。
漆黒の少女はじめ世に君臨する不死者は全部で七人。"王"、"魔女"、"聖女"、"学者"、"道化師"、"賢者"、"騎士"……うち三名がこの国に集っただけで大した奇跡だ。
たとえ珍しい状況だろうと気にするのは私の本懐を遂げられるか否かということ。盤上にいない駒を挙げられても関心など持てない。
「あらテティス。あなた殺人の好き嫌いはしないって言ってなかった? この前も愉しそうに男信者を抉ってたじゃない」
「だってその騎士って人、不死なんでしょ? 死なないし、懇願の目で僕を見てくれない。殺そうとしたって楽しみ方がわからないよ」
「ふーん。じゃあ、あたしや聖女を殺しにかかるのはどうして?」
「その、えっと……あれだよ。あれ……」
少年は頬を染め、理解不能な恥じらいをもって語る。不快を催したライナスが立ち去ろうと気にすることもない。
「君も……聖女って子も、きっと優しいしかわいいから、頼み込んだらお願いきいてくれるかも、って思うんだ。その……僕のこと、少しでもいいから永遠に覚えていてくれないかな?」
「ちょっとそれ何言ってるかわからないわ」
その後も少年少女の会話は続いたが、はっきり言って不毛なやり取りだ。流し流し聞いていた部下の話も終わり、次は自身の番だとライナスがやってくる。
雪原に暗褐色の対比は視界に焦げついて残る。幾重にも巻かれた呪具の下など想像もつかない。都においても貴族の後に控え、陰気な印象を振りまいていた老魔術師。彼にまつわる噂も怪談じみたものばかりだった。
過去に関連して、先ほど殺害した大貴族のことも想起してしまう。あの男はライナスについて何かを追責していた。断たれた顔が口走った言葉、老爺らしからぬ不審な態度……どうでもいい。問う手間も惜しい。
そして歩みも遅かったため、私との対話はメイガンに先越された。
「……んだよ、ワイツ。騒がしいと思えば帰ってたのか。んで? 結局あいつら何の用事だったんだ?」
「気にしなくていい。彼らは私たちへの"補給の任"を受けていたようだ。これはすべて快く提供してくれた物資。武器や防具もある。必要なだけ持っていけ、遠慮なく使うといい」
「はぁ、"快く"ねえ……まあいい。どうやって調達してこようと俺にゃ関係ねえ」
どことなく気だるげなメイガンは寝起きであるらしく、いつも天突く濃紺の髪はあさっての方を向いていた。風采冴えずとも彼は一つの集団をまとめる若頭。軍の動向には関心著しい。
付近に来たのが味方軍と理解しているものの、私たちの反応と騎士の一人も招き入れず、物資と馬だけを根こそぎ持ってきたことからして交渉の内容も察せられよう。
その証拠に食糧も多めに頂いてきたと述べれば、おまえ隠す気ねえな、と呆れられた。
「……じゃあ、とりあえず一品作ってやらあ。できたら運ばせっから待ってろ」
「そうじゃワイツ王子。物資の分配まで手ずからなさずともよろしい。ここはわしらに任せ、早よう天幕に戻られよ」
「待て。ライナス殿も……なぜ私が休むことになっている? まだ彼らがいるうちにやることがあるだろう?」
前に立った二人は当然のように私が休息するものと考えている。疑問の声を発すれば、意外そうに顔を見合わせた。まさか、私でも思いつくような次手を想定できなかったとでもいうのか。
任務達成のためには今こそ動く必要がある。多少寝ていないからと言って、傷を負ったわけでなし……私は動ける。まだ戦える。
「昨晩は一睡もしておらぬではないか! 今頃カイザ嬢も休眠しておる。敵の接近があればすぐさまお知らせするから、王子も休まれよ。もちろん、出発時刻になればお声かけしよう」
「違う。そうではない……警報や遠見の魔法を使わずとも、次に信者が現れる場所はわかりきっているはずだ。ちょうど近くに格好の囮がいるだろう。彼らに接近する軌道を読んで奇襲し、使徒の集団を一網打尽にしたい」
「王子や、それは……」
「……ああ。いや、言いてえことはわかる……けどよ、いいのか? 仮にもあれは王家の騎士なんだろ?」
「だから何だ? 彼ら騎士軍は装備一つ、一兵に至るまでが"補給の隊"だ。そのように扱うのは当然のことではないか。私はただ余すことなく活用しようとしているだけ。王家から下された命令を迅速確実に遂行するために利用しない手はない」
信者との激闘の過程に迷い込んだニブ・ヒムルダ騎士軍。無効な令を突きつけ、私たちに加勢しないのならば、こういう形で協力させよう。
ちょうど今頃は絶望と寒さで大いに騒いでいるだろう。優秀な囮として申し分ない。こちらは敵の進路の予想さえできれば如何様にも攻められる。
「ふっ、はははは! よいよい。実に良い案じゃ。して、わしらはいつ参加しましょう? "宴"の前か、最中か後か……?」
「終わってからでいい。客人が遊び疲れた頃合いに出迎えるとしよう。都ではよく言われたろう……? 私たちのような下賤な者が夜会に姿を見せるなと。今回も同じだ。皆の盛況は邪魔立てできない」
「そのように致しましょうぞ。ではわしも準備に取り掛かろう」
深く頷き、ライナスは私の案に賛同した。ならばこれで指示通り動くかと思いきや、彼は背中に負っていた杖に手をかける。嵌め込まれた薄墨の玉を見てからではもう遅い。
途端、身体に走る奇妙な感覚。急なことで避けられず、術が施される……"常世の眠りを"という文言は、暴走したギラスに唱えるものと同じ。眠りの魔法だ。
視界が濁っていく。立っていられない。
体調を案じられていたが、まさか強制的に眠らされようとは……
「わっ……待て! 私にも、これから支度がある……兵たちに……策を、伝えないと……っ」
「わかっておる。じゃが、あまり根を詰めなさるなワイツ王子。策は今聞いたので把握した。皆への伝達と戦闘準備くらいわしらで事足りる。どうかお休みくだされ。皆にとってもあなたは大事な存在じゃ。あなたが思っておるよりも……」
私が大事だと? 世迷言を。
この身は王家の消耗品。毛髪、皮膚の一片に至るまでが"曹灰の貴石"のためにある。彼らの気の向くままに嬲られることが日課だ。今は死んでくるように命じられている。
そんな大役を抱えた身柄はメイガンの肩に担がれ、あえなく運搬されていく。
おい、こいつどこに放りこみゃいい? などと話す声を最後に、私の意識は深淵へ降りた。