第五十三話 ワイツの避難
わけもなく悪寒がした。指揮官の天幕において、部下から偵察結果の報告を受けるなか、誰かの視線が肌を舐る。それは着衣の下を暴くような……欲を持って触れる場所を見繕うような不快感。
幼い頃、小児愛趣味の貴族から受けた、無体の前兆にも似た感覚だった。
この歳まで成長してからは、さすがに慰み者としての役割も卒業している。ヒムルダ王族"曹灰の貴石"からの命令でもない限り、身を穿たれる行為はひとまず終わりを告げた。
活動の場が寝台から戦場へと広がったとはいえ、常に求められる立場であることに変わりはない。狙われるのが身体から生命へと転換したくらいだ。
「……これは偵察隊の所見ではありますが、ここまで活動の痕跡がなければ、これ以上戦闘に出る信者はいないかと。残すは聖地の精鋭だけとなりましょう……王子? どうなさいました、何か説明が足りぬ箇所でも……?」
「いや……十分な働きだ。北の街道に敵がいなければ、途中で奇襲を受ける心配もない。軍が解体されることなく、目的地に到達できるのは喜ばしい。これで聖地攻略の策だけに集中できるな……」
その後も続けて意見を述べる。自然な動きに徹して、違和感などないように振る舞う。
重要なのは警戒しているのを感じさせないことだ。このような場合、相手の一方的有利を崩してはならない。
……いつぞやの、礼を欠いた邂逅を繰り返さぬためにも。
私は適当に話を続け、傍の机に手を伸ばした。部下からの情報を確認すべく、地図を引き寄せようと見せかけ……その下に置かれた短剣の鞘を弾き、勢いつけて振り抜く。
標的の見立てなどない。いるか、いないかの確証もない。どう推し量っても天幕には私と部下の二人しかおらず、その狭間には虚無しかない。
しかし、私は直感を信じた。完全に気配を断ち、神霊の如く降臨できる者と……私はすでに出会っている。
「……っ、王子! 何を……!?」
「やはりか……!」
急に刃物を一閃させたのを見、部下は驚いて仰け反った。彼には感じられなかったようだが、小さくもこぼれた悲鳴と、皮を裂いた手応えが敵の存在を証明する。
とは言っても、今の発見は偶然だ。適当に剣を振った結果に過ぎない。狙った空間に何もなければ、部下の喉を切り裂くはめになっていた。
この場にいるのはまったく気配の掴めぬ敵。久方ぶりの"当たり"だ。ここまで優れた隠密術を持つのは、厚い信仰心を持つ証拠。それこそ、森で遭遇した高潔な司祭と同等であるほどの……
「っ……そうですか、お気づきになりましたか。ああ……それもまた哀しいこと。せめて眠りのなか、安らかに女神様の御胸へ誘おうと思ったのですが……」
見破られたことに観念し、聖者は清き姿を現した。当初から指揮官を狙っていたか。蝋燭の火も透過するほど周囲に溶け込み、私が単身になる時を伺っていたのだ。
お下がりください! と部下は勇ましく声をあげ、私を庇い前に立った。思うに、彼ら偵察の者が信者たちに発見され、戻る過程で陣の位置を教えてしまったのではないだろうか。
浅く肌を裂かれようとも、相手は熱烈な信者ゆえに対話を試みようとする。部下が代わりに応対し、吐く言葉すべて一蹴するなか、私はとある期待に胸を焦がす。
身を潜めていた信者は彼だけではあるまい。偵察隊が戻ってから小一時間が経過している。私の寝首を掻く役以外に、大勢の司祭がこの場にいるとしたら……今度こそ望みが叶う。
安寧ある最期など穢れた狗には不似合いだ。祈りの言葉も、聖句もいらない。女神からは殲滅の大魔法だけを賜りたい。万里に栄えある火柱を以て、疎ましき痕跡の墓標としてほしい。
この魂を憐れむなら、どうか私に爆炎を。
灯火を潰し天幕内を暗闇に染める、司祭が怯んだ隙に幕を切って脱出した。同じく逃げた部下が敵襲を広報し、私は見晴らしの良い場所で信者含む全員の注目を集める。
「総員戦闘用意!! 陣に女神の使徒が侵入した! 至急、隊列を整え応戦の体勢を取れ!!」
「しかし、ワイツ王子! 攻め手の姿が見えません、敵はどこにいるのです!?」
「今宵の使徒は"かの司祭並み"だ。本気で隠れられれば姿など感知できない、上空を歩く者もいるだろう……メイガンを呼べ! "水"で地表を清め、追い立てろ。空には氷撃の矢を射れ。あとは、ライナス殿からの助言を……っ!」
部下に指示を飛ばす途中、陣に閃光と爆音が轟き渡る。衝撃で視界が顛倒し、立つ者すべてが地に伏せ、呻く。爆破の方向に気を払えば……地が割れ、出血の如く火岩が噴き出る惨状を目にした。激しく炎上するのは、老魔術師の天幕だった。
着弾した魔法はまるで"火山の噴火"を模したかに見えた。私たちは完全に後手に回っている。手始めにライナスから葬るとは、彼もまた司祭に影から狙われていたか。私室にいるのを確認し、休んだところに火をかけたのだ。
またしても個人的な要望は信者に通じなかった。彼らは潜伏したまま、私たちを焼き殺すつもりのようだ。この戦法だと、私の願いが叶う確率は五分五分と言ったところか。
どこにいるかわからない敵に対し、離散して戦うのは無謀だ。手勢は徐々に集結し、盾を並べて守護と反撃の戦列を形作る。部下たちからの私を招く声が頻繁に届いた。指揮官が隊列に加わらなければ追撃も始まらない。
招聘に応え、走ると同時にカイザが寄ってきた。彼女が率いた兵の殿をメイガンが疾走する。
「くっそ! おい、ワイツ! 信者がうようよ隠れてやがるぜ……って、あの爆発……じじいは? やられたか?」
「ああ。残念だが、あの燃え方では助かるまい」
彼は高位の魔術師だが、敏捷さや敵意の感知に関しては圧倒的に劣る。不意に発現した火炎魔法など対処もできるはずがない。
私たちが老魔術師の生存に見切りをつけたその時、火元から暗褐色の何かが転がり出た。歪な球体をしたそれは、毬のように跳ねながら向かってくる。メイガンが足で止めると、硬くまとめられた呪具が解け、老爺の姿が現れた。
「まあ、ライナス様。よくご無事で」
「本当にしぶといじじいだぜ。しっかし、その布便利だな。汎用性高すぎるだろ」
暗褐色の帯布はライナス特注品の呪具だ。魔力を纏わせ振るうことで殴打と切断、自身に巻き付けて絶対防御の守りも可能。ただ……私でも気配を掴むのでやっとの司祭を、なぜ老人の彼がやり過ごせたのか疑問に残る。
不屈な気性の老魔術師が、ここまで脅えた表情をしていることも。
「……あ、ああ……ワイツ、王子。わしは……」
「落ち着いてくれ。恐ろしい気持ちはわかるが、そのように震えるなどあなたらしくない。それより、この場を切り抜ける策はないか? 反撃の手段もあれば話してくれ」
「わしは……なんということを、しでかしてしまったのか……」
「おい、じじい! いつまでボケてやがる! 腰抜かしてる暇なんかねえぞ!!」
呆然としたままのライナスを、メイガンは怒鳴りつけて知恵を強請る。右肩に手を置かれ、力を込められても老人は応じない。それどころか楚々と涙まで浮かべる始末。これにはメイガンも不信がって、眉を吊り上げた。
放心の理由はわからないが、引き摺ってでも戦闘に参加させようと呪具を掴んだとき、ワイツ団長……とカイザが注目を促した。
袖引かれて同じ方を向けば純白の司祭服が並んでいる。数人は空から降り立った。間違いなく、彼らは清廉な司祭。不死者"聖女"を崇める……狂信者の群れだ。
「なぜ、これほどまでに厭うのでしょう? どうして女神様の御手をお受けにならないのか……私どもにはわかりかねます。ああ、どうかお答えいただきたい! あなたは幸せを求めないのですか? 侘しく孤独な生を、いつまでも続けるというのですか? あのような"噴煙の魔法"を使ってまで、女神様のお言葉を拒絶なさるなんて」
「敵対の理由など語るに及ばない。第一、あの魔法は君たちのものでは……」
「違う!! 違うのじゃ!」
対話を割って、否定の言葉が叫ばれた。次いで逃げよと声がする。敵も味方も関係なく、平等に説かれた危機……
意味を問うため視線を向ければ、老魔術師は耳を塞ぎ、現状の何もかもを否定するよう強くかぶりを振った。
「……う、ああ……あああっ!! ……すまぬ! すまない、ギラス殿!!」
「ライナスっ!!」
発された吠声は殺気を孕んでいた。年季ある傭兵……ギラスの貌は憤怒で彩られ、赤々と閃耀に照らされる。実直で大らかな彼の気風は、壮絶な敵愾心に塗り替わっていた。
思い返せば、彼は火山の魔法を得意としていた。足元を起点とし流れる灼熱、湧く黒煙、風に流され舞う灰は……熱り立つ彼が発現したもの。
「殺す! 殺す殺す殺す!! 悪夢の始まりは貴様だ、ライナス! 躯をここに置いていけ!!」
「ギラス! いったいどうしたというのだ? なぜそのような言動を」
「ちいっ……なんだよその面は! 気でも触れたか"柊の"! 獲物の区別すらできねえのか!?」
「何があった、ライナス殿? 魔法でギラスの過去を取り戻したいとは言っていたが、まさか失敗したというのか?」
事情の掴めない者らに対し、私は説明と確認の意を込めて話す。
宵の始まりに、ライナスからある魔法の許可を求められた。ギラスに施したいという術は、深層心理に残された情景を再現するものだと説明を受けている。うまくいけば、家族との幸福な記憶を回帰できるとも。
外目からでは簡素に見える魔法だが、他者の心に直接作用するものだ。ライナスが記憶の採掘にしくじった結果、彼の精神は汚染されたのかもしれない。
「いいや、わしは成功した! 術はこれ以上ないほどの大成功……!! おかげでギラス殿は過去を得た! 想像を絶する規模の、絶望と裏切りの記憶を一挙に取り戻したのじゃ!!」
ライナスは取り乱して、私に退避の指令を迫った。悲哀で動かぬ身体の代わりに、呪具を使って縋りつく。
「ギラス殿は幼少期の記憶を失っていたのではない……当時の心は刺激に耐え切れず、一度死んでいたのじゃ。なのに……なのに、わしはその傷口を掘り返してしまった! 人を恨み、世界を呪った人格を呼び覚ましてしまったのじゃ!!」
「では、あの魔法は忌まわしき記憶の再現か?」
「左様。かの者はもう、皆が知る"ギラス"殿ではない。思い出してしまえば最後、眼前の生命を滅ぼすまで、魔法を続けるじゃろう…………皆、逃げよ! "あの光景"が発現されれば、諸共死ぬぞ!!」
ここまで狂乱するライナスは見たことがない。言い分には理もなく、筋も通っていない。だからこそ事態の切迫さが身に染みる。それに、あの焔から感じる畏怖感……これは本能だ。
私は兵たちに退却を命じた。信者に意図を汲み取らせぬため、声を出さず手振りのみで示す。緊急の指示だと悟ったか、彼らは粛々と避難を開始した。
「私たちも退こう……それでいいのだな、ライナス殿」
「ですが、ワイツ団長。あの状態のギラス様を置いていかれるのですか?」
「あーあ。おじさま、かわいそう」
私の判断を責めるかと思いきや……同情する少女の声はギラスに直接向けられていた。現れた漆黒を見て、司祭たちに緊張が走る。
無理もない。本来なら、彼女は信者の盟主より高位の存在だ。
不死者"魔女"。普段は自由奔放な少女そのものだが、今だけは年上の顔をして老戦士の肩に舞い降りる。後ろからギラスの首に抱きつき、茶白の髪を優しく撫でた。その仕草は幼子にするのと大差ない。
「つらかったのね。とっても寂しかったのね……あの噴火から、おじさまはたったひとりだけ生き残っちゃった。かわいそう……みんなと一緒に死んでいたら、苦しむこともなかったのに」
「潰す、焼く、必ず殺す……! ライナス!! 貴様は俺を裏切った。この魔法が見たかったんだろ!? 知りたければ好きなだけ味わえ、俺の魂を殺した炎だ!! 貴様が思い出させたんだ!!」
「いいわ。ちゃんと知ってもらいましょ。あなたがどんな地獄を歩いてきたか、その心がどうやって壊れたのか……みんなに見せてあげるのよ。大丈夫、魔力ならあたしが貸してあげるわ」
正気を欠いたギラスの瞳は、憤怒に煮えたぎって老魔術師を追いかける。けれども、魔女は近場を指さした。その魔法を浴びせるのに、他者との隔たりなど些細なことだ。彼らが合わされば途方もない破壊が成せる。私たちの足では逃れられぬほどの……
「見て。今も"あの時"とおんなじよ。そこにいる白い服の人たちは"生贄"を求めてる。選ばれた子を探してる……女神に、あなたの命を捧げに来たの」
途端、放たれた咆哮は兵全員の心臓を竦ませ、恐怖で縫い止めた。魔女が出した光幕……"魔光夜の銀詠"はギラスの記憶を反映し、灼熱に色めく。
これは、かつて彼が壊れた光景。私たちは生き延びられるだろうか……あの降灰から、大地を穿つ火焔の礫から……
「ほら。前を向いて、しゃんとして……嫌な記憶かもしれないけど、それを持つのは世界であなた一人なの。思い出を独り占めするのも、そう悪いことではないのよ」