第五十七話 ワイツの懐柔
音を立てぬよう天幕から抜け出す。見張りの部下に対し、変化があればすぐ知らせろと伝えれば、兵らは顔を強張らせ頷いた。
周りに立つ彼らは武装し、針の落ちる音も逃さないよう天幕内部に全神経を傾ける。
ギラスは魔法により眠らされたのち隔離され、厳重な監視下にある。考えうる限りの対策は取ったものの予断は許されない。兵たちも恐怖で竦み上がっている。厳戒態勢に徹する様子は畏怖の表れだ。
休息所に向け歩を進める途中、一度だけ彼の寝台を振り返って思う。
今は静かだが、次に目覚める"彼"がどう動くかなど、誰にも予想できないのだ。
王子も食事と休息を、とライナスらにせがまれ、私は老戦士を見守る役目から外れた。言われた通りに簡易厨房に行けば……竃周辺を牛耳り、一心不乱に調理を進めるメイガンの姿がある。
戦闘時とは違った妙な集中と、何かに憑かれたような振る舞いは奇妙で、今は話しかけるべきでないと判断するに十分だった。
彼の手下たちも遠巻きに見つめるだけで、決して口や手を出さない。
「彼はどうしたのだ?」
「あの人……ものすごく落ち込むと、ひたすら料理して気を紛らわせるんです」
たまたま近くにいた暗緑髪の少年、テティスに問いかければ小声で返答された。以前、森でライナスに言い負かされ、自信を無くした時にも同様の行動を取ったらしい。あの夜食は彼の気晴らしの産物だったのだ。
今回の出来事も失態と受け止めているのだろう。メイガンは乱れた心を鎮めるために、鍋の中身をゆっくり混ぜ、香りを吟味する。今後を思案するように、火加減を注意深く調整した。
挫折してもこの通りに振る舞うなら好都合だ。大いに悩み、惑えばいい。
「ねえ……メイガンさん。その、いろいろ残念だったけど……そろそろ元気出さないと。また明日からみんなで戦うんだし……挽回の機会はきっとありますから」
料理の完成を察し、少年は皿を持って配膳を手伝う。同時に彼を案じる言葉を贈った。
テティス、と……メイガンは重々しい声音で返す。
「……あん時、おまえも俺に寄ろうとしたな」
「え? ……はい。でも、僕は遅かった。兄貴に……先越されちゃった」
悲痛な顔で語るのは、メイガンを庇って死した仲間について。あの無精髭の男はテティスにとって傭兵の先輩格に当たる。
兄貴と尊敬を込めて呼び……いなくなった悲しみと、自身の不甲斐なさに項垂れた。
「ごめんなさい。もしかして、僕が間に合ってたら……メイガンさんも、兄貴も助かったのかな。はは……駄目だなあ、僕。弱くて、情けなくて……あなたの手下でいさせてもらってるのに、何にも役に立てない」
「違う、そういうのやめろ。俺のためとか言って死ぬのは無しだ。すげえうぜえし……俺の活劇を台無しにする行為だ」
静かに言い切った彼は手下の輪を見渡して、最後に私を向く。何かを確信して頷き……厳かに語り始める。
惑いは戦士の心を一巡し新たな誓いの形となった。今までになかった威厳を纏い、彼は告ぐ。
「俺は"メイガン"だ。世界において、聖泉の加護を受けるただ唯一の民族……その戦いと生き様は余すことなく後続に語られ、伝説となる。そして今、不死者"聖女"を討つことができれば、俺は一族史上かつてないほどの栄光を手にできるだろう。それは……ここにいるおまえらも同じだ」
仲間たちはさざめいた。隣の者と囁きあい、彼の真意を汲み取ろうとする。
この世のどこかにある秘境。そこから狩人たちが旅立ち、数々の武名を轟かせた。
皆の前に立つ男はその勇ましい流れを汲んでいる。これから伝説を紡ぐだろう。そして、ここに集った仲間もまた……
「ちゃんとこの意味を理解しろ。俺に同行するなら気を張って戦いに赴け、揺るがねえ信念もって剣振れ! その勇姿を、俺は記憶する。旅が終わったら故郷に戻り、新たな伝承を加えよう……この戦いを聖泉へ伝える。その時、いっしょに戦ったおまえらも、俺と共に"永遠"となるんだ」
静寂ののち生じたのは、確認の問いかけだった。
本当に俺なんかが讃えられるのか。どこにも居場所のなかったら俺が。誰にも認められず、求められなかった己を、必要としてくれるのか。
あなたが遺す偉大な伝承に、この名前を刻んでくれるのか……と。
メイガンはすべてを肯定し、確約した。
誓いの盃もとい、皆の椀に鍋の中身を注いで、仲間たちは恭しく口をつける。
私にも同様に配られたので飲み干した。いつものように彼の作る料理は美味だが、今回のはどこか物足りない。
「味付けを変えたか?」
「……塩がもうねえんだよ」
この言葉を聞くやいなや、テティスは嗚咽を漏らし始めた。顔をくしゃくしゃにして啜り泣くさまを、今だけは誰も殴ろうとしない。
再び見張りをするべく、天幕を捲ってぎょっとした。
茶の瞳が開かれている。感情の色もなく空虚に天幕上部を見つめ、鎖で戒められた両手首を持ち上げて呟く。
「こんなもん意味ねえだろ。どんだけ縛ったって、俺なら燃やして脱出できる」
「……不自由かと思うが許してくれ。そうしなければ、皆が納得しなかったのだ」
穏やかな口調はもとの"ギラス"のままだ。けれど周りの状況は変化し、二度と戻らない。
兵たちは彼に恐れを抱き、接近を拒絶するだろう。彼自身も、忌まわしい記憶を思い出してしまった事実を覆せない。
微細となったが、魔法はまだ続いている。彼の周囲には、無意識に発現した火山灰がちらちらと舞っていた。
「落ち着いたわけではないだろうが、今のあなたはまともに見えるな」
「まあな。"あいつ"は遊び疲れて寝ちまったんだろう……なにせ、まだガキだったからな」
そうかと受け止め、深く問わないでおく。必要な事項はライナスから聞いたが、精神世界での展開は当事者にしか実感できない。
信心深い司祭を燃やし、私たちを襲ったのは……"ギラス"が生まれる前の彼。
十にも満たない少年の人格は、心を壊された復讐を遂げんと、老戦士の肉体、技術、知識を支配し、自らの歩いた地獄を見せつけた。
今こうして対面する人物も、果たして無害なのか判別つかない。処遇について考えるなか……ギラスは鷹揚と身を起こし、近くの水差しに手をかける。
私はその"水"について警告を発するも、彼はよほど渇いていたのか、器にも注がず直接呷った。
……そしてむせる。私は背を叩いて介抱し、注意が遅れたことを詫びた。あれは先ほどまで私が個人用に飲んでいたもの。
「味は保証しないと言ったはずだ。私が魔法で発現した水だからな」
「っ……血の味がするぜ」
「仕方ないだろう。私が魔法として覚えたのは、幼い頃に暴行を受けた後で飲んだ水……口内で生じた血は吐くか、飲み込むかしかなかったのだ」
咳き込む音が収まり、呼吸が落ち着いたと感じてから、強い力で寝台に引き込まれた。
彼の理性は戻ってなどいなかった。人を恨み、憎んだ思いが去ることはない……そう思って、なんとか逃れようと身構えたが、私の首に腕は回らなかった。
危害を加える気は無いようだが、戒められた手首は私の着衣を固く握り、離れるのを良しとしない。
「ワイツ! う、あああ……ワイツ、教えてくれ!! 俺はいったいどうすりゃいい? こんな呪いを抱えたまま、この先どうやって生きていけばいい!?」
「何を言っている。私は、あなたに教えられるような答えなど持っていない」
「いいや! あんたの過去はネリーのお嬢さんから聞いている!! ほんの小さな時から、恒常的に受けてきた暴力と屈辱の日々……忘れたわけじゃねえだろ、今も魔法にできるんだから! そんな記憶を持ちながら、なぜあんたは心を壊さなかった? どうして今も正気でいられるんだ!?」
自分よりずっと年下の私に縋り、幼子のように泣きつく。混乱しきったギラスの心は私を同胞と錯覚し、生きる術の教授を求めた。
私は震える肩に手を置いて宥める。
「あなたと同じだ。私も信じている。守るべき、美しいものを知っている……私にとっては"曹灰の貴石"。ニブ・ヒムルダ王家の一族がそうだ」
「ああ、そうとも……ランディとエトワーレ。あいつらこそが俺の"星"。出会えたこと、立派な戦士に育て上げたことが、俺の誇りだった。あの二人は、いつか必ず英雄となるだろう。その手始めに……俺の心から救ってくれた」
この様子からして私の賭けは間違っていなかった。彼は悲惨な過去に対抗できる、美しい記憶を持っている。
白金と橙という……珍しい髪色の若者たち。彼らとの思い出が、ギラスの理性を保つ鍵となる。
「だが、今となってはあいつらに顔向けできねえ。このざまを知られるわけにいかねえし、怒りに囚われれば、俺はまた"あの地獄"を再現する。今も頭ん中で声が止まらない! あの記憶が、恐怖が繰り返し流れるんだ!! 逃れるには……もう死ぬしか考えられねえ」
「駄目だ。自死など絶対に許さない」
「止める理由はないはずだ! 俺は味方を殺したんだろう? 制御もできねえ、暴れ回るしかできねえ俺なんか、処分されて然るべき。こんな俺に、"あたたかな家"など望むべくもなかったんだ!! それに……もしも俺の魔法が、あいつらを巻き込んだらと思うと……」
「大丈夫だ、ギラス。何も心配はない。彼らとの絆が"あなた"を最後まで留めてくれる。現に一度、地獄の景色から戻って来られたではないか。あなたの"星"を、あなた自身が信じなくてどうするのだ?」
顔を上げ、ギラスは掠れた声で私の名を呼ぶ。その目は、闇夜に差した唯一の光明を私に重ねていた。
間もなく彼を懐柔できる。尽きぬ復讐の炎が手に入るまで、あともう少しだ。
「私にはあなたが必要だ。私たちの"守るべきもの"のためにも、ここで女神の使徒を討たなければならない。ともに聖地へ行こう、ギラス。私はあなたを裏切らない。身代わりに捧げたりもしない。旅路の過程で、果てることがあったとしても……それは私も死ぬ時だ」
「……ああ、ワイツ。あんただけは俺を……」
「ワイツ王子、どうじゃ? ギラス殿の様子は……」
「ライナス、待て! 入ってはいけない!!」
瞬時に場が緊迫する。声の主は気配も読まず、呑気な声かけで説得を断ち割った。
休火山のようだったギラスに再び火が灯る。蘇った憤怒は降灰の魔法となり、天幕内にて吹き荒れた。
「貴様……! ライ、ナス……!!」
「ギラス殿! いつの間に、起きて……!」
内部に入ってはじめて、ライナスはギラスの覚醒に気づき、間近からの殺気に当てられ座り込んだ。
私は年長者たちの間に滑り込み、憎悪の視線を一身に受ける。
「ギラス……駄目だ、いけない。ライナス殿もメイガンもかけがえのない味方なのだ。これ以上、仲間同士で血を流すことを、私は望まない」
「……わかっている、ワイツ。わかって、いるんだ……今は殺さない! 少なくとも、俺の抑えが効くうちは……」
細首を折ろうとした右手を抑え、ギラスは身の内の衝動を耐え忍ぶ。
同じ軍にある以上、どうしても顔を合わせることにはなる……ただ早すぎた。壮絶な仲違いをした彼らは、また互いへの思いを御しきれない。
「俺の敵は"女神"だけだ! 司祭どもを、教主もろとも焼くのが先だ。でもな、貴様への恨みが消えることはねえ。だから、ライナス殿!! ……この旅が終わったら、全力で俺の手から逃げてくれ……!!」
「否! 我慢などする必要はない……これはすべてわしの罪なのじゃ! 約束しよう、ギラス殿!! すべてが終わったあかつきには……必ずおぬしの手にかかって殺されよう! おぬしの過去が少しでも軽くなるよう、かの悪夢がわずかでも安らぐよう……この老いた命では、もはやそれくらいのことしかできぬ!」
老魔術師へ黙れと叫んだ私の声は、より大きな咆哮にかき消された。
ギラスはこちらに躍りかかる。ただし、私もろともライナスを害そうとしたのではなく、天幕の出口へ走るためだ。殺意を抑えるため、同じ空間からの退避を選んだのだ。
「すまぬ。本当にすまない……ギラス殿。わしは強力な魔法が見たかったのではない……おぬしを最強の戦士にしたかったわけではない! ただ、わしの……"腹心の友"になってほしかっただけなのじゃ……!!」
私の足元に蹲り、ライナスは慟哭する。今の老人の主張は思い詰めた末の考えだろうが、復讐鬼への献身ほど無意味な行動はない。
ギラスは残された理性を総動員し、彼を自身の殺戮の手から救おうとしているというのに……
どこまでも彼らはすれ違う。
さめざめと泣くライナスは、大柄な気配が今やっと天幕を離れたことに気づきもしない。