第五十八話 魔女の行進
清浄な大気に歌唱が鳴り渡る。女神を讃える聖歌が響く。救済の手は舞い降りた。
滞空するは聖衣の純白。女神の信徒は優しく微笑み、口々に聖句を諳んずる。人心が乱れに乱れたこの国には、困惑し、悲嘆する人々が存在する。不死者"聖女"は苦しむ余所の民も見捨てず、必ず救うと決意し訪れた。自らの使者を遣わし続けた。
今も司祭は迷える者へ呼びかける。私たちに賛同せよ。聖地に赴き、女神に会えと。
真冬の霜立つ広野は白く、日輪の発光を反照して、眼球を射抜かんばかりに輝いた。ふわり重なった雪華を軍勢は踏み躙って進む。未踏の白無垢を穢し、土色に染めることも兵士らは躊躇わない。それは、目の前にいる純真な信徒に対しても同じこと。
清らかに映れど、聖なる光輝は破壊を示す。侵略の手から森を守らねばならない。
先陣を切るは老魔術師の朗吟である。
杖で沓先を一打。それだけで奏者の指揮台は展開した。掲げる魔力の光幕……"魔光夜の銀詠"は三重に発現し、黄赤から金へと燐光を発す。風なくともざわめく呪具は、信者を嬲る脚本を書き連ねた。
ライナスは軍の楼台に立ち、はためく聖衣を俯瞰する。
「嗚呼……我らが"緑の王"よ。常世に漂う生命で、貴方の外縁に触れぬ者はない。死して貴方に還らぬ者はない……我らは生誕と破滅を甘受し、万物の理に従おう」
口上中も司祭は接近する。兵士からの夥しい戦意を浴びながらも微笑みを絶やさない。
まばらに滑空し、こちらを目指す若者たち。そんな景色をライナスは高所より眺め、杖で流線を描く。鋭く、一巡のみの動きだけでも、老魔術師は信者全員の位置を捕捉した。
薄墨の玉を通して、種は撒かれた。これより死の華を咲かせよう。
「貴方は大地。貴方は森……則ち、自然神よ。どうか輔翼を。我が矮小なる器に悠久の叡智を満たし候え……"天に地に。黒き野薔薇よ、枝葉を伸ばせ"」
"黒茨"は渾身の魔力を吸い、司祭の背後で発育された。ライナスの吟唱通りに繁茂して蔓を伸ばし、漂う者に絡みつく。魔の緑は信者を添え木と目して扱った。
死角を狙って発芽した魔法は、数人を巻き取った。もがけばもがくほど刺が肉を食み、天を舞う肢体を引き摺り下ろす。
高々と掲げられた獲物は喚き、仲間たちに助けを求めれど、救いは得られなかった。ライナスの演出した舞台は信仰心に恐怖を植え付ける。凄惨たる光景を見て、祝福は大いに削がれた。
四肢を潰した後に茨が躍動する。凹凸のなくなった身体を振り回し、速度をつけて大地に打ち付ける。悲鳴が耐えてからも、細かな肉片と変わるまで……それは続いた。
絶叫と血霞を含んだ風が、ライナス立つ楼台にまで到達する。
「……苦しゅうない。皆、こぞって死に絶えよ。我が"緑の王"の肥と化せ」
ニブ・ヒムルダが女神の楽土になることはない。あくまでこの地は信者の屠殺場なのだ。
杖の先端は二枚目の銀詠を指し示した。女神の教えから信者の心を剥がさんと、新たな魔法を金の光幕に映し出す。
同時に、待機していた兵から動きを見せる一団があった。
「万古の神霊地より、破魔の清流を迎え入れる。"怒濤の聖青よ。祓え、この地を清め給え"」
この地の神教において、崇める対象とは世界そのもの。そこから助力を乞い、術を行使する。今、老魔術師は地平の果てにある古き泉へ祈りを奉じた。
呼応し、濃紺髪の男が動く。構えられた刃は獲物の姿を認め、待ちきれないとばかりに雫と垂らした。
「俺は"メイガン"。泉に選ばれし誉れある民。恩恵の返礼に強靭な魂をくべる狩人の一族……わかったらさっさとてめえらの宗主を出せ! 俺が求めるのはそいつの首だけだ!!」
顎を剥いて吠える姿はまさしく獣。紫眼狼は狩場を疾る。眼前にいるのは彼にとって有象無象だ。すぐに蹴散らし、先を進もう。司祭どもなど腹を満たす前菜にもならない。
「聖泉よ永遠なれ! 先達の武名よ不滅なれ! 俺たちは最後の一滴となるまで、世界を己が青に染め上げよう」
単騎で剣を閃かし、メイガンは舞う。彼の演台に色を添えるのは金の煌光。老爺の術により膨大な魔力が結びつけられ、水の発現量は常時と比べ段違いだ。
斬っては裂き、泡沫は弾け、血と呪いの雨が降る。時に氷柱、時に雹……演者の求めるがまま、水魔法は形を変える。殺戮の手が浸透する。
荒れ狂うのはメイガンだけではない。彼の仲間たちも激しい昂りを見せていた。気合の叫びを高らかに、若頭のあとを猛進していく。
傭兵らの胸には誇りがある。泉の戦士は自分たちの名を記憶した。これから彼の成す、大いなる伝承に刻まれる。誰からも省みられなかった自身にとって、それがどんなに名誉なことか。福音であることか……
彼らの船は激流に乗った。向かう先は"永遠"だ。
「こんなに楽しいことってない! 僕、本当に生きててよかった、みんなと出会えてよかった!!」
快哉を叫んだのは、戦士と呼ぶには幼い少年。テティスは溢れ出る歓喜を全身で表し、槍の矛先に殺意を込めて突貫する。人体の液化、という状態異常に惑う信徒を執拗に穿つ。刺殺する。
司祭の恐慌するさま、反抗せんと立ち向かう様子は、残らず少年の興奮材料となった。敵から紡がれる言葉は彼にとって愛の告白に等しい。敵意をもって迫られることは、褥に誘われたのと同義だ。
「あははは! ありがとう、みんな! 僕も愛してるよ!!」
戦いとは交合。合戦とは大乱交に相違ない。
ゆえに性衝動の赴くまま、彼は槍を手に奮い立つ。
「この世界は! 愛に満ちている!!」
第三の幕を術式が満たした。深い悔悟と焦燥の思いから、荒々しく語尾は跳ね……赦しておくれと唇はわななく。枷が外れ、憤怒に支配された老戦士を眼下に、ライナスは援護の魔法を唱える。
それで"彼"の気が済むのなら、魂が安らぐのなら……老骨が砕けても惜しくはない。
「猛き霊峰より客人を招く。其は灼熱にして、堅牢なる火砕きの流星……山火よ。"燃えよ。神の庭を存分に焚き上げよ"」
司祭を阻む最後は焔。狂騒携え、地を爆ぜる復讐者。ギラスは女神の慈愛謳う声を残らず塞ぎに訪れた。激情を叫ぶ喉、屠る体躯は策も計略も持参せず、ただ怒りのみで駆動する。
「神? 神と言ったな!? 俺の眼前で祈りをほざくか狂信者!! 下天の穢れを嘆き、神に救いを願うと云うなら、今すぐに喉を掻き切れ。この場で殉教して果てろ!!」
"黒茨"、清流に乗る一団から逃れんと、司祭たちは脱出口へ走る。しかし、選んだ道は死地へと直結する。
ギラスは疾駆した。あとから溶岩が地表を呑み、火煙が上空に煽られる。自在に噴炎を発現し、繰るよう見えるが、災害を使役しているのではない。彼は追われ続けているのだ。火の手が"柊冠の子"を飲み込むまで、天災は止まらない。
地獄を再現するたび、ギラスの魂は着実に罅割れていく。
「天啓なんぞ待たずとも、この俺が神の真意を教えてやろう…………皆死ね。燃え尽きろ。"山の至上者"はそうして俺に炎を遣わした!!」
"熱雲"……そう発声し、剣を振り下ろす。握った手は震えていた。怒りか、それとも恐怖のためか。
最も見たくない魔法が、最も見たくない景色を生む。今も、あの時と同じく逃げ惑う人々の上に灰燼が堆積する。
地獄は此処に在る。あと何度、心を壊せばいい?
「……これでいい。何も、"間違い"はない」
「ええ。ワイツ団長」
爆風が艶やかな灰髪を弄ぶ。隣に立つ藤色の女騎士は肯定を頷き、ともに変貌した大地を眺める。
どのような戦況においても冷静な彼は、ニブ・ヒムルダ兵士から尊敬と崇拝の思いを一身に集めていた。常に前線に立ち、身を呈して味方を守り、震える兵の背を擦る若者を……皆は命を賭しても守ろうと誓っていた。
「では……逝こう。聖地へ」
兵から崇められる憂国の王子。ワイツは、まぎれもなく軍の支柱を担っており、どうしようもなく"死"に焦がれていた。目的を同じくするカイザを従え……また一歩、破滅への道を行く。
二人が見据えるのは勝利でなく落日。美麗なる黄昏。すべては自己の消滅のために。出兵も行軍も、死の晴れ舞台を整える要素に過ぎない。
「その瞬間が来るまで、私たちは女神の使徒を屠り続けよう。このように粉砕し、溶解し、焼却しよう。輝かしい、断罪の鉄槌をこの身に浴びるために」
ワイツがささやかな願望を語る途中、狂乱の宴が彼を手招いた。指揮台ある丘まで駆けつけた部下たちは、ギラスの暴走を報じる。自軍を襲う前に鎮静の助力を乞いに来たのだ。
加勢に歩む王子は一度だけ背後を振り返った。地べたに足を延ばす漆黒の少女を見た。
ライナス通して魔力を提供する魔女は、ゆるやかに身を起こし、彼らの行進を見守る。喪服を纏うとおり、この進軍は"葬列"に他ならない。
いまだ燻る焼香と司祭の悲鳴に興味を示したか、喜び勇んで彼女は跳ね、譫妄の坩堝に身を投じた。
白昼、眼下に広がるは隠しようのない地獄の光景。兵らは敵の死体を用い、純白の雪原へ思い思いに血糊をぶちまけた。
自分好みの背景を目にし、"不死者"は優雅に嗤う。
狂え狂え、戦魔の信徒。
正気に還れば命はない。