第五十四話 ワイツの災害
逃走の戦列は火岩の落下に阻まれた。足が乱れたその隙を溶岩の洪水が分断する。空と大地から殺戮の手が伸び、兵らを黄泉へ引きずり込もうとしていた。
理性を失ったギラスの魔法は、人そのものを敵視する。灼熱は意志を持ったかのように命ある者を追いかけ、斃れた者を鈍色に埋めていく。
かろうじて逃げ切った前列の部下は、私の安否を問うた。放心状態のライナスを庇い、列の後半部を走っていた私たちは、向かう先を炎熱で侵食され、逃走経路を失った。
先に行った者たちを見るに、一定の距離から先へは噴煙も届かないらしい。不死者が有する千年の魔力でも、あの魔法の発現に限りがある。
ただし、活動範囲外に至った火炎は、消えることなく場に滞留する。吹き溜まる溶岩は徐々に嵩を増し、彼岸の安全地帯は遠のくばかりだ。
過去、ギラスの身に何が起こったか知らないが……応報への意欲は無尽蔵だ。私たちを逃す気はないとみえる。
振り仰いだ豪炎の彼方……悠々と前進するギラスの巨体がある。今、殺気を向けているのは老魔術師ではなく、司祭たちの方だった。"生贄を迎えに来た"という魔女の発言からの激昂……ギラスは神に対して激しい敵意を剥いている。
司祭に近づくごとにギラスの顔は青筋立ち、茶白の髪は憤怒に震えた。聖句を浴びるたび、彼の怒りは煽られる。さながらあれは、炎へ薪を喰わす行為に等しい。
「憐れな豪鬼よ。何ゆえ怒り狂うのです? 理解が欲しくば聴講を。救済なら聖地にございます。女神様がおわす潮騒の聖堂にて、洗礼を受けられよ。されば怒りも安らぐはず。かの御方はまさしく、あなたのような迷い子をお待ちなのです」
「待ってどうする? 取って食う気か!? 貴様らはいつもそうだ。他者の命で成り立つ聖地は、さぞかし心地良い楽園らしいな!!」
返事は重い斬撃とともに降る。正気を欠いた応答は熱風に乗り、私たちにまで伝わった。司祭たちはここから遠間の、真逆の方面に立っている。距離開けて見るからこそ、ギラスの魔法の全貌がよくわかる。
「俺は貴様らを赦さねえ! 甘言吐いて、欺瞞を説き……犠牲をもって世界を統べる神の遣いども!! 女神に捧ぐため、手折られた花の痛みがわかるか? 生きながら焼かれる子羊の苦痛がわかるってのか!?」
怒りを伴った剣は鈍重なだけに、司祭が一歩引いただけで容易く躱される。背景変化と噴煙、溶岩の流動といった、実害ない魔法と断じたか……彼らは微笑み浮かべて、手を差し伸べる。
包囲して力で抑え込めばいい。そんな甘さは、剣の軌道に生じた流熱に切って落とされた。
「ご、ばっ……ぎゃああ……! …………!!」
「ひっ……! そんな……なんだ、この魔法はっ……!!」
頭から熱を浴びた司祭は悲鳴も唱えられず、全身覆う炎熱を痙攣で表現した。起こせない身で激しく悶え、助けを求めるべく足だけで這いずる。その様子は、胴の絶たれた百足が暴れまわるような醜怪さがあった。
生に足掻き、もがく時間は長かった。上体から溶岩を浴びた司祭はまだ息絶えない。
女神への信仰が強いから苦しむのだ。全身焼け爛れる状態から復帰できる術があれば、救いはあるのだろう。しかし、治癒を求められた司祭たちは不快そうに退き、不可視の力を使ってまで仲間の接近を拒んだ。
「俺を救いたくば、この魔法から生き残る奇跡を見せてみろ。今から本気で発現すんのは、世界の真実の姿だ! 神の慈愛なんか存在しねえことを、俺がたっぷりと味わわせてやる!!」
殺戮の表明を契機に……ギラスは司祭たちへと踏み出し、斬り掛かった。
高い魔力量を誇りながらも、司祭は退いた。老戦士の魔法に対し、対処する方策がないことを示すものだが……あれが正しい行動だ。襲いくる災害を前に、人ができるのはそれしかない。
ただの剣士の技量では司祭に通じない。仲間が屠られ心は動揺しているが、信仰を失うまでは遠い。司祭の脅威は知っているはずだが、ギラスに恐れはない。怒りのみが熟練の戦士を突き動かす。
凶器は貪欲に聖者の死を求めた。彼らの血によってでしか、渇きを癒せないとでも言うように。
幾度防がれようと、捻じ伏せられかけても、ギラスの灼熱は前進を止めない。そして、司祭といえど怒りのすべてを回避することは叶わなかった。
剣先が通過した数秒後……その軌道に溶岩の雨飛が発現する。黒煙と灰を交えて爆ぜ、散在に聖衣を焦がす。
溶解した岩石が彼らを囲む。空には熱気ある灰燼が渦を巻いている……逃げ場は断たれた。ならばあとは死ぬしかない。殉教の"歌"を使えど相討ちが精々だ。
「ライナス殿!」
殺戮者のみでなく、私からの呼びかけからでも老魔術師は震え上がった。ライナスはカイザに縋って立ち、取り残された兵たちに守られている。灼熱の状況において彼からの魔法を失えば、私たちなど蒸し焼きになって終わりだ。
「いつまで下を向いている、早く脱出の術を話さないか。この事態を正確に把握しているのはライナス殿だけだ。私たちの生存はあなたにかかっているのだぞ!」
「……ワイツ王子や。悪いが……何を話そうと無駄じゃ。"魔女"殿が力を貸していようといまいと、ギラス殿の崩壊を止めることはできぬ……燃える大地の魔法は、故郷の山岳噴火の経験から得たもの。それも、ただの被災ではない。ギラス殿は天災を食い止める人柱として、火口に投げ捨てられる予定の幼子であった」
呪具に顔を半ば埋めるようにして、ライナスは気弱に言う。真実を透かして情態を見ても、自助の方策に繋がらない。
「だが生き残った! 生き残ってしまった……! その証拠に、火焔はギラス殿の後を追うよう発現する。災害によって傷ついた事実はないからの……しかし、忘れることなき記憶が蘇った以上、彼の命続く限り発現は止まらぬ。最も見たくない、忌まわしき景色を上映し続ける……彼にとって、責め苦以外の何物でもない」
「ふん。不死者を剥がしてもあのままか……やっぱ無事に生き延びたきゃ、"柊の"を殺さねえといけねえようだな」
さして動じず処分を決め、メイガンは濃紺の尖髪を火元へ向けた。狂ったギラスをこの場で切り捨てるべきと判断する。せめて司祭を虐殺させてから。魔女が手を貸し終えたのち、"水"を使って葬るつもりなのだ。
それは困る。彼を憐れむライナスと同じく……私はギラスを死なせたくない。
新たに発現したあの魔法は役に立つ。私が受けた"曹灰の貴石"からの命令……信者を鏖殺せよとの命令を遂行するのに効率的だ。彼の憤怒を聖地に撒き散らし、陰に隠れた聖徒を炙り出したい。
あの噴火を鎮める力が"聖女"にあれば、私の望みは確実に報われる。火の砕屑と聖なる光波の対流に身を躍らせる。それだけで終劇の舞台は完成だ。ここまで駆けずり回ったことに比べれば、なんと単純な作業であることか。
「ああ女神様、我らに力を。暗黒でもがく幼子を、正道へ導くための光を――――」
「おのれ……まだ神を信じるか! 緑栄え、花咲く地表が正しい世の姿だとほざくか!! 涼しい顔で犠牲を踏み躙り、上っ面だけを愛でる性根には吐き気がする。ならば俺を見ろ。俺が駆け抜けた炎獄を見ろ!!」
剣尖の数だけ交差する溶岩流。網目じみた魔法は全方位にわたって敵を襲う。もはや火傷を抱かぬ聖者はいない。それでも祝詞を唱え、強化する彼らに業を煮やし……最大の魔撃を放たんと、ギラスは溜めを開始する。
攻撃を中断していたギラスは緩慢に剣を構え、上空を指し示す。
風が、灰が、火煙が……老戦士の周囲で凝縮する。沸き立つそれは雲のよう。ただし降らすのは死の灼熱だ。高温の雲海は視界を焼くほどの閃光を内包していた。
「この光景を見た者は、"神は死んだ"と嘆き叫んだ!!」
逃れられないものが来る、皆がそう予覚する。熱と殺気と恐怖に当てられた司祭たちは、耐え切れず"歌"の唱和を開始した。
未来を考える理性は蒸発し、数秒を生きることに執着する。だが、それでも地獄の発現を妨げられない。
そこに来てはじめて……彼の詠唱が大気を震わす。
「"大熱雲"――――灰よ。皆斉しく呑め」
振り下ろした剣に沿い、凄まじい焼却音とともに熱の粉塵が流れ下る。
司祭の歌唱はわずか三節で絶えた。ありとあらゆる手を尽くしても、あの流炎を防ぐことは不可能。"聖女"の祝福を受けたと言えど……消火、防煙を成せる魔法はなく。魔力の放出ですら炎塵の侵入を防げなかった。
極大魔法が通り過ぎ、残されたのは司祭の残骸。祈りを忘れ、苦しみもがいた体勢のまま、黒炭と化している。
身体中に熱の灰を浴び、呼吸をもって内部も焦がした彼らは、燃え殻が降りこもっただけで崩壊を遂げた。
ギラスの立つ一点を除き、後に広がるはただ灰色の生なき世界。人もなく、神もない。光も届かず、闇黒だけが存在する……それが、ギラスの確信した世の在り方だった。
「ライナス殿……あれは……?」
「……見ての通り、火砕流じゃ」
「は!? 馬鹿言ってんじゃねえ、ありえねえだろ……そんなことできるわけあるか……!! "柊の"は、"あの現象を間近に見て、生き残った"ってのか!?」
驚愕から息を吹き返したメイガンは、不可解を怒鳴り散らした。恐怖したという、泉の戦士に相応しからざる態度だが、心折れて黙る者よりはましな部類だ。
昏い瞳で、老魔術師は認める。
「そうじゃ。ギラス殿が魂に秘めていたのは最上級の心的外傷。絶望が大きいほど、受けた衝撃が巨大なほど威力は増す。魔法にできるとは……そういうことなんじゃ」
「でっ、でも……すごい! すごいじゃん、おじさん!! これなら僕たち敵なしだ!!」
思慮の足りない少年は、気を取り直したようにはしゃいで言う。彼がいれば、あの魔法があれば、敵わない信者はない。不死者"聖女"も容易に倒せると……
「……本当にそう思うか?」
「え?」
「これから彼の相手をするのは、私たちなのだぞ」
次幕の展開を感じ入り……少年は退いて、後ろ足で砂を掻く。隣に立つ傭兵の、生唾を飲む音が聞こえた。彼方を見やる軍のなか、この災害に怯えぬ者はいない。恐怖を感じぬ者はいない。
黒灰の降り注ぐ煉獄にて、ギラスの幻影が姿を見せた。眼光は焼却し終えた司祭を見捨て、次の標的を射貫く。
豪炎の復讐鬼はこちらへ剣を向け、殺意の噴煙を燻らせた。